水に眠る(7)

 詩葉うたはの店の前に自転車を停める。

「『つゆくさ』? ここに閑香がいるのか?」

 半信半疑の巧と、ずっと黙り込んでいる純一と共に中に入る。

「藍川さん、いらっしゃい。今日は少し遅かったですね。お二方は閑香さんのお知り合いですか? お待ちしておりました」

「二人を案内します」

「はい」

 詩葉は軽くうなづき、三人を見送る。

「啓人、あれが昼に言ってた梅ヶ枝さんか? すごい美人だな」

「うん。ここの店の人だよ。そして……僕たちの力になってくれる人だ」

 純一は果たして、啓人たちの会話を聞いているのか、いないのか。ただ、黙って後ろを歩いてくる。

 壁面へきめんに飾られた他の絵をほぼ素通りする。本当ならば、一つ一つに目を向けて欲しいと思うが、今ばかりは二人を早く案内したい。

「この絵は……」

 閑香しずかの絵の前に立った途端、巧と純一が絶句する。 

「どうして、閑香の絵がここに? 事故の前にモデルになったのか?」

 口を開いたのは、巧だ。純一はいまだ閑香が描かれた絵を前にして動けないでいる。まるで、そこに本当に閑香がいるかのように。

 実際、閑香の迷い言は三人のすぐ傍にいる。今はまだ啓人だけが見えている。様子に変化はない。

「この絵を描いた人が、閑香を見たからだ」

「誰が描いたんだ?」

「さっきの詩葉さんのお母さんだ。真理さんは迷い言が見える人だった。そして、見た迷い言をこうして絵に残してきた。僕も同じように……閑香の迷い言が見える」

「迷い言? 迷い言って……何のことだ?」

 巧が問い返す。当然だろう。これまで、迷い言の説明はしなかった。少なくとも実際にこの絵を見てもらうまでは、信じてもらえないと思ったからだ。

 迷い言の存在、伝え人の役割、それらを語る。そして、閑香の迷い言から言葉を聞くことこそが、啓人の目的なのだと。

「今の話が本当だという証拠はないよな」

 それまで黙って話を聞いていた純一が、挑むように口を開く。

「じゃあ、この絵は?」

「オレたちを騙すために用意したんだろう。啓人が協力すれば、簡単なことだ」

「閑ちゃんだけじゃない。純にぃも覚えてるだろう? ここは子供の頃、一緒に遊んだあの海だ。僕のお祖父さんの家の傍にあった、あの海だ。あの浜辺だ」

「そうか。見覚えがあると思ったら……。そのままの風景だな」

「啓人の良く知ってる場所だ。なんの証拠にもならない」

「どうして、僕がそんなことをする必要がある?」

「オレたちをからかうため、オレを笑うためだ。さっきの女もグルなんだろう?」

「純一、言ってることがメチャクチャだ。分かってるだろう?

 啓人。俺は正直、今でも半信半疑だけど、この絵は何ていうか……説得力がある。閑香の死後に、その閑香を描いたものだって思わせる気配? みたいなものがあるように思う。そいつは、お前の言う迷い言ってやつなら納得できる」

「そうだ。第一、僕がそんな悪戯いたずらをする理由なんて、どこにもないじゃないか。

 信じてもらえないかも知れないけど、この絵は確かに閑香の迷い言を描いたもので、そしてここには、僕たちのすぐ傍には、今も彼女がいるんだ」

 啓人の視線は隣にいる閑香に向けられる。閑香の迷い言に。未だ行く末も定まらず、発する言葉を見つけられず、自らの役目を果たしていない彼女に。

 二人には見えなくとも、ここに確かに閑香はいる。

 啓人が向く方を、自然と巧と純一も見つめる。

「だから、僕は……閑ちゃんの遺そうとした言葉が知りたい。その言葉を伝えたい相手が、誰なのか、ここにいる僕らなのか、入舟先輩なのか、行方の分からない両親なのか、それは分からない。それを聞き出せるのは、そして、その誰かに届けられるのは僕だけで、でも僕だけじゃ、ダメなんだ」

 純一はそう語る啓人の顔を穴が開くほど見つめ、

「啓人……お前は、お前だけは本当にやり直すチャンスがあるって言うのか? オレにはなくて……お前には」

 やがて、折れたように力なく項垂れる。

 巧は、そんな純一を一瞥してから「……俺はやるよ」と呟いた。

「いや、何が何だかさっぱり分からないけどな。嘘にしては大げさ過ぎる。それに、好きな子のために何かしたいっていう気持ちは理解できる。……ましてや、今はもういない人のためならな」

 思いのほか、優しい声で啓人に賛同を示した。

 しかし、純一は顔を伏せ、誰とも目を合わせぬまま、

「何で分かるんだよ。だいたい、オレや巧が何をすればいい? 高森の姿も見えない、声も届かない、触れられない。いったい何ができる。……オレには何もできない。なんの力もないんだ」

 今にも泣き出しそうな声で呻く。

 そこには、かつてリーダーとして皆を先導した姿も、つい先ほどまで遠ざけようとするように啓人を威嚇した姿もなく、ただ等身大の一人の少年がいるだけだった。

「難しいことは言わない。そんなことは、僕にも分からない。ただ、傍にいてくれるだけでいいんだ」

「……今日は着いていくだけだって言ったよな。帰らせてくれ」

 純一は力なく言うと、先に建物を出て行く。引き留めることはできなかった。

「今は現実を受け止められないんだろう。……って、それは俺も同じだけどな。きっと、力を貸してくれるさ」

 それから、巧も「先に帰るわ」と言って去って行った。

 辺りはすっかり暗くなっている。巧の自転車のライトを見送ると、啓人もさすがに疲れを覚えた。

 今日という時間は、あまりにも長すぎた。

「僕も帰ります。閑香のこと、よろしくお願いします」

 啓人たち三人の様子をずっとうかがっていたはずの詩葉は何も言わず、ただ「お気を付けて」とだけ返した。

「……また、明日来るから」

 最後に奥の閑香に向かって、声を掛ける。

 啓人はペダルをゆっくりと漕ぎ始める。体は疲れ、心にもゆとりはない。それでも、足を動かすと、自転車は前に進む。


   ◇


 家に着き、遅い夕食をって風呂から出ると、すぐに眠気が襲ってくる。勉強もしなくては、という気持ちはあるが、睡眠欲に負けて、ベッドに横になってしまう。

 閑香に会えた今でも彼女の夢を見るだろうか。何かを示唆するのだろうか。それでも、夢を見なければ良いのに、と願った。


 しかし、また夢を見た。

 啓人がいるのは、あの浜辺だ。真理が絵に残した景色そのままの場所に立っている。あまりにそっくりで、絵の中に入ってしまったのかと錯覚するほどだ。

 目もくらむばかりの太陽が南天に輝いている。打ち寄せる波音がリズムを刻む。

 海に向かって立つ啓人は独りきり、子供の姿をしていた。

 他には誰もいない。閑香も、巧も、純一も、更紗も。誰も。

 仕方なく、啓人は波打ち際へと向かう。潮が満ちていて、足下を海水が浸す。

「けいくん」

 小さな声で、誰かが呼んだ気がした。その声に誘われ、啓人は歩いて行く。

 幾つかの石が足下に転がっている。それらの石を環状に積んで作った囲いがあった。覗き込むと、一匹の魚が泳いでいる。名も分からない小魚だ。潮が満ちても、そこまでは水が来ないから、魚は逃げることができない。

「けいくん」

 また、誰かが呼んだ。

「けいくん、にがしてあげようよ」

 檻にとらわれた魚はこのままでは、いずれ死んでしまうだろう。

 魚が話しているのか、それとも見えない誰かが話しているのか。

 また、分からなくなる。

 誰とも知れぬ声に従って、啓人は逃がしてやろうと魚を掬おうとする。

 だが、ゆったりと泳ぐ小魚は、捕まえようとしても、なぜか指の隙間から逃げてしまい、何度も同じことを繰り返す。焦れば焦るほど、自分が何もできないことを知る。

 せめて、誰か力を貸してくれれば。自分以外にも誰かがいてくれれば。


 けいくん、おねがい。

 誰か――助けて。

 閑香が言うのか。魚が言うのか。閑香が魚なのか。魚が閑香なのか。


 目が覚めると、またぐっしょりと汗を掻いていた。パジャマが体に張り付き、脱ぐのに苦労するほどだった。

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