大風の如く(4)
目覚めても、すぐには意識がはっきりとしてこない。普段とは違う天井に、祖父母の家に来ていたことを思い出す。
同じ部屋で寝る純一と巧がもぞもぞと起き始める。
顔を洗い、朝食に集まると詩葉と更紗も席に着いていた。朝市で買ってきたという野菜や魚が食卓に並んでいる。
それらを食べ終わり、用意ができ次第、皆で浜へと向かう。歩いて二十分ほどの距離だ。子供の足ならばともかく、今ならそれほど苦にならない。
「気を付けいよ。水遊びはともかく、泳ぐのはダメだからな」
「分かってるよ」
この近くの海は、急に深くなる場所があり遊泳には向いていない。子供の頃は、親同伴でなければ行くことはできなかった。
その後もあれこれと注意を続ける祖父を背にして、啓人たちは目的地に向かって歩き始める。
「潮の匂いがきついな」
「
「足の裏とか、爪の
「近いかも知れねえ」
「……あなた達の会話、時々頭が痛くなるわ」
呆れ顔の更紗を見るのも、なんとなく嬉しい。
「皆さん、仲が良いですね」
「そうでしょうか……。いや、そうですね」
いまだ危うい糸の上を渡るような緊張感を、啓人は覚えている。
以前は純一や更紗、いや巧でさえがここに加わることが想像できなかった。これは閑香が繋いだ細い糸だ。少しの負荷で、すぐに切れてしまうだろう。
この夏が終わる頃には、どうなっているかは想像ができない。
今は、やれることをやるだけだ。
朝から日差しはきつい。昨日の夜は涼しかったのに、と文句を言っても仕方がない。歩くうちに汗が
海辺が近づくに連れ、道は細くなる。車がようやく通り過ぎる狭い道の端を、縦一列に並んで歩く。
啓人は一番後ろで、さらに後ろを歩く閑香を気にしながら、進んでいく。
「この辺、見覚えあるな。前に来たのはいつだっけ? 案外、覚えているもんだな」
「五反田。案外、記憶力は良いのね。ただの馬鹿かと思っていたけど」
「それ、褒めてくれてます?」
「まさか」
更紗の皮肉に、一同が苦笑する。
じきに視界の端、
自然と、皆の足が速くなる。啓人も閑香の手を引いて、急ぐ。
横断歩道を渡り、道の向こう側へ、そして堤防の階段を昇り、その上に立つと海が見えた。夏を直前に控えた海面は、陽光を受けてきらきらと輝いている。
手前には、ざらざらとした砂に覆われ、大小の石が転がる浜辺が広がっている。振り返れば、これまでに通ってきた街並みが見える。
遠くに建つ灯台は、日の光の下でどこか寂しげだ。
「ああ」
と、感嘆の息を漏らしたのは、詩葉だった。
きっと、真理の遺した絵、そのままの風景であることに驚いたのだろう。
実際にこの景色を目にしたことのある啓人でさえ、同じ気持ちだ。
火災事故を起こした客船は、同じ市内の港を目指していた。船舶内で一晩過ごした後、入港する予定だった。
救助された人たちは、その港に入った。啓人や巧たちも、その中にいた。そして、海に流された多くの物、そして一部の遺体は潮の加減か、この浜に流れ着いた。
残念ながら、そこに閑香の手掛かりとなるものはなかった。彼女の両親は、何度もここに足を運んだに違いない。
反対側の階段を降りて、ざくざくと砂を踏みしめて、海に向かって歩いて行く。
しかし気持ちが良い風が吹く浜の中程で立ち止まると、啓人の足はそれ以上動かなくなる。それは、他のメンバーも同じようだ。
「藍川、これからどうするの?」
更紗の顔色が少し悪い。改めて、事故のことを思い出してしまったのだろう。彼女は先日も目にした小さなバッグを持っている。無意識だろう。それを抱きしめる。
啓人は閑香の様子を伺う。
ここまで来ても、特に変わった所はない。劇的な変化を期待していなかったと言えば嘘になるが、それほど甘くはないようだ。
「閑ちゃんは、まだ行方不明だ。たとえ法的には死亡認定されていたとしても、この海のどこかに閑ちゃんは眠っている。ようやく、迎えに来られた」
啓人は口にすることで、決意する。そして、歩き出す。
「覚えてる? 七年前に来た時にあったことを?」
歩き始めた啓人の後に付いてくる巧たちに向かって、啓人は問う。
「七年前……事故じゃなくて、その前に遊びに来た時のことか。……何を指しているか、漠然としすぎてるぞ」
「あの日、僕たちは一匹の魚を捕まえた」
話しながら、一歩ずつ海に近づいていく。
「当時の僕たちの両手でも
小さな子供の
即興でその場に周りの石で囲いを作る。そこに放すと、狭い檻の中で名も知らぬ小魚はくるくると縁を巡るように泳ぎ始める。
水族館だ、と喜んだのは閑香だった。
『もう少し、捕まえよう』
閑香の笑顔が見たくて、啓人はもう何匹か付近を泳ぐ魚を捕まえようとした。だが、最初の一匹は捕まえた人間の要領がよほど良かったのか、それとも捕まった魚の要領がよほど悪かったのか、すべて指の隙間から逃げてしまう。
巧や純一に助けを求めるのも格好悪いと思い、しばらく
啓人と閑香が、即席の水族館に関わっている間に、巧たち三人は波打ち際で別の遊びを始めてしまう。
啓人は閑香と並んで二人で、銀背に太陽の光が当たってきらきらと光る魚が泳ぐ様をしばらく眺めていた。
いつまでも飽きないと思っていたが、付き添っていた母親が昼食だと呼び、食べ終えた後は巧たちに混じって、啓人も閑香も水遊びを始めた。
やがて夕方になり、帰り支度を始める。もう翌日の朝には家に帰る予定だから、またしばらく祖父母の家に来ることもない。
みんなを誘って良かった。きっと、また来ようと啓人は思った。
帰り間際、『あっ』と閑香が小さく声をあげた。
そのまま、波打ち際まで走り出す。慌てて、啓人が後を追う。
昼前に作った石の囲いの水族館を覗き込もうとしゃがんだ閑香は、肩をふるわせて泣いていた。
『ごめんね、ごめんね、ごめんね。早く逃がしてあげれば良かったよね』
少女が謝る姿は、いつかボールをなくした時のそれと重なった。
小さな魚は白い腹を見せて浮かんでいた。
『閑ちゃんのせいじゃないよ。……多分、捕まえた時から弱ってたんだ』
だから、あの魚だけが子供の手でも獲れたのだろう。
だが、そんな慰めは何の役にも立たなかった。閑香は何も答えない。
『ごめんなさい』
うずくまったまま静かに泣き続ける閑香の手を握り、暗くなり始めた帰り道を急ぐ。『僕があんな所に入れなきゃ良かったんだ……。ごめん』
啓人まで一緒に悲しくなる。
涙が流れてくるのは、ただ閑香に釣られた訳ではない。
何かを失う、ということは、ただ、ただ、悲しいことなのだ。
『啓くんも泣いてるの?』
『うん。……だって、涙は海と繋がっているんだから、せめて帰れなかった魚のために泣きたいんだ』
そして、二人で涙を流しながら浜をあとにした。
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