大風の如く(6)

「藍川、待って」

 ようやくというように、更紗が硬い声を上げた。

 自らに言い聞かせる風に「私にしかできないことがあるから」と呟くと、

「あなたが勇気を出して打ち明けたように、私しか知らない真実を語らなくちゃいけない。そして……あの子に謝らないといけない」

 大事そうに持っていたバッグから何かを取り出す。

「ずっと悔やんでいた。魔が差したとしか言えなかった。……ううん、そんなことは言い訳に過ぎない」

 彼女が手に持つのは、一冊の文庫本だった。

 表紙には無地に青い小さな花があしらわれている。

 幾度となく読み込んだのか、くすんで色褪せている。

 タイトルは『智恵子抄ちえこしょう』とある。啓人も授業で習った覚えはある。詩人・高村たかむら光太郎こうたろうの詩集だ。

「私はあの子が大切にしていた本を……盗んでしまった」

 それは、更紗の罪の告白だった。

 二年前の旅行の少し前の日、閑香から誘われて、更紗は彼女と会う。

「あの頃が、家が一番苦しかった。旅行の費用なんてとても出せないって断ったけど、『私が貸すから。いつか返してくれればいいから』って、無邪気に言うの。

 凄く腹が立った。お金を貸すことがどんな意味を持つのかも知らない、何も苦労をしていないあの子が……憎らしかった。だから、旅行に行くことにした。そして、少し困らせたくて、この本を閑香の目を盗んで自分の鞄に入れた。

 でも……事故の直前、船室で閑香から、『両親が離婚するかも知れないの。そうしたら、引っ越すことになると思う。せっかく受かった高校にも通えないかも。こんな旅行の機会は二度とないと思うから、どうしても来たかった。さぁちゃんには無理を言って、本当にごめんね。ありがとう』

 そう、打ち明けられた。

 お金は閑香が少しずつ貯めたものだった。すぐにでも本を返そうと思った。

 だけど、閑香は『これから、啓くんを探しに行くんだ』って、私の話も聞かずに出て行った。戻ってきたら、ちゃんと謝ろうって思ってた。それなのに、もう二度と会えなくなるなんて。

 もし、もしも……この本を閑香が持っていたら助かったんじゃないかって、ずっと悔やんでいた。

 閑香が死んだのは自分のせいかも知れないって、思い続けることができなくて、私はすべてを過去へと追いやった」

 大切な本を胸に抱き、更紗は泣き崩れる。

 たとえ、その本が手元にあったからと言って閑香が助かったとは思えない。それは分かった上で、更紗は罪の意識を抱き、それに耐えられなかった。

 啓人と、同じだ。

 直接的に彼女の死を眼前にした自分の方が辛いとは思えなかった。

 誰もが皆、荷を背負って生きている。その重さは本人にしか分からない。

「藍川、私はあなたも怖かった」

 さらに続いたのは意外な言葉だった。

「僕が怖い?」

「あなたは、閑香の最期を看取ったはずだった。だから、あの子からきっと何かを聞いているって思ってた。私が犯した仕打ちをきっと藍川は知っているに違いないって。だから……あなたが怖かった」

「僕は何も知らない」

「……そうみたいね。それどころか、藍川、あなたも……そう、みんな間違うのね」

 更紗の瞳は涙に濡れ、しかし子供の頃のような明るい兆しがある。

「藍川が、閑香の最後の言葉を知りたいと言い出してからは、これまで以上にずっと怯えていた。正直、今でも怖い。あの子が何を伝えようとしているのか、知りたくない気持ちもある。でも……今なら、きっと大丈夫だと思う」

 更紗は詩葉に向き合うと、

「ありがとうございます」

 小さく目を伏せた。対する詩葉は黙って微笑ほほえむ。


 そして、更紗が啓人に手を差し出す。

「藍川、これはあなたに託す。あなたが持つことを、多分閑香も望んでいる。私や江崎、五反田にはあの子の姿はきっと見えないけれど、でも、できることがある。さっきうめヶ枝さんが言ったように」

 閑香の大切な本が、更紗の手を経て啓人に渡ろうとしている。

「あの子が欲しい言葉はここにあるはず」

「……ここに?」

「そう。光太郎が妻の智恵子に贈った、生涯に渡るほとばしるほどの愛を綴った、この詩集の中に、きっと閑香が欲する言葉がある」


 本を受け取ろうと、啓人が更紗に向かって手を伸ばす。

 その時――。

 まるで用意された試練であるかのように、強い風が吹いた。

 海から陸へ、東から西へと煽るように吹き付ける風は、幻の梅の香を運ぶ東風であり、そして懐かしい彼女の面影おもかげを届ける大風だ。


 書が、宙に舞う。

 更紗の手を離れ、啓人の手が掴む直前に、閑香が大切にしていた本が天高く巻き上げられる。

 そして、落ちてくる。

 詩集が開く。

 白い羽を持つ小鳥が翼を広げるように。

 再び夏の気配を帯びた風が吹いた。

 白い小鳥を遙か海の彼方かなたへ運ぶように。


 閑香が読み込み、そして恐らく更紗も読み込んだその形見は、折からの強い風にあおられ、空中で何度かふらふらと舞い、少しずつ、背中から解けていく。

 ページが、一枚、また一枚と、はらはらと踊り始める。

「本が……」

 いまや、閑香が大切にした本はバラバラになろうとしている。

 編まれて絡まる糸が、一本ずつ解けていくように。無数の言葉、無数の選択肢が一つ、また一つと、顕わにされていく。

 何枚かの頁は風に乗り、海へと飛ばされていく。


 海には、閑香が眠っている。

 ならば、その紙片は彼女のもとへと帰っていくのだ。


 啓人は走る。

 その中から、一つの言葉を選ぶために。

 閑香が遺そうとした思いを知るために。


 遙か宙を舞うその一枚に啓人は確かに『魚』の一字を見た。

「あれだっ!」

 自分が手にすべき一葉を啓人は悟り、指さす。

 だが、その頁は風に吹かれ、あらぬ方へと飛んでいく。


「純一!」

 その様子を見た巧が、近くの石を持つ。

「いや、無理だろ!」

「俺だけじゃな。だから、純一も頼む!」

 言いながら、巧は小石を投げる。だが、ひらひらと舞う僅か一枚の紙に簡単に当たる訳もなく、放物線を描いて、石は海に落ちる。

「早く! 純にぃならできるはずだ。だって、肩はもう治ってるんだろう!」

「それは……」

 巧の言葉はどういう意味なのか。それを聞いても、純一は石こそ握るが投げることはしない。その間に巧が何度か投げるが、やはり当たらない。

「ああ……」

 啓人が悲嘆に暮れる。あの頁さえあれば、と手を伸ばしても、到底届かない。

「タク、純にぃ、頼む!」

「たっくん、純ちゃん……お願い。……だって、純ちゃんは野球がとっても上手かったじゃない」

 啓人と更紗の声援を受けた純一は、キッと二人を睨み付ける。 

「……その言葉にオレは……ずっと、呪われていた」

 純一が叫ぶ。

「純くんはすごいね、きっと野球選手になれるよ。純くんは格好いいね、きっと野球選手になれるよ。頑張って。……無邪気な高森の応援が、最初は嬉しかった。……でも、いつしかそれは呪いに……なっていたんだ」

 純一は右手を大きく振りかぶる。

「高森が死んで、ようやく解放されたと思ったのに……くそったれ!」

 ひときわ大きく叫ぶと、純一の右手が鞭のようにしなる。放たれた小石は、青空を背景に揺れる一葉のいろせた紙片を掠る。

 それで充分だった。啓人が欲した紙は、軌道を変えて落ちてくる。

「やった!」

 幸い、落下地点は海面ではない。走れば、砂に落ちる前に取れるはずだ。

 啓人は駆け出す。

「オレは怖かった。将来の夢が叶わなかったら、あいつとの約束を破ることになる。だから、自分ができないのを怪我のせいにし続ければ、心が楽だったんだ」

 へたり込んだ純一が呻く。きっと彼も吐き出すことで心のつかえが取れるだろう。


 そして啓人は手を伸ばし、言の葉をつかみ取る。


郊外こうがいひとに』

 わがこころはいま大風おほかぜの如く君にむかへり

 愛人よ

 いまは青き魚の肌にしみたる 寒き夜もふけ渡りたり

 されば安らかに 郊外の家に眠れかし


 そこに載る詩を、書かれた言葉を、啓人は歌い上げる。

 吹く風が啓人の心を、祈りを、願いを、乗せて運ぶ。

 閑香が姿を見せる。

 彼女の姿を借りて、彼女の言葉を宿した少女が、啓人の前に現われる。

 啓人は叫ぶ。

 今にも消えそうに儚く、しかし確かにそこにいる彼女に向かって。

 同時に、夜のごとく暗い海の底で、今も尚、眠る閑香へと。

 愛した人へ、と。


「閑ちゃん、僕は君のことが好きだったんだ」

 言葉は一陣の大風と化す。

 大風は舞い、大風は踊り、大風は歌う。

 その風に乗り、一度は手にした詩片は、再び海へと飛んでいく。

「僕の心は大風となって、君を迎えに来たよ」

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