水に眠る(9)
「行こうか」
藍川家への帰路を、慎重に、確実に啓人は歩む。抵抗なく、閑香はついてくる。
幼い頃はその小さな手を引いて、ともに公園を
左手で
家に帰り、閑香を部屋に連れて行く。また濡れてしまった体を乾かすため、夕食前に風呂に入る。目を離すことに不安はあるが、まさか一緒に入る訳にもいかない。
風呂上がりも、彼女は部屋でずっと待っていた。
夕飯時、すぐ近くに閑香は立っていた。まさか啓人の家族も、子供の頃から良く知る閑香が同じ部屋にいるとは思わないだろう。そう考えると少しだけ可笑しくなる。
部屋に戻り、宿題に手を付ける。
「こうやって、閑ちゃんが家に来るのも久しぶりだね」
返事がないことは分かっていながらも、話しかけずにはいられない。
「僕の部屋も、随分変わったかな」
彼女がこの部屋に入ったのは、おそらく五年生の時、彼女にひどい言葉を投げつけた日の前日以来だ。その時の部屋の様子がどうであったかは、もはや霧の
机の上に置かれたスマホと充電器など、子供の頃には考えも及ばなかった物だ。
本棚に目を向ける。
「閑ちゃんのおかげで随分と本が増えたよ。まだまだ恥ずかしいけど」
閑香のことが知りたくて、償いの気持ちもあり、彼女が読んでいた本を何冊か買ってみた。閑香が生きている間に発刊されたものもあれば、事故の後のものもある。
分かったような気になって読んでいるが、果たしてどれだけ理解しているかと聞かれれば、自信はない。ただ、おかげで本を読むことが好きになった。
閑香は、中学の頃には啓人から見れば難しそうな本を随分と読んでいた。恥じる必要はないはずなのだが、つい比べてしまう。
『好きに読めばいいんだよ。読みたくなかったら、読む必要もないんだよ。読みたい時に、読みたい本を読むだけだよ』
いつだったか聞いた、閑香の言葉を不意に思い出す。
「……今は、もう本も読めないんだね」
閑香の死後も多くの本が出版されている。それらを、もう閑香は読むことができない。死ぬ、とはそういうことなのか、と意識させられる。
部屋を暗くしたら、閑香がその闇に溶けて消えてしまうのではないか。そんな恐れから、電気を消すことができない。
明るいまま横になっても、なかなか寝付けない。
目を開けては、ちらちらとまだ閑香が枕元にいることを確認する。
「閑ちゃんは何を望んでいるの? 僕が何をすれば……何を贈れば、君は言葉を取り戻してくれるんだろう」
もちろん、返事はない。それは、啓人が自分で見つけなければいけない答えだ。
眠りたくないと願っても、どうしても眠りは訪れる。
翌朝、目覚めた時、まだ部屋に閑香の姿があることに感謝する。
「おはよう」
独り言のように話しかけて、着替えを始める。
例え、そこにいるのが閑香の迷い言だとしても、その前でパンツ一丁になるのは恥ずかしいものだ。
反応もなく、存在すら希薄であっても、そこにいるのは女の子なのだ、ということを改めて意識してしまう。なんとなく背中を向けて着替えてしまった。
◇
その日のうちに
閑香の迷い言を学校に連れて行った。巧にも誰にも告げていない、二人だけの秘密の時間だ。
「藍川君、なんか嬉しそうだね」
「……そうかな?」
誓子の問い掛けに、自分でも理由が分かっていながらとぼける。
その間も、閑香は啓人のすぐ隣にいる。
彼女が通うことのなかった高校という場を知って欲しいと思った。無論、閑香の迷い言はただそこにいるだけで、何かを感じているという風はない。
自己満足だと分かっていても、そうしたいのだ。
さらに日が経ち、思い出の地への旅行の出発は明後日に迫っていた。二泊三日で母の実家に泊まることにしている。
巧は同行すると言ってくれた。純一には日程は伝えたが、返事はまだない。更紗には、それすら伝えられていない。
三日間、閑香との奇妙な同居生活を送った。啓人が学校に通う間も、食事をする間も、部屋で寛ぐ間も、寝ている間も、彼女の迷い言は、同じ時間をともに過ごしている。
初日こそ、どこか浮ついた気分になっていたが、次第に寂しくなってくる。
閑香はただそこにあるだけで、啓人が話しかけても答えず、失敗しても笑わず、着替えをしても恥じらわない。
啓人を責めることもない。
本当に、その内部に彼女の言葉はあるのだろうか。
自分が好きになったのは、閑香の容姿だけではない。彼女の精神、彼女の心、彼女の姿形も含めた、
しからば、目の前にいるのは《偽物》だ。《迷い言》というただの現象だ。ついには理不尽な怒りすら湧いてきて、そしてそのような感情を抱く自分に嫌悪を覚える。
「涙は世界で一番小さな海、そう言った人がいたよ。閑ちゃんも昔、似たようなことを言っていたよね」
以前、
「ねえ、閑ちゃん、聞いてる?」
傍らに立つ閑香の迷い言に、或いはどこにもいない彼女に、啓人は話しかける。
すぐ傍にいる彼女も、この世の人ではない彼女も、いずれも何も答えない。ただ、ぼんやりとした言葉にできない悲しみが増すばかりだ。
「……どうして、何も答えてくれないの」
啓人の独り言にも、閑香は反応しない。
詩葉さん、あなたは言葉には力があると言いましたね。
でも、自分の気持ちを表現する力すら、言葉は持っていないのではないですか。
《
そう思った瞬間、衝動的に純一に宛ててメールを送っていた。
『明日は来なくても、構わない。僕一人で大丈夫だから。嫌がる純一に無理強いするのは止めるよ』
縁が薄くなっていた幼馴染みまで巻き込み、自分は何をしようとしていたのだろう。ただ、迷惑を掛けただけではないか。そんな思いに駆られた。
同じ文面を巧に送ろうとしたところで、思い直す。
先ほどと変わらず、すぐ隣に立つ彼女の顔が寂しげに見えた。いや、それは自分の気持ちを映しているに過ぎないと、心の中では分かっている。
それでも、その時の閑香はまるで涙を流しているかのように見えた。啓人は、彼女の許へと歩み寄り、流れていない涙を指でそっと
「いま、閑ちゃんが流した涙も、海と繋がっているのかな」
右手の人差し指を舐めてみるが、なんの味もしなかった。
彼女が零した涙が目に見えないように、彼女が心に湛える海もまた、見えない。
それを、自分が《迷い言》の彼女を否定したいという一時の情動で、切り捨ててしまって良いはずがない。
ただ、自分に力がないだけだ。表現する言葉を知らないだけだ。先人の言葉に頼るしかない自分の無力さを啓人は思い知る。
純一に送ったメールを取り消すことはできない。かと言って、再度訂正のメールを送ることも
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