水に眠る(8)

 朝食を半分残してしまった。昨日の夜は遅くに帰ってきて、そして今朝はずっとぼんやりとしていた。両親や妹の心配する声も、上の空だった。

 自転車で登校するだけの気力が湧かず、バスを使う。明け方から降り始めた雨が路地を濡らしている。

 バスを降り、傘を差して学校へと歩く。道すがら、朝の夢を頭の中で繰り返す。

 あの浜辺にとらわれているのは、誰なのか。あの海に取り残されているのは、誰なのか。答えは自分の目の前にある。


 教室に入ろうとすると、入り口でたくみが待っていた。

「昨日はお疲れ。……寝不足か? 目の下の隈が酷いぞ」

「ちょっと……変な夢を見たから」

「変な夢?」

「うん、まあ」

「昨日の今日だから、何も進展はないと思うが、今日も一緒に行こうか?」

「いや、一人で行くよ。巧は練習もあるだろう。もう新体制なんだよね」

「そうなんだが。……そうか、分かった。いくら試合がなくても練習はしなきゃな」

 菊水高校の野球部は二週間ほど前に地方大会の初戦を迎え、一回戦負けを喫していた。既に新しいチームに移行していて、巧たちが最上級生になる。

 しかし、巧は補欠メンバーにも入れなかったらしい。

 啓人の目から見たら、あれほど野球が上手かった巧も、高校生になったら、弱小野球部のその他大勢の一人になってしまうのか。


 誓子せいこにも同じような心配をされる。

「大丈夫? 本当に何もない? 隈が酷いよ」

 よほど目立つらしい。

「大丈夫」

「でも、一昨日に公園で会った時も藍川君の様子が変だったし……」

「変なのは生まれつきだから」

 そう言って無理矢理笑うと、

「例えば、明日が美術展の締め切りだとして、でも出すべき作品は半分以上できていない。そんな時、春近はどうする?」

「もちろん、最後まで諦めないで頑張る!」

「だよね。僕も、同じなんだ」

「今はやることがあるってこと? 分かった。でも、無理はしないで」

「気を付ける」

 そうは言っても、無理をしなければいけない時もある。今がその時だ。

 閑香しずかを連れて行く。

 彼女が眠るあの海が見える、浜辺へ。子供の頃に共に遊んだ、あの浜辺。二年前にもう一度目指し、しかしたどり着けなかったあの浜へ。

 もう一度、あの場所に、あのメンバーで行く。閑香の迷い言も一緒に。

 それだけが、彼女から言葉を引き出す唯一の方法だと、今朝の夢を見たときから、いやもしかしたらもっと以前から、啓人は分かっていたはずだ。

 閑香は二人いる。いまだ海に沈む彼女と、そして溢れんばかりの想いを湛えて、その姿を映した彼女と。

 水に眠る閑香が――呼んでいる。

 彼女にも会いに行かなくては。


 放課後。

 美術部は夏休み前の打ち合わせがあり、本来ならば啓人も出なくてはいけないが、副部長の誓子に断って休ませてもらう。

「色々と終わったら、きっと戻るから。待っていて欲しい。本当に、ごめん」

「藍川君、なんか優しくなったよね」

「優しく?」

「うん。優しいって言えば、もちろん藍川君は前からずっと優しいんだけど、なんて言うかな、今は一生懸命。大切な人を憂うという意味で優しさがある気がする」

「いや、……そうかな、自分ではよく分からないけど」

「とにかく、体調には気を付けてね」


 駅方向から来て市内を北へと走るバスは、途中で菊水きくすい高の生徒を乗せて、ますます車内は混み合う。クーラーは入っているが、それでも蒸し暑く、不快感は否めない。

 座ることもできないまま、バスは進んでいく。信号やバス停で停まるたびに、もどかしく思う。

 ようやく最寄りのバス停で降りると、雨に煙る金宝山きんぽうざんを背にして、傘を差した啓人は早足で急ぐ。

 『つゆくさ』のドアを潜った時には、制服がかなり濡れてしまっていた。

「藍川さん、ようこそいらっしゃいました。……大丈夫ですか?」

 目のくまはそのまま、肩で息をしながら、制服はびっしょりと体に貼り付いている。

「コーヒーをお出しします。暖まりますよ」

 その言葉に感謝しつつ、啓人は勢い込んで口を開く。

「閑ちゃんを、連れて帰りたいんです。どこにいますか!?」

 身を乗り出さんばかりにする啓人に、

「ともかく、落ち着いて下さい」

 詩葉に差し出されたタオルで首筋や額を拭くと、それだけでも随分と不快感ふかいかんが減る。彼女が用意したタンポポのコーヒーを飲み終えて、啓人は自らの決意を示す


 今朝の夢で見たあの海へと閑香を連れて行きたい。啓人の言葉に、

「藍川さんのご希望は理解しました。思い出の場所に連れて行くというのは、良い考えだと思います」

「じゃあ」

 しかし、詩葉は啓人を制して、

「その上で良くないお知らせです。閑香さんの迷い言は、もう長くないでしょう。このままでは、じきに消えてしまいます」

 その宣告を、啓人は思いのほか冷静に受け入れた。

 朝の夢から、その事実を感じ取っていたのかも知れない。別れが近い。そんな予感がしていた。だからこそ、早く連れて帰りたいと思ったのだ。

「閑ちゃんは、ずっとあの公園で待っていたんでしょうか。……どうして、ここに来てくれなかったんでしょうか」

 迷い言が訪れる場所だという詩葉の待つこの店に真っ直ぐ来ていれば、もっと長い時間をともに過ごすことができたかも知れないのに。

「たまたま、通りがかったところだったのか。それとも、ずっとそこで藍川さんを待ち続けていたのか。

 ……あるいは、閑香さんはあの場所に囚われていたのかも知れません」

 詩葉の言葉に、不意に思い当たる。

 そうか。彼女が魚だとしたら、自分はようやく狭い檻に囚われていたはかない一匹の小魚を掬い出せたのか。あの時は助けられなかった。だが……今度こそは。

 まだ、始まりに過ぎない。

「土曜に出発します。詩葉さん、一緒に来てもらえますか?」

 もう夏休みに入る。それでも、今日を含めてあと四日は間がある。

「はい。私には、あなた方の行く末を見届ける義務と理由があります」

 そう答える詩葉の顔は柔和でいて、どこか悲壮に見えた。


 啓人が部屋の奥へと向かうと、閑香は自らの写し絵の前に直立していた。動かない彼女は、まるで立像のようだ。

 しかし、目前にいてもうっかりすると見失ってしまいそうになる。目を凝らして、ようやく見ることができる。

 昨日と比べて急激に存在感が薄くなっている。もともと、迷い言特有の感情や表情の乏しさ、気配の希薄きはくさはあったが、例えば最初に啓人が感じたように、正に対する負の存在感、光対闇、陽対陰、明対幽、実対虚、そういったものであって、それもまた迷い言特有のものだった。

「時間がないなら、余計に残された時を閑ちゃんと一緒に過ごしたいと思います」

 啓人は閑香の右手を握る。

 まるで、薄っぺらい布を掴むような手応えだった。一旦離してしまったら、風に飛んでどこかへ消えててしまいそうだ。しかし力を入れて掴んだら、そのまま握り潰してしまいそうなもろさもはらんでいた。

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