水に眠る(10)
金曜日。終業式が終われば、明日はいよいよ出発の日だ。
「藍川君、なんか元気がないね。夏休み、楽しみじゃないの?」
先日までの浮かれた様子が嘘のように思えたのだろう、
「何でもないよ」
上手く笑えたかどうか、自信はない。
「ひょっとして、恋の悩み?」
「なんで、そう思うの」
「短期間で気持ちの浮き沈みが激しくなる理由って、大抵は恋に関することだよ。好きな人と話せた日は一日嬉しいし、好きな人が他の女の子と話していたら落ち込むし。他人から見れば些細なことでも、本人からしたら大問題だから」
「
「想像に任せるよ」
苦笑いしつつも、どこか嬉しそうに見える。
「逆に言えば、本人にとっては死ぬほど辛い悩みでも、他人にしたらどうでもいいことなんだよな」
「……でもね、生きているのは自分だから。仕方ないよ」
「そうだな。仕方ないな」
「相談に乗るよって簡単には言えないけど、話すことで楽になることもあるから」
「分かった。好きな人のためだもんな。頑張るしかないか」
「そっか」
誓子は少しだけ悲しそうに笑うと、
「ファイト!」
力一杯、啓人の肩を叩く。
「痛い!」
「藍川君を悩ませる《彼女》がうらやましいな。頑張って。……それより、終業式が始まるから、早く行こう」
まだ時間に余裕はあったが、誓子は先に教室を出て行った。
式を終えて、
「純一や
「……さあ」
「心配だな。俺が手伝うことはあるか? 二人に確認しておこうか」
「いや、僕一人でやるから、大丈夫」
まだ何か言いたげな巧と別れて、一度家に帰る。それから啓人が目指したのは閑香の家だ。今は誰も住んでいないその場所に、閑香は二年前まで暮らしていたのだ。
もっと早くに連れてきてあげれば良かった。だが、寂れてしまった家を見せたくない気持ちが強かった。
「覚えてる? 君の家だよ。今は入ることはできないけど」
家の前に立つが、彼女はそこが自分の家だと気づいているのか、いないのか。傍からは判断ができない。
やはり、止めておけば良かっただろうか。
そう思った矢先、
「藍川……?」
「入舟先輩?」
小さく自分の名前を呼ばれた先に、制服姿の更紗が立っていた。
「……どうしてここに?」
「先輩こそ」
互いにしばし、見つめ合う。先に目を逸らしたのは更紗だった。
「じゃあ、また。夏休み、勉強やりなさいよ」
そう言って、そそくさと離れようとする。
「待って!」
後で家に行くつもりだったが、これは
「……なに?」
「その……明日から旅行に行くんだ」
「だから?」
「一緒に行きましょう」
「藍川、何言ってるの……」
さすがに唐突すぎたが、かえって更紗の足を止めることに成功した。
「明日から、閑ちゃんと旅行に行くんだ。巧も一緒に。できれば、純一や先輩も一緒に来て欲しいと思ってる」
一気に
自分でも驚いている。昨晩は弱気になっていた。つい先ほども無力さを感じたばかりだ。だが、自分は意外にもやる気を捨てていないらしい。たとえ、それが義務感と似通ったものだとしても前に進む手段に違いはない。
「閑香と……ってどういうこと?」
「今、僕の隣にいるんです」
「訳が分からないんだけど……」
啓人はずっと握ったままの閑香の左手を、更紗に向けて差し出す。かつての友人を前にしても、やはり閑香の表情は変わらない。
「閑ちゃんがここにいます」
更紗は啓人の左手の先を、見えない《彼女》を、何とか見ようとするかのようにして目を凝らした。大事そうに胸に抱えている小さなバッグに視線を落とし、慌てて背後に隠す。
てっきり、とげとげしい
「何がしたいの? ……藍川は、何を知ってるの?」
だが、更紗の口調は予想以上に弱々しい。
「私は過去を、閑香を忘れたって言ったはず。会いたくないとも言った。なのに、なぜ藍川は私を……責め立てるの」
その語尾は消えそうに小さく、しかしはっきりと啓人の耳に届く。
「責める?」
普段の更紗の口からは、聞かれそうにもない言葉だ。
「もし、もしも、閑香が本当にそこにいるのら、きっと私を
ああ、それは最後に彼女を見捨てた自分こそが、受けるべき視線だ。
だが、閑香の瞳には啓人も、更紗も、誰も映っていない。悲しいことに。
「責めるつもりはないんだけど」
「……そうよ、閑香がいる訳がない」
更紗は
「私としたことが、藍川の戯言に付き合うなんてどうかしていたわ。私は過去に
自らに言い聞かせるようにすると、今後こそ立ち去ろうとする。
「なら、どうして先輩は閑ちゃんの家にいるんですか? 僕に声を掛けたんですか? ……本当は先輩も過去に囚われているんじゃないですか?」
「私はあなたの質問に全て答える義務があるのかしら」
「ありません。ありませんが……気になります」
「前者の答えは、他の用事でたまたま通りかかっただけ。その際に昔の知り合いの家を眺めるくらいのことは誰だってするでしょう。後者の答えは、私が
「閑ちゃんは本当にここにいます。彼女の
そう言って、こちらを向き直した更紗に迷い言のことを話し始める。啓人の最後の切り札だ。
「…………………………」
だが、話し終えた啓人を無言のままたっぷりと見据えると、
「本当に……」
更紗はそれだけを絞り出した。さらに間を置いて、
「本当に……もう一度、閑香に会えるの?」
「先輩が一緒に来てくれれば、きっと」
「……そう」
更紗は
「あなたの絵空事に付き合ってあげる。……あの子は夢見がちだったから、この世に迷い出ても不思議じゃないかも知れないわね」
最後に表情を緩めて、
「その、言い出しておいてなんですが、勉強はいいんですか?」
「電車の中でも、どこでも勉強はできるから」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
「……はあ。あなたといい、五反田といい、どうかしてる。……付き合うって言った私も、やっぱりどうかしてる」
「巧がどうかしたんですか?」
「昨日も、教室まで説得に来た。藍川の話を聞いて欲しいって。まさか、こんな話だったなんて思わなかったけど」
「あいつが、そんなことを……」
正直、意外だった。協力を申し出てくれたが、一人でそこまでしていたとは。
もしかして、巧のその行動が更紗をここに連れてきたのだろうか。
「でも、ひとつ問題がある。……藍川、江崎、五反田と私で行くの? いくら泊まるところが藍川のお祖父さんの家でも、さすがに抵抗がある」
「それは大丈夫です」
詩葉が一緒に来ることになっている。そう伝えると、
「知らない人と?」
表情を曇らせたが、納得はしてくれた。
更紗は携帯を持っていないと言うので、明日の集合場所と時間を口頭で伝える。
「きっと、来て下さい。来るまで待っています」
「約束を違えるつもりはないから」
言いながら、背後に回したバッグをゆっくりと胸元に戻し、やはり隠すように抱きかかえる。何か大切な物が入っているのだろうか。
「あの子は、波長が合う人にとっては鮮明に聞こえるラジオみたいに、気持ちが通じ合う感じだった」
去り際の更紗の言葉に、啓人も頷く。
「閑香と藍川、閑香と私はそれぞれ波長が合ったけれど、でも私と藍川はどうしようもなく合わないわね。あの子は触媒だったのかしら。……本当に不思議」
その夜、
『純にぃ、明日は来てくれるのかな』
メールを送ると、しばらくして、
『行く』
純一からの返信には、その二文字が書かれていた。
電話をすると、
「あんな弱気なメールが来たら、かえって心配するだろう。巧からも催促されていたし。……ただ、お前から何の連絡もなければ、行くつもりはなかったけどな」
その
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