大風の如く(1)

 土曜日、家族には久しぶりに祖父母のもとに友人たちと遊びに行くということしか言っていない。

 夏休み初日の朝ということもあり、早くからバスは混んでいる。閑香のために席を確保するわけにもいかず、二人で立つ。上手く隙間を作り、そこで閑香を両手で守るようにして、つり革に掴まる。

 色白だった肌は、ますます透明感を増している。唇など触れれば裂けてしまいそうに儚い桃色をしている。

 色素の薄くなった瞳を覗き込めば、その奥の奥まで見通せそうな気がしてくる。

 その姿勢のまま、駅まで乗り続ける。一気に人が降り始め、啓人もそれに続く。

 宗宮そうみや駅は市の中心部にある交通の要だ。北口の喫茶店きっさてん前を待ち合わせ場所にしていた。時計を見るとぎりぎりで、既に巧も純一も着いていた。

「言い出した奴が遅れるなよ」

 開口一番、純一が文句を言う。

「ごめん。思ったより、時間が掛かった。……純にぃ、来てくれてありがとう」

「昨日も言った通りだ。……こんなに早起きしたのは、いつ以来だ」

「あと、入舟いりふね先輩も来るはずだから」

「先輩が?」

「入舟も来るのか?」

 巧と純一が驚いた声を上げる。

「もう、何年会ってねえかな」

「今、めっちゃ怖いから、純にぃも気を付けた方がいいぜ」

「あいつは中学の頃には、そんな風だったな」

「二人とも聞こえてるんだけど」

 更紗が立っていた。律儀りちぎに高校の制服を着ている。さすが副会長だ。

「よう、久しぶり」

五反田ごたんだ、私、そんなに怖い?」

よろいでもまとっているみたいに」

「西洋のじゃなくて日本の甲冑かっちゅうが似合いそうだな。お面がついているやつ」

江崎えざき、久しぶりに会って早々、言うことがそれ? ……あなた、太ったわね。

 って……タバコの臭いがしない?」

「この数日は吸ってないが。……服のせいかも知れねえ」

「信じられない! 藍川、私やっぱり帰る」

 本当に荷物を持って、その場を立ち去ろうとする。

 しかし、そこに詩葉が姿を見せた。

「皆さん、お待たせしました。遅れてしまい、大変申し訳ありません」

 更紗はタイミングを逸したようで、立ち尽くしている。

「五反田さんと江崎さんは先日、お会いしていますね。改めて、本日はよろしくお願いします」

「あなたが」と更紗の方を向いて、

「入舟さんですね。初めまして、うめヶ枝詩葉うたはと申します。今回は、ご一緒させて頂きます。至らぬ点もあると思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」

「こ、これはご丁寧ていねいに。こちらこそ、お願いします」

 詩葉と挨拶を交わしてしまった以上、もう帰るとは言えないようだ。

 こうして、啓人、純一、巧、更紗、詩葉、そして閑香による五人と一人の北への旅が始まる。 


   ◇


 電車を乗り継ぎ、東京を経由して目的地までおよそ半日掛かる予定だ。駅に着けば、祖父が車で迎えに来てくれる手はずになっている。

 鳴海なるみ港から出ていた定期船は、あの事故で廃止になっていた。そうでなくとも、今回使う気にはなれなかっただろうが。

 休日の電車はやはり混んでいる。東京に着くまではばらばらの席しか座れず、啓人は閑香を見失わないようにするだけ精一杯だった。

 巧と純一は時折何かを話していたが、更紗は参考書を、詩葉は文庫本に目を落としている。遅い昼食を取り、東北行の電車に乗り換えて、ようやく全員の席を確保する。

 閑香の分は傍目には空席だ。他の人に座られないように、窓際の奥を空けておく。

「本当に、そこに閑香がいるの?」

 自分の向かいの空席に向かって更紗が言葉を投げかける。半信半疑なのは当然だ。

「梅ヶ枝さんには見えているんですか?」

 自分と同じく迷い言が見える人だと、詩葉のことは説明してある。

「はい」

 詩葉の短い返事を聞き、更紗はそのまましばらく目の前の席を見つめていた。

 啓人の目には更紗の方を向き、しかしその瞳には彼女の姿を捉えていない閑香の迷い言が映っている。

「これから、何をするわけ? まさか、藍川のおじいさんの家に着くまで、のんびり電車に乗り続けるだけなの?」

 参考書を開けたまま、更紗が尋ねる。

「みんなから、閑香の話を聞きたいんだ。僕が知ってる、あるいは僕が知らない閑香の話。そこにきっと、彼女の言葉を引き出すヒントがあると思うから」

「過去を振り返るなんて無意味だって言った気がするけど。……まあ、良いわ」

「閑香の親父さんたちの行く先とか、あいつの墓の場所は分かったのか?」

「いや、どっちも分からないままだよ」

「せめて、墓の場所は知りたいな」

「行方不明って扱いだから、そもそもお墓があるかどうかも分からないけど」

「戸籍法には『認定死亡』があって、水難事故の場合は適用されるから、多分正式にも死亡扱いになっているはず。ご両親が届出をされていれば、の話だけど」

 更紗が指摘する。結局、両親の行方が分からないと、どうしようもないらしい。

「江崎はいま何をしてるの? 見た所、野球を続けているようには思えないけど」

「まあ、色々あったんだ」

「ふぅん、あの野球しか能がなかった江崎がねえ」

「能がないって、お前な……。そういう入舟こそ、すっかりガリ勉らしいな。子供の頃は、男みたいだったくせに」

「当たり前じゃない。いつまでも、子供のままでいられる訳がない」

「じゃあ、オレもそうなんだろう。いつまでも、夢見る純朴じゅんぼくな野球少年じゃいられねえんだよ」

 吐き捨てるような純一の言葉を遮るように、

「野球って言えば、こんなことがあったよね」

 まず、啓人が最初に思い出を話す。


 その日、純一の家の傍にある公園で、いつものように野球をしていた。

 野球と言ってもゴムボールを投げて、プラスチックのバットで打つ。残りのメンバーが飛んだ球を追いかける。それを順番で繰り返す。その程度の遊びだ。

 その頃から純一のセンスは頭一つ抜けていた。投手が閑香、打者が純一だった時、閑香が投げたボールを彼がバットの芯で捉えた。ポコンという軽い音とは裏腹に、ボールは勢いよく弧を描いて、公園の端にある草むらまで飛んでいった。

 『ホームランだ』と純一が喜ぶと、閑香は『純くんは、すごいよ! きっと、有名な野球選手になれるね』と、打たれたにもかかわらずはしゃいでいた。

 しかし、それもつか。その後いくら探しても、ボールは見つからなかった。

『ごめんね、ごめんね、啓くん、ごめんね』

 閑香が何度も謝る。その日の球は啓人が持ってきたものだ。自分がボールを投げたせいで、という気持ちが強かったのだろう。

 結局、ボールは見つからないまま解散し、閑香はその後も何度も公園を探していた。啓人もそれに付き合って、一緒にボール探しをしていた。

 あの頃は常に何かをなくしていた。今となっては思い出せない物、取るに足らない物でも、なくしたという事実、何かをなくしてしまったという思いだけは消えない。

 あの時のボールも、そのうちの一つだ。

 一ヶ月くらい経った時、それまで何度も探した草むらの中から、閑香がボールを拾い出した。

『あった、あったよ! 啓くん、あった!』

 小さな葉っぱをいっぱいくっつけて、飛び上がらんばかりに喜んでいる。

『良かった。私、啓くんのボールをなくしちゃって、本当に悪かったと思ってて、全然見つからなくて、でも良かった、本当に良かったよ』

 泣きべそをかいて嬉しがる閑香を見ると、そのボールはなくしたやつとは違う、とはとても言えなかった。多分、最近になって他の誰かがなくした物だろう。

『ありがとう。閑ちゃんのおかげだよ。本当に、ありがとう』

 笑って、受け取る。閑香の罪悪感を解放してあげる方が先決だ。

『また、遊んでくれる?』

『またって……昨日も一緒に遊んだじゃないか』

『私、啓くんが怒ってるんじゃないかって、ずっと怖かったから』

『そんなこと、全然ないよ』

 啓人の言葉に、閑香はようやく安心したようだった。

 閑香から受け取ったボールは、その後こっそりと元あった場所に戻しておいた。閑香と同じように困っているかも知れない誰かのために。

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