大風の如く(7)

 啓人の叫びは空へと響く。

 気づけば、啓人は声を上げて泣いていた。涙は止めどなく溢れ、号泣していた。

 閑香を亡くしたあの日から、滲むことはあっても、涙を流したことはなかった。

 啓人は閑香が眠る海へと、涙を帰す。


 そっと寄り添う気配があった。

 流れる涙を拭うように、彼女は啓人の傍らに立ち、右手を優しく差し伸べる。

 閑香の迷い言が色を取り戻していく。陽の光を受け、陽の姿を現わす。

「……閑ちゃん」

 すぐにでも抱きしめたい衝動を抑え、啓人は彼女の様子をじっと見守る。薄い桃紅色の唇は開かず、今はまだ、何も告げてはくれない。


「本当に、閑香が……」

 更紗が目を見開いている。

 信じられないものを見るように。懐かしい友を迎えるように。

「高森……」

 純一が呻きをもらす。小刻みに指先が震えていた。彼女に向けて伸ばそうとして、しかし伸ばせない。

「驚いたな」

 巧はしばし我を忘れたように呆けた後、閑香と更紗を交互に見遣る。


 まるで啓人を含む四人の反応を確認するかのように時間を置いた後、二年前の形を取り戻した閑香の口が、ようやく言葉を紡ぐ。

「あのね、私……啓くんのことが好き。ずっと、ずっと子供の頃から好きでした」

 彼女がずっと伝えたかった言葉が、はっきりと啓人たちの耳に聞こえる。

「お魚が死んじゃった時、一緒に泣いてくれた啓くんのことを好きになったんだと思います。私、助からないと思うけど、どうかみんなといつまでも仲良くして下さい」

 少女は言葉を続ける。

 啓人の手を掴み損ね、海に沈もうとする絶望の中で、彼女が残そうとした言葉だ。

 迷い言となっても、皆に伝えたいと願った想いだ。

「……ずっと、君に謝りたかった。小学校の時、意地悪で、恥ずかしさで、愚かさで、無邪気に僕はあんなことを口にしてしまった。『泣いても良いんだ』と教えてくれた君を、僕は裏切った。

 そして、あの事故の時、君を助けられなかったこと。君の手を握り続けることができなかったこと。僕はどんなに謝っても許されないことをした。それでも、僕は謝ることしかできない。

 こんな僕なんて、いっそ死んでしまえば良かったのに……。どうして、僕が助かって、君が死んでしまったんだ……。なぜ、君は僕を責めてくれないんだ……」

 啓人の言葉に、閑香が答えることはない。迷い言とは、そういうものだ。

 ただ、自らの思いを伝える存在。対面にいる者の声を聞くことはない。

 それでも、

「私、啓くんのことが好き。……やっと言えたよ」

 繰り返される言葉に偽りはなく、死の間際の真実の声は啓人に救いをもたらす。

「うん……分かったよ」

 ようやく口にすることができる。真実に応える言葉は、真実以外にあり得ない。

「僕も……閑ちゃんのことが好きだ。ずっと、好きだったんだ」

 それを告げる資格は自分にはないと思っていた。だが、もう嘘はつけない。

 その告白に閑香が応えることがないことは知っている。彼女の迷い言に浮かんだ笑みは、自らが望む幻影かも知れない。

 だが、想いが通じたと信じる。ようやく、通じたのだ。


「純くん、野球頑張ってね。ずっと、応援してるから」

 穏やかな、しかし力強い口調で純一に語りかける。

「……高森。その言葉はオレにとっては呪いだった。かせになっていた。だから、野球を辞めてほっとした自分がいた。でも、お前は最後の最後まで、ただ純粋にオレの活躍を祈っていたんだな……」

 純一の声がうるんでいる。だが、それを必死に我慢している。

「ねえ、純一。以前に閑ちゃんが僕に言ってくれたんだ。泣きたい時は、泣いても良いんだよって。言葉は呪いにもなる。でも、救いにもなるんだ」

「……ああ。高森、オレ、もう少し頑張ってみるよ」

 そう絞り出すと、純一はその場に力尽きたように座り込む。

 そして、静かに吠えるように泣いた。


「たっくん、野球頑張って。純くんと二人でプロを目指すんだよね」

「……気軽に言ってくれるなあ」

 巧は鼻をすすりながら、苦笑いする。

「俺は純一なんかとは比べものにならないほど、下手くそだぜ。……でも、野球は好きだから、辞めないけどな」

「あと、さぁちゃんと仲良くね。私、たっくんがさぁちゃんのことを好きだってこと、気づいてたからね」

「……は」

 巧が抜けたような声を張り上げる。


「さぁちゃん、悩みを聞いてくれて、ありがとう。仲良くしてくれて、本当にありがとう。私、やっと啓くんに想いを伝えられそうだったのに。ちょっと遅かったかな。

 さぁちゃんは誤解されやすいけど、自分が大切に思う人にはとっても優しいこと、私は知ってるから。

 私の本、それはさぁちゃんにあげたんだからね。きっと大切にしてね。力になるはずだから。誰かに愛してもらうって、とても素敵で、とても大変なことだと思う。

 だから、誰とでも仲良くしなくても良いけど、大事な人とは仲良くしてね。たっくんのこと、決めるのはさぁちゃんだけど、私、応援してるから」

「バカね、閑香。私こそあなたにどれだけ救われたか知れない。ありがとう。あとね、ごめん。本当にごめん……。あなたが許しても、私は私を許すことはできないかも知れない。だけど、いつかきっと許せる日が来るような気がする。

 ……あげた、そうか、あの本はあたしにくれたんだ。でも、バラバラになっちゃった。……ごめん。新しいのを買って、それを閑香からもらったものだと思って、大切にする。ありがとう。

 ただ……あなたねえ、今の最後のはないと思うわ」

 声を震わせ、最後は苦笑いして、更紗は目に涙を浮かべている。

 啓人と更紗は閑香に対して罪の意識を抱えて、生きてきた。それが薄れることはあっても、消えることはない。

 一度刻まれた傷は、簡単には治らない。薄皮はたやすく破れ、傷口は再び顔を覗かせる。それでも、今日この日、この瞬間の閑香のことを覚えている限り、また傷は癒えるだろう。


 閑香は、まるで生前と変わらない。

 表情を取り戻し、感情を取り戻し、そして言葉を取り戻した、

 それはまさしく、消える直前にひときわ激しく燃え上がる、大きな炎だ。

 四人が返した言葉。

 それが決して彼女に届くことはない。

 ここにいるのは閑香ではなく、ただ彼女の言葉を伝えるだけの写し身だ。

 だが、それでも、彼女は笑う。彼女は涙を流す。

 閑香がそこにいれば、そうするだろうことと同じような顔をする。

「辛いこともたくさんあった。でも、楽しいこともたくさんあったよ。お父さんとお母さんのことは心配だし、まだまだ読みたい本がいっぱいある。

 ……ああ、やっぱり死にたくないなあ」

 閑香は寂しそうに言った後、

「私が死んじゃったら、みんな、どうかいっぱい泣いて下さい。泣いて、泣いて、どうか、みんなの涙が海になるくらいにして下さい。

 そうしたら、きっと海の底に眠る私も、みんなといつでも会えると思うから。

 じゃあね、バイバイ」

 閑香が手を振る。まるで、真昼の太陽が見せる幻みたいに、その姿はうっすらとぼやけていく。

 啓人はふらふらと、消え行く彼女へと歩み寄る。

 彼女の後ろ広がる青く深い海が、その行く先だとしても構わないと思った。

 しかし彼女は最後に、

「私は魚になって海の底で眠るけど、啓くんはまだ、こっちに来たらダメだからね」

 そう言い残して、本当に姿を消した。

「閑ちゃん……」

 彼女の残滓を探そうと、それでも視線を惑わせる啓人の肩に、

「まだ、来るなってよ」

 純一が手を置く。その手は大きく、少し温かい。

 巧と更紗は互いに視線を交わした。巧は照れたように笑うが、更紗は苦虫をかみつぶしたような顔をする。

 それも一瞬で、揃って閑香が立っていた方へと手を振った。

 詩葉の方を見遣ると、ただただ優しい笑みを浮かべていた。

 お疲れ様でした、と彼女の無言の微笑みは、雄弁に語っていた。


「ああ言われても、すぐには泣けないわね」

 更紗が困ったようにため息を吐く。

「家に帰ってから、心の中で泣けば良いんじゃねえか。……って、啓人はまた泣いてるな。さすが、泣き虫啓人だ」

 純一がからかうその声も、どこか優しい。

「ずっと、……我慢してたから」

 言いながら、啓人は涙を拭う。

「俺は家に帰ってからにしよう。……それにしても参ったな。まさか、こんな形で明らかにされるとは」

 困ったように頭を掻きながら、巧がぼそっと呟く。

「じゃあ、本当に?」

「まあ、な。というわけで、入舟先輩、ずっと好きでした」

 流れるような告白は、

「……お断り。今はそんなこと考えられない」

 あっさり、振られていた。

「今は、ってことはそのうち考えてくれるのかな」

「無理じゃないかしら」

「じゃあ、保留ってことで」

 巧はたくましかった。更紗と一緒の時間が取れる。だから、巧は最初にこの旅行に賛成したのか。

「純にぃ、付き合ってくれてありがとう。後は任せる。もう何も言わないから」

「……オレも少し考えさせてくれ。やっぱり、すぐに野球に戻るのは無理だ。だけど、進路と体については、大切に考える」

「うん」

「ところで」

 と、純一が切り出す。何ごとかと身構えると、

「腹が減ったな」

 という言葉と同時に、正午を知らせるサイレンが鳴った。

 祖母が持たせてくれた弁当を広げる。カモメがやってきたので、魚の切り身を分けてやった。

 食べ終わると、誰からともなく皆で顔を見合わせる。

「終わった、のか?」

「いや、多分……始まったんだと思う。僕たちのこれから、が」

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