大風の如く(5)

「そんなこと、あったっか」

 巧の声は、正直拍子抜けという感じだ。

「あったんだよ」

 啓人は波が寄せる水辺を見渡す。どこを探しても、石でできた囲いも、その中に閉じ込められた小魚も見つからない。当たり前だ。過去や夢は、現在や現実と同一ではないのだから。

「解き放ってあげたかったな」

 時は戻らない。だが、代わりにようやく閑香をここまで連れて来ることができた。

 啓人の呟きに答えるように、更紗が口を開く。

「自分のせいで死んでしまった魚、か。私は閑香から聞いたことがある。子供の頃のことって、大きくなれば忘れてしまったり、記憶が曖昧になってしまう。でも、嫌だったこと、過ちを犯したと子供心にも理解できたことは、細部は忘れてしまっても、胸を痛めたその気持ち、その痛みだけはいつまでも覚えているものだから」

 そうだ。例えば、ゴムボールをなくしてしまったことを、我がことのように感じて、ずっと探し続けたように。

「藍川。私も、あなたに聞きたいことがある。閑香の最期の様子を教えて欲しい」

「それは……」

「お願い」

 気づけば、巧と純一も二人の様子を見守っている。

「夜のデッキで話をしてた。僕が先にいて、後から閑ちゃんが来て、あの夜は風が強かった。そこで取り留めもなく……子供の頃のことや高校の話をしていた……と思う」

 そこから先を続けることができない。喉の奥から言葉をひねり出そうとしても、嘔吐くようにして、つっかえてしまう。

「うぅっ」

 黙り込んでしまった啓人を三人が不安そうに見つめる。

 そうだ。

 自分でも忘れてしまっていた。いや、敢えて思い出そうとしていなかった。

 二人で海に投げ出され、一度は掴んだ手を離してしまった。彼女を助けられたのに、助けられなかった。

 そのことは、更紗にも他の誰にも言っていないということを。知っているのは、自分以外には詩葉だけだ。

 直後に嘘をついたからだ。

 そう。自分は彼らに肝心なことを話していなかった。

 嘘をついたまま、それで彼らに協力を仰いでいたのか。

 なんという、不誠実さだろう。

 少しの勇気が欲しい。

 打ち明けるための勇気が。

 海は語らず、空も黙している。

 勇気は自らのうちにあり、そして真実も自らのうちにしかない。


 浜風が吹く。

 海から陸へと向かって荒ぶ風を正面に受けて、負けじと啓人は声を上げる。

 自らの声を風として、閑香を迎えに行くために。

「どうか、聞いて欲しい!」

 その音量に、三人が目を見開く。威勢は続かない。しかし、呼び水となる。

「実は」と、啓人は話し始める。

 閑香と過ごした最後の時間で、真にあったことを。海に落ちた後のことは詰まりながら、ゆっくりと、三人の反応を怖々確かめながら、一言ずつ口にする。

 更紗は、巧は、純一は、口を挟むこともなく、じっと聞いていた。

 波を受け、離れてしまった彼女の手を、もう一度掴めなかった。

 その悔恨かいこんを絞り出すように言葉にした。

「今まで黙っていて……ごめん」

 卑怯者ひきょうものののしられようと、臆病者とわらわれようと、愚か者と誹られようと、全て受け入れるつもりだった。

 閑香の言葉を引き出すために、まず何よりも自分がすべてをさらけ出さなければいけなかったのに、それをしてこなかった。

 なんて――愚かなんだろう。


 夏を迎える空は、嘘のように青く、広い。

 日差しが眩しい。まるで、啓人の身を焼くように照りつけてくる。

 朝は、これほど暑かっただろうか。いつの間に、陽はこれほど高く昇っただろう。

 目眩を覚えそうになる。

 眼前に広がる海は、穏やかに波音を立てている。

 かつて閑香を飲み込んだ海が、次は啓人を罰するかのように青く静かに広がる。

 皆が黙っている。

 沈黙から逃げるように、啓人は閑香が立っているはずの場所に視線を向ける。

 だが、そこには誰の姿もない。

 慌てて、周りを見渡す。しかし、目の届く範囲に閑香はいない。

「閑ちゃん!?」

 思わず、その名を呼ぶ。

「啓人、どうした?」

「閑ちゃんが……いない」

 そう口にした途端、啓人は走り出す。

 話すことに気を取られている間に、どこに行ってしまったのか。

「閑ちゃん!? どこにいるの!」

 砂の上は足を取られて走りにくく、何度も転びそうになる。

 おまけに啓人は自身がどこに向かって走れば良いのか、分かっていない。当てもなく探しても見つかるはずがない。

 一人で歩いてさ迷っているのか。ならば、まだそれほど遠くには行っていないはずだ。探せば、きっと見つかる。

 しかし、最悪の可能性もある。既に閑香の迷い言は消えかかっていた。その限界が来てしまった。消えてしまう瞬間すら見ることもなく、もう二度と会うことはできない。もちろん、言葉を聞くことも叶わない。

「詩葉さん!? 閑ちゃんの姿が見えますか?」

 啓人は縋るように詩葉の答えを求めた。だが、離れていた詩葉は首を振る。

「先ほどまでは確かに見えていました。ですが、今は私にも分かりません」

「そんな……じゃあ、さっきまではどこにいたか、教えて下さい」

 一刻も早く閑香を見つけなければ。しかし、焦る啓人に向けて、

現世うつしよは夢、夜の夢こそ真実まこと

 もどかしいほどゆっくりとした口調で、詩葉が言を紡ぐ。

「……どういう意味ですか?」

 意味は分かる。聞きたいのは、今ここでその言葉を口にする意図だ。

「私たちは知っているはずです。目に見えるものが全てではなく、見えないものもまた真実なのだと。

 私や藍川さんには、他の人には見えない迷い言が見えます。しかし、今やその閑香さんを見失ってしまいました。そうであれば却って、普段は彼らが見えない方にこそ、彼女の真実が見えるかも知れません」

 それから、詩葉は啓人の傍に立つ更紗に視線を向け、

「入舟さん、そう思いませんか?」

 さらりと付け加えると、名指しされた当の更紗は身を強ばらせる。そして、口を開きかけるが、そのまま何も言わなかった。

 そんな彼女の様子も気になるが、今は一刻を争う。

 気持ちばかりが焦れる啓人は、姿の見えない閑香に向かって呼び掛ける。

「ごめん、閑ちゃん、ごめん。僕はどれだけ謝っても、許されないことをした。君の手を離してしまった。きっと僕のことを恨んでいるだろう。きっと僕のことを憎んでいるだろう。それでも良い。それでも良いから、ただ一言、声を聞かせてくれないか」 

 だが、閑香は現われない。

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