大風の如く(2)

「……なんか、お前たちらしいな」

 啓人の話を聞き終えた巧が、苦笑する。

「どっちも、優しすぎ。馬鹿みたいに」

「だからこそ、オレ達は友達だったんじゃねえか。今はともかく、昔はな」

「閑香は、よく江崎に打たれていたわね。私よりもずっと運動神経が鈍かったから」

「純にぃを抑えられるやつなんて、いなかっただろ」

「閑ちゃんは、きっと純にぃが野球選手になるのを楽しみにしてたよね。……って、ごめん」

 一同がしばし黙り込むが、純一は思い出したように昔の話を口にする。

「啓人を最初にオレたちの仲間に誘ったのも、高森だったな」

「そうだったっけ?」

 啓人はとぼける。

「覚えてないのか。オレは良く覚えてる。啓人を最初に見た時、オレはお前のことがすっごく、気に入らなかった」

 純一に嫌われていたという覚えは啓人にはない。

「お前は暗い顔してたからな。おまけに、すぐに泣いていた」

「それはあったかも。慣れ親しんだ東京の家を離れて、全然知らない所に来るなんて、嫌で仕方なかった」

「どうして、こんな奴を連れてきたんだって高森に聞いたんだ。そうしたら、なんて言ったと思う?」

「さあ」

「『この子は東京から来たんだよ。すごいでしょう? 海のある所から来たんだよ』って、そう言ったんだ。あまりにバカらしくて十年以上経った今でも、よく覚えてる」

 確かに最初の頃、やたらと閑香から海の印象を聞かれた気がする。

 しかし、啓人だって東京の海に行ったことなどほとんどない。行ったとしても、ただ濁った水があるだけだ。

 むしろ、東北にある母方の実家の方が海に近く、夏になれば遊ぶこともできるので、印象深い。当時、そんな話をすると目を輝かせていた。

「それから、一緒に遊ぶようになった。啓人もこっちに慣れてきた後は、暗い顔をすることもなくなったしな。泣き虫は変わらなかったが」

「あの子はほんと、馬鹿がつくほど優しくて、お人好しで……愚かだった」

 誰に聞かせるともなく、更紗がつぶやいた。


 列車は何度もトンネルを潜りながら、陰翳いんえいに富む深緑の山の合間を走って行く。

 夕方になっても日差しはきつく、木々に繁る青葉に反射する光が眩しい。

 車内は啓人たち以外にも、家族連れや友達連れといった観光目当ての乗客が多いが、混雑という程でもない。ほど良いにぎやかさ、人のざわめきは、耳に心地良い。

 ただ、長く椅子に座っていると、腰が痛くなってくる。

 立ち上がり、背伸びをしたり、啓人が持参したお菓子を食べたりしながら、思い出した順に、閑香の話をぽつり、ぽつり、としていく。

 たまに、自分たちや、小中学生の同級生の近況が混じる。久しぶりに懐かしい名前を耳にすれば、気分は子供の頃に戻ったつもりになる。

「へえ、藍川は美術部で絵を描いてるんだ」

 更紗が意外そうに口にする。

「先輩は同じ学校だよね。知らなかったの?」

「藍川の入学後のことなんて興味なかったし。五反田は昔から野球やってるから、そうだろうって思ってたけど。言われてみれば、絵を描いていたかしら。……でも、どうして、美術部なの? 中学は違っていたでしょう」

「うーん、それこそ閑ちゃんの話になるんだけど」

 正直、あまり気持ちの良い話ではない。だが、自分の知らない閑香の話も聞けた。ならば、自分もそうすべきだろう。それが例え、痛みを伴う話であったとしても。


「僕は五年生の時、閑ちゃんに酷いことをしたんだ」

 啓人がそう切り出すと、

「ああ」

 と他の三人が頷く。五年生の時のできごとは、当然彼らも知っている。

 閑香に暴言を吐いてから、めっきりと彼女と顔を合わせることは少なくなった。自分から避けていたと言う方が正しい。

 今と同じく、幼く、愚かで、無恥むちな自分は、そうすることでしか、彼女との距離の取り方を知らなかったのだ。

 じきに閑香は卒業してしまい、ますます会う機会は減ってしまった。

 一年が経ち、啓人が中学に入ってからも、生徒数が多く学年も違うせいで校内で見かけることすら少なかった。

 中学では、全員が部活に入らなければならないことになっている。

 運動は苦手だ。興味があるのは、将棋部か演劇部だ。前者は駒の動かし方を知っている程度、後者もほとんど未経験だが、何となく面白そうだ。どちらも、適当にサボれそうだという偏見もある。

 将棋部の見学を終え、次に体育館で活動しているという演劇部に向かう。

 壇上で練習しているメンバーは男女合わせて十数人だ。その中に、知った顔を見つける。閑香だった。思わず、そのまま帰ろうとする。

 だが、それより早く、ステージの上にいる閑香が声を出す。

『あれ? けい……藍川君!? 見に来てくれたんだ!』

 わだかまりなど、まるでないような明るい声だった。

『う、うん。高森先輩、久しぶり』

 そのやり取りに、他の部員や見学者の視線が一斉に啓人に集まる。

『じゃあ、僕はこれで』

『待ってよ、もう少し見ていけば?』

『他にも見たい所があるから』

『じゃあ、また来てね。絶対だよ』

『……分かった』

 結局、逃げるように立ち去り、そのまま帰路きろに着いた。

 嘘をついたのが後ろめたかった、という訳でもないが、約束通り、もう一度体育館へ見学に行く。

 閑香は役者ではなく、裏方のようだ。せわしなく、あちらこちらへと動いている。

 小学校の時には、既に休み時間になると机に座ったまま、本を読んでいることが多かった彼女の姿と比べると、ちょっと違和感があった。

 演劇部は体育会系。と言われるほど体力を使うと知るのは、後の話だ。

『高森、これ片付けといて』

『高森、遅い!』

 おそらく三年生だろう。下級生に向かって、容赦なく指示を飛ばしている。

 もともと閑香は運動が得意ではなく、器用でもない。ステージの上であたふたしている姿は、見ていてあまり気持ちの良いものではなかった。

 閑香は啓人が来ていることに気づいていて、その際には笑顔を見せた。

 それ故に、再び立ち去れば、今度こそ見捨ててしまったような後味の悪さを残す。

 啓人は、閑香が降りてくるのを待っていた。

 ようやく部活が終わる。閑香や他の数名は後片付けに追われていたが、それも済み、閑香は息を切らしながら、啓人の許へと駆け寄る。

『ご、ご、ごめん、お待たせ』

『別に良いけど……随分と大変そうだな』

 傍には誰もおらず、口調はついつい昔に戻る。

『啓くん……あっ、藍川君は、演劇部志望なの?』

『見学に来ただけで、まだ決めてない。それより、高森先輩が演劇部だったなんて知らなかったよ』

『本当は文芸部に入りたかったんだけどなかったんだよね。演劇なら同じ創作で近いかなって思ったんだけど、結構大変。でも、いつか脚本は勉強してみたいかな』

 閑香は、少し疲れたような笑顔を見せる。

『《現世うつしよは夢、夜の夢こそ真実まこと》って言った作家がいるの。この世界は夢で、夜に見る夢こそが真実。私も、その通りだなって思う。

 よく、逃げることはいけないことだって言われるけど、私はそうは思わない。逃げ場所すらないなんて、辛すぎるもの。本を読んだり、お芝居を観たり。虚構の世界を時折垣間見ることで、現実で嫌なことがあっても、また頑張ろうって思えるんだよ』

『……そっか』

『それでも、ちょっと辛かったり勇気が欲しい時には『おまじないの本』に力を貰うの。自分はきっと誰かに愛されている。それに勝る力はないから』

『おまじないの本?』

『うーん、これはちょっと内緒』

 しまったというように照れた顔をした後、

『ねえ、啓くん……あっ、藍川君は絵が上手かったよね?』

『絵? ああ、まあ』

 人よりもちょっと似せて描くことが上手い。自分では、その程度の認識だ。

『小学校の時、啓く……あっ、藍川君は宗宮公園のオオサンショウウオのスケッチをしたじゃない? あの時、すっごく上手だったよ』

『もう、啓くんで良いよ。僕も閑ちゃんって呼ぶから』

『うん』

 にこり、と閑香が笑う。

 自分としては見たままに描いただけだ。それくらい、誰だってできるだろう。

『できないよ!』

 真っ向から否定された。

『だから、美術部なんて良いんじゃないかな』

 閑香はちょっと探るようにして、

『でも、もし良かったら演劇部に入らない? 背景とか大道具とか、きっと啓くんの絵が役に立つと思うんだけど』

『考えておくよ』

 だが、心の中での答えは決まっていた。

 閑香への想いが薄れた訳ではない。ただ、部活は想像よりも熱心で面倒くさそうだった。閑香とは、また何時でも会えるだろう。そう思っていた。

 後から思えば、もっと真剣に彼女の話を聞いていれば良かった。

 もし、その時の閑香の言葉に頷いていたら、何か変わっていただろうか。

 それは分からない。選択しなかった過去に、意味はない。

 閑香が話した『現世は夢、夜の夢こそ真実』という言葉は、明智小五郎や怪人二十面相で有名な江戸川えどがわ乱歩らんぽが好んで、色紙に書いた言葉だと後ほど知った。

 乱歩は子供向けの探偵小説しか知らなかったが、大人向けの小説こそをメインに書いていて、高校生になってから読んだ『芋虫』『防空壕』などは、その淫靡さに胸がどきどきしたものだ。

《現世は夢、夜の夢こそ真実》

 中学生の時はピンと来なかったが、閑香が亡くなった後になってから、啓人の言葉にいまだに残っている言葉だ。

 迷い言という存在を知った今では、その思いは余計に強い。

 一方、彼女が話した『おまじないの本』については、結局知る機会はなかった。他愛もない女子中学生の遊びだったのだろうか。


「啓人は将棋しょうぎ部に入ったんだよな?」

「うん。美術部っていう考えも、あの時はなかったな。……将棋部も結局は幽霊部員になったけど」

 他の部員には申し訳ないことをした。自分は中途半端な人間だ。

「その後、閑ちゃんには、部活頑張ってる? って聞かれたんだ。つい『うん』と答えてしまったけど……」

 結局、自分は彼女に対して誠実ではなかった。

「だから……あの事故の後、高校に入ってから、僕は閑ちゃんの言葉を実行に移した。美術部に入ってみたら、絵を描くのは奥も深くて楽しいよ。上達はしないけど」

 閑香の一言が、美術部員という自分の一部を形成している。それは間違いない。

 だが、それは後悔を伴うものでもあるのだ。


「おまじないの本……」

 啓人の話を聞き終えた更紗が、震える声で呟く。

「何か知ってる?」

「う、ううん、別に」

 力一杯、首を振って否定する。

「そう言えば、先輩に聞きたいんだけど」

 更紗に確かめたかったことがある。あの事故が起きる直前のことだ。閑香がデッキに出てくる前、啓人を除いて最後に会っていたのは、同室だった彼女だ。

 その時の閑香の様子、何を話したのか、気づいたことはないか。いや、そんな形式張ったことなどではなくても良い。更紗から見た閑香。それが、知りたかった。

「よく覚えてない」

 しかし、更紗は啓人の問いに、間を置かずに素っ気なく即答する。

「なんでもいいんだ」

「……事故の混乱で、思い出せないから」

 今度は一片の申し訳なさを滲ませる。そう言われては、追及のしようがない。

 啓人が思ったような成果もなく、そこからは、あまり会話も続かなかった。もともと、疎遠になって久しい四人と、啓人以外は接点のない詩葉という組み合わせだ。

 電車は五人を乗せて、規則的に揺れながら、進んでいく。

 詩葉と啓人にしか見えていないが、閑香の迷い言はずっと啓人の隣に座っている。

 ずっと自分の話をされているのだが、それが分かるはずもないのか、ただじぃっとしていて、ほとんど動かない。

 何とかして、彼女の最後の望みを叶えたい。

 彼女が『誰か』に伝えたかった『言葉』を引き出してあげたい。

 それは、きっとこのメンバー、そしてあの海に関わりがあるに違いないと信じて、ここまで来た。

 迷いはある。だが、今は間違っていないと信じるしかない。

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