水に眠る(7)
「『つゆくさ』? ここに閑香がいるのか?」
半信半疑の巧と、ずっと黙り込んでいる純一と共に中に入る。
「藍川さん、いらっしゃい。今日は少し遅かったですね。お二方は閑香さんのお知り合いですか? お待ちしておりました」
「二人を案内します」
「はい」
詩葉は軽く
「啓人、あれが昼に言ってた梅ヶ枝さんか? すごい美人だな」
「うん。ここの店の人だよ。そして……僕たちの力になってくれる人だ」
純一は果たして、啓人たちの会話を聞いているのか、いないのか。ただ、黙って後ろを歩いてくる。
「この絵は……」
「どうして、閑香の絵がここに? 事故の前にモデルになったのか?」
口を開いたのは、巧だ。純一はいまだ閑香が描かれた絵を前にして動けないでいる。まるで、そこに本当に閑香がいるかのように。
実際、閑香の迷い言は三人のすぐ傍にいる。今はまだ啓人だけが見えている。様子に変化はない。
「この絵を描いた人が、閑香を見たからだ」
「誰が描いたんだ?」
「さっきの詩葉さんのお母さんだ。真理さんは迷い言が見える人だった。そして、見た迷い言をこうして絵に残してきた。僕も同じように……閑香の迷い言が見える」
「迷い言? 迷い言って……何のことだ?」
巧が問い返す。当然だろう。これまで、迷い言の説明はしなかった。少なくとも実際にこの絵を見てもらうまでは、信じてもらえないと思ったからだ。
迷い言の存在、伝え人の役割、それらを語る。そして、閑香の迷い言から言葉を聞くことこそが、啓人の目的なのだと。
「今の話が本当だという証拠はないよな」
それまで黙って話を聞いていた純一が、挑むように口を開く。
「じゃあ、この絵は?」
「オレたちを騙すために用意したんだろう。啓人が協力すれば、簡単なことだ」
「閑ちゃんだけじゃない。純にぃも覚えてるだろう? ここは子供の頃、一緒に遊んだあの海だ。僕のお祖父さんの家の傍にあった、あの海だ。あの浜辺だ」
「そうか。見覚えがあると思ったら……。そのままの風景だな」
「啓人の良く知ってる場所だ。なんの証拠にもならない」
「どうして、僕がそんなことをする必要がある?」
「オレたちをからかうため、オレを笑うためだ。さっきの女もグルなんだろう?」
「純一、言ってることがメチャクチャだ。分かってるだろう?
啓人。俺は正直、今でも半信半疑だけど、この絵は何ていうか……説得力がある。閑香の死後に、その閑香を描いたものだって思わせる気配? みたいなものがあるように思う。そいつは、お前の言う迷い言ってやつなら納得できる」
「そうだ。第一、僕がそんな
信じてもらえないかも知れないけど、この絵は確かに閑香の迷い言を描いたもので、そしてここには、僕たちのすぐ傍には、今も彼女がいるんだ」
啓人の視線は隣にいる閑香に向けられる。閑香の迷い言に。未だ行く末も定まらず、発する言葉を見つけられず、自らの役目を果たしていない彼女に。
二人には見えなくとも、ここに確かに閑香はいる。
啓人が向く方を、自然と巧と純一も見つめる。
「だから、僕は……閑ちゃんの遺そうとした言葉が知りたい。その言葉を伝えたい相手が、誰なのか、ここにいる僕らなのか、入舟先輩なのか、行方の分からない両親なのか、それは分からない。それを聞き出せるのは、そして、その誰かに届けられるのは僕だけで、でも僕だけじゃ、ダメなんだ」
純一はそう語る啓人の顔を穴が開くほど見つめ、
「啓人……お前は、お前だけは本当にやり直すチャンスがあるって言うのか? オレにはなくて……お前には」
やがて、折れたように力なく項垂れる。
巧は、そんな純一を一瞥してから「……俺はやるよ」と呟いた。
「いや、何が何だかさっぱり分からないけどな。嘘にしては大げさ過ぎる。それに、好きな子のために何かしたいっていう気持ちは理解できる。……ましてや、今はもういない人のためならな」
思いの
しかし、純一は顔を伏せ、誰とも目を合わせぬまま、
「何で分かるんだよ。だいたい、オレや巧が何をすればいい? 高森の姿も見えない、声も届かない、触れられない。いったい何ができる。……オレには何もできない。なんの力もないんだ」
今にも泣き出しそうな声で呻く。
そこには、かつてリーダーとして皆を先導した姿も、つい先ほどまで遠ざけようとするように啓人を威嚇した姿もなく、ただ等身大の一人の少年がいるだけだった。
「難しいことは言わない。そんなことは、僕にも分からない。ただ、傍にいてくれるだけでいいんだ」
「……今日は着いていくだけだって言ったよな。帰らせてくれ」
純一は力なく言うと、先に建物を出て行く。引き留めることはできなかった。
「今は現実を受け止められないんだろう。……って、それは俺も同じだけどな。きっと、力を貸してくれるさ」
それから、巧も「先に帰るわ」と言って去って行った。
辺りはすっかり暗くなっている。巧の自転車のライトを見送ると、啓人もさすがに疲れを覚えた。
今日という時間は、あまりにも長すぎた。
「僕も帰ります。閑香のこと、よろしくお願いします」
啓人たち三人の様子をずっと
「……また、明日来るから」
最後に奥の閑香に向かって、声を掛ける。
啓人はペダルをゆっくりと漕ぎ始める。体は疲れ、心にもゆとりはない。それでも、足を動かすと、自転車は前に進む。
◇
家に着き、遅い夕食を
閑香に会えた今でも彼女の夢を見るだろうか。何かを示唆するのだろうか。それでも、夢を見なければ良いのに、と願った。
しかし、また夢を見た。
啓人がいるのは、あの浜辺だ。真理が絵に残した景色そのままの場所に立っている。あまりにそっくりで、絵の中に入ってしまったのかと錯覚するほどだ。
目も
海に向かって立つ啓人は独りきり、子供の姿をしていた。
他には誰もいない。閑香も、巧も、純一も、更紗も。誰も。
仕方なく、啓人は波打ち際へと向かう。潮が満ちていて、足下を海水が浸す。
「けいくん」
小さな声で、誰かが呼んだ気がした。その声に誘われ、啓人は歩いて行く。
幾つかの石が足下に転がっている。それらの石を環状に積んで作った囲いがあった。覗き込むと、一匹の魚が泳いでいる。名も分からない小魚だ。潮が満ちても、そこまでは水が来ないから、魚は逃げることができない。
「けいくん」
また、誰かが呼んだ。
「けいくん、にがしてあげようよ」
檻に
魚が話しているのか、それとも見えない誰かが話しているのか。
また、分からなくなる。
誰とも知れぬ声に従って、啓人は逃がしてやろうと魚を掬おうとする。
だが、ゆったりと泳ぐ小魚は、捕まえようとしても、なぜか指の隙間から逃げてしまい、何度も同じことを繰り返す。焦れば焦るほど、自分が何もできないことを知る。
せめて、誰か力を貸してくれれば。自分以外にも誰かがいてくれれば。
けいくん、おねがい。
誰か――助けて。
閑香が言うのか。魚が言うのか。閑香が魚なのか。魚が閑香なのか。
目が覚めると、またぐっしょりと汗を掻いていた。パジャマが体に張り付き、脱ぐのに苦労するほどだった。
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