大風の如く(3)

 車窓の後ろに流れていく景色を意識の外に置き、啓人は思いを過去へと飛ばす。

 閑香と出会った頃のことだ。先ほど、純一に話を振られた時にははっきりとは答えなかったが、彼女から声を掛けられた時のことはよく覚えている。

 その時も、さびしさが不意に襲ってくる、そんな夕暮れだった。

 引っ越してきたばかりの知らない町で、両親は片付けと生まれて間もない妹の世話に忙しく、ただひたすらに孤独と不安を覚えていた。

 家にいても邪魔になるだけだったので、近所を一人で歩いていた。茜色に焼けるような空を目にしていると、自分が知らない場所に来たことを強く意識させられて、寂しくて、悲しくて、ついには涙が零れてきた。

 妹が生まれて、自分はお兄ちゃんになったんだから泣いたらダメだと思うと、余計に涙が溢れてくる。ただでさえ、泣き虫だと言われることが多いというのに。

『涙は、海と同じ水なんだって』

 いつの間にか目の前に立っていた少女はそう言うと、人差し指で啓人の目尻を拭う。そして、指先を自分の口に含んだ。

『うん、しょっぱい。海の味がするよ』

 えへへ、と少女が笑う。

『私、海が大好き。だから、いっぱい泣いても良いんだよ』

『そっか、……泣いても良いんだ』

 少女の笑顔に啓人は釣られて、知らず知らずに涙は止まっていた。

 彼女は高森閑香と名乗り、『ねえ、どこから来たの?』と尋ねてきた。

 啓人も自分の名前を教えて『東京』だと答えると、『東京って、海があるんでしょう!?』と啓人が驚くほど、喜んでいた。

 あとは、純一が話した通りのことだ。


   ◇


 やがて、目的の駅が近づく。

 窓の外はすっかり暗くなっていた。時計を見れば、もう夜も遅い。

「腹、減ったな」

 純一の言葉に全員が頷く。更紗や詩葉も顔に疲れが出ていた。

 電車はゆっくりと速度を落とし始める。ブレーキ音が続き、最後に小さく揺れて駅に停まる。

 啓人の祖父母そふぼが住む町は海沿いにある。降りると、心なしか潮の匂いがする。

 町の灯りはまばらだ。駅に設置されている電灯を除けば、民家のカーテンから漏れる光があるに過ぎない。

 満月を少し過ぎ、再び欠け始めた月が夜空に浮かぶ。

 皆は体をうんと伸ばして、体をほぐす。背伸びをして天を仰げば、宗宮とも、あの海とも繋がる星空がある。

 啓人は閑香の手を引き、改札に向かう。

 北の方に来たからか、地元よりも風を涼しく感じる。虫の音が遠くから聞こえてきて、まるで秋の夜にやってきたのかと、一瞬思うほどだ。

 だが、こちらではまだ梅雨つゆが明けていない。例年だと、あと一週間くらい先だと言うが幸い天気は良い。明日も一日晴れの予報だ。

 改札を出ると、すぐに祖父が待っていた。

「今日はお世話になります。大勢で申し訳ありません」

 挨拶する更紗に向かって、祖父は「全然構わんよ。部屋はたくさんあるから」と柔らかく手を振って答える。

 詩葉を除けば、他の三人は子供の頃に祖父母とは面識がある。そうは言っても、あれから何年も経った。啓人自身、会うのはあの事故の直後以来だ。

「大きくなって」と自己紹介した皆ににこやかにする祖父が、詩葉に目を留めて「あんたは、初めてかな」と首を捻る。

「はい。梅ヶ枝詩葉と申します。この度は、無理なお願いを聞き届けて頂き、ありがとうございます」

 挨拶する詩葉に向かって、祖父はじっとその顔を見て、

「どこかで、お会いしたことがありましたか?」

「いえ。初めてだと思います。ただ、私の母はこちらの方に足繁く通った時期がありましたから、もしかしたら、お祖父様が会われたのは、私の母かも知れません」

「そうか。なら、これも何かのご縁だな」

 再びにこやかに笑うと、車まで案内する。

 祖父母の家に着くと、一瞬で時間が跳躍したかのような感触を味わう。家の造り、部屋の構造、庭の様子、すべてが手に取るように思い出される。

 記憶とは不思議なものだ。時間の流れとは無関係に結びつく。

 祖母が用意したご馳走は多すぎると思ったが、巧と純一が綺麗に平らげてくれた。

 さすがに長旅の疲れがあり、その後は早めの就寝となる。

 部屋は啓人、巧、純一と更紗、詩葉に別れる。

 啓人たちが寝る部屋は、こちらに来た時に何度も泊まった部屋だ。壁の落書きや天井の染みも懐かしく感じる。

 幼い頃は、その天井の染みがお化けに見えて怖かったことを思い出す。

 母は姉妹が多く、その子供、つまり啓人のいとこも含めると結構な人数になるので、布団も数は揃っている。久しぶりにそれらの布団を引っ張り出すことができて、祖父母も喜んでいた。

「じゃあ、また明日」

 布団に入る巧の声は、既に半分まどろんでいた。

「修学旅行を思い出すな」

 答える純一の声も同じく、半ば夢の中だ。

「明日は、よろしく」

 二人に声を掛けるが、既に寝息が聞こえ始めていた。

 だが、啓人は確かに疲労と眠気はあるが、それ以上にはやる気持ちがあるせいで横になっても、どうにも眠れない。

 部屋の隅には、閑香の姿がある。小さな常夜灯が一つ点いただけの部屋で、ぼんやりと浮かぶ少女の影は、まさしく幽霊のように思えてしまう。

「閑ちゃん。待ってて」

 そっと、呟く。

 このまま消滅させるわけにはいかない。だが、彼女から言葉を無事に引き出すことができた時、それも即ち閑香の迷い言との別れを意味する。

 敢えてその瞬間のことは考えず、ただ目的を達することだけを思う。


 しかし、なかなか寝ることができず、一度トイレに起きる。子供の頃はトイレに行くために真っ暗な廊下を歩くのが怖かったことを思い出す。

 用を終え、音を立てないように戻る途中で、誰かの足音が聞こえる。

 暗がりの中、こちらに向かってきたのは更紗だった。

「先輩もトイレですか?」

「デリカシーの欠片もないわね。違うわ。……ちょっと、外の風に当たっていたの」

 最後は掠れた声で呟く。気のせいか、少し涙声に思えた。

 気になって声を掛けようとするが、それより先に「お休み」と言って、部屋に戻ってしまった。

 啓人も外に出る。すぐには眠れそうもなく、夜気に当たりたい気分だった。

 玄関先には先客がいた。詩葉だ。夜風に当たり、空に浮かぶ月を眺めているその横顔に、啓人はすぐに声を掛けることができなかった。

「藍川さん」

 啓人に気づいた彼女が、こちらを向く。明るい所では夕焼けを思わせる赤の混じった髪の色が銀の月の光を受けて、血のように深みを増している。黒一色の寝間着のせいで、色白の肌はさらに際立つ。そのアンバランスさは息を飲むほど美しく、心奪われる。

「詩葉さんも眠れないんですか」

「いえ、少しばかり入舟さんとお話をしていました」

「先輩と? さっきすれ違いましたが……」

 詩葉のことは、何も言わなかった。

「どんな話を?」

「迷い言について少し。藍川さんは、眠れないんですか?」

 話を逸らされる。更紗との会話について、それ以上を語るつもりはないようだ。

「はい。明日……いや、もう今日のことを思うと緊張してしまって」

「閑香さんは?」

「出てくる時は、部屋の隅でうずくまっていました」

「そうですか。もう入舟さんも休まれたことでしょう。少しだけお話をしたら、お互い部屋に戻りましょう」

 詩葉の言葉に誘われるように、啓人は口を開く。

「正直、ちょっと怖いです」

「どうしてですか?」

「理由は……色々あります。一番大きなものは、閑ちゃんが何を語るのか、それが怖いです。僕は最後に閑ちゃんの手を離してしまった。僕を恨んでいるかも知れない。……いや、恨んでいるに決まっています。それが、怖い」

「それから?」

「迷い言が伝えようとする言葉がたとえどのようなものでも、伝え人はそれを伝えなきゃいけないって詩葉さんは言いましたよね。でも、僕にその覚悟があるかどうか、分かりません。それも、怖い」

「それから?」

 詩葉が、短い言葉で続きを促す。

「そもそも、僕が上手くやれるでしょうか。何もできず、何も得られないまま、時間切れで閑ちゃんが消えてしまう。そんなことになったら、いったい何のためにここまで来たのか分かりません」

「なるほど」

「でも、僕は閑ちゃんの言葉を知りたい。たとえ、それがどんなものでも。……いっそ、僕を非難してくれた方が……僕は楽なのかも知れない」

 きっと、踏ん切りが付くだろうという思いに駆られる。

「あなたは楽になりたいのですか?」

「それは……なりたいに決まっています。心の重荷をようやく下ろせるなら、その方が良いに決まってる」

 啓人が吐いた言葉は、夜の闇に混じって散っていく。

「いったい、迷い言って何でしょうか。本来、人が死んだらそれっきりのはずです。純一の言う通り、過去は取り戻せない。やり直しなんてできないのが本当です。だから、先輩の言う通り、忘れるしかない。だとしたら、彼らは生きている僕らをかき乱す存在でしかない。どうして、迷い言が存在するんでしょう?」

「分かりません。ただ、あるがまま、あるように受け入れるより他ありません。どうして、私や母、それから藍川さん、一部の人にしか迷い言の方が見えないのか。答えは分かりませんが、共通しているのは大切な人を思いがけない形で失ってしまった、ということだと思います」

 啓人は自分の経験を思い出す。詩葉も母が目の前で自死していた。彼女の母親も同じようなことがあったのだろうか。

「そのような経験があり、だからこそ、想いを伝える大切さを知っている。選ばれた、と言うと誤解を招くかも知れませんが、私は与えられた役割を果たしたい。

 ……たとえ、迷い続けながらでも。

 それを藍川さんに強制するつもりはありません。あなたは、あなたなりの役割を見つけて下さい」

 詩葉の言葉もまた、夜の帳の奥へと染みていく。


 部屋に戻った頃にはさすがに眠気が訪れていて、欠伸あくびを何度か繰り返した。巧と純一は寝相ねぞうも悪く、転がっている。

 閑香は先と変わらない姿勢で片隅にうずくまっている。消えていないことにほっとすると同時に、明日で全てが決まるのだと思うとまたもや、気分が高ぶる。

 寝なければ、それこそ上手く行くものも行かなくなる。

 どのような結末を迎えることになっても、明日で終わる。終わった後、果たして自分はどうするだろうか。

 横になって目をつむると、自然と眠りへと誘われていった。

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