水に眠る(6)

 放課後。まず、巧と一緒に更紗の教室へ行く。

 呼び出しを頼むと、こちらに向かって歩いてきた更紗は露骨に顔をしかめている。

「二人とも、何しに来たの?」

「お願いします。話を聞いて下さい」

「……場所を変えましょう」

 クラスの一部が好奇心からか、耳をそばだてているせいもあるだろう。更紗の提案を受けて、連れて行かれたのは生徒会室だった。

「今日は会議もないから、多分誰も来ない。手短にお願い」

「話があるんだけど」

「それはさっきも聞いた。でも、私にはない」

「俺たちは先輩に何かしたかな。そこまで、とげとげしい態度を取られる理由はないと思う。仮にも、昔は一緒によく遊んだ仲じゃないか」

「五反田、あなたもまさか閑香のことで藍川と一緒になってるわけ?」

「そんなところかな。なつかしさから、手伝うことにしてみた」

「呆れた。過去を振り返る余裕があるなら、未来を見なさい。先輩からの忠告よ」

 更紗は小柄でせ気味な体を反らせて、二人を睨む。

「昨日、閑香のことは忘れてしまったって言いましたよね。本当ですか?」

「物理的な意味で言えば、もちろん覚えているわよ。私は記憶力が悪いわけじゃない。でも、それは完全に過去のこと。過去という字は、過ぎ去ると書くの。二人とも、知ってる? 既に終わったことは忘れたことに等しいの」

「先輩が強調するほど、なんか実は忘れていないみたいに聞こえるけど」

「……確かに昔は遊んだかも知れない。でも今は違う。それくらい二人だって、分かっているはず。この歳になって付き合う友人は、それだけ趣味や性格が合っている人ってこと。単に近くに住んでいた幼馴染みだというだけで、いつまでも一緒にいる方がおかしい。時間はすべてを変える。そして、私は過去を振り返る必要はない」

「それが閑ちゃんのことでも?」

「昨日も言ったはず。閑香とは特に仲が良かった。あの事故は気の毒だったと思う。でも、やはりもう過去のこと。終わったこと。済んだこと。

 今更、閑香のことで何を話すの? 昔話? 思い出話? 馬鹿馬鹿しい。あなた達が入学してから、一年以上経つのに、どうして今になって私に接触してくるの?」

「そうする理由ができたんだ。先輩は、もう一度閑ちゃんに会いたくない?」

「……閑香に? 会う?」

 けわしかった更紗の表情に、初めて戸惑いが生じ、

「昨日も、今日も、いったい何なの? 閑香、閑香、閑香って。私の邪魔をしないで。私は暇じゃないの。もう、私を惑わせないで! 私を苦しめないで!」

 悲痛な声がほとばしる。

 更紗はすぐに感情的になった自分を恥じるように顔を背けると、

「話がそれで終わりなら、もう帰る」

「待って。今の質問に、イエスかノーかだけでいいんだ。答えて欲しい」

「答えは、ノーよ。今までの話を聞いていなかったの? あり得ない前提の質問に答えるほど空しいことはないって、はっきり分かったわ。

 それじゃあ、さようなら。もう尋ねてこないで。五反田、あなたもよ。私とあなた達は、かつては友達だった。でも今は違う。そして、これからも」 

 そう言い捨てて、更紗は会議室を出て行こうとする。

「僕は……閑ちゃんのことが好きだった。だから、彼女の力になりたい」

 隣の巧が「大胆だな」と呟く。

「そう。気の毒だけど、その好きだった子はもういない。いい加減、気づきなさい」

 振り返ることなく、更紗は歩みを止めなかった。

 最後の別れの言葉は、強烈だった。何故、彼女はそこまで二人のことを遠ざけようとするのか。

 嫌われているならば、何もこちらから近づいていく必要はないとも思う。

 苦手な相手とは適当な距離を取る。それが精神の安定を図る一番の良策であることは、啓人も知っている。

 同時に、今だけはそれができない時であることもまた、啓人は知っている。


「あれがツンデレってやつか?」

「多分、違う」

「だよな。ツンしかない。デレは欠片も見当たらない。黙っていれば、可愛いのは昔っから変わらないのに、もったいない」

「取り付く島もないって感じだったね」

「それ、一生で一度は使ってみたい台詞だな。今使えるなんて、啓人が羨ましい」

「……なんだ、それ」

 校門を出ると巧と並んで、自転車のペダルを漕いで帰り道を進む。

 入学したばかりで、学内に知り合いがいなかった頃は何度か一緒に帰ったが、クラスも違い、それぞれ違う部活に入り、各々の生活リズムができるに従って、疎遠になり、一年以上が経つ。

 壁を感じることもあったが、いざ隣に並べば意外に昔と同じように会話が続く。

 部活の話、クラスの話、中学時代の話、そして子供の頃の話。純一の家に向かう間で、色々な話をした。

「純にぃも、会ってくれるといいんだけど」

「そもそも、もう帰ってるのか?」

「……さあ」

「部活も辞めてるし、学校は俺たちより近い。帰っていてもおかしくないとは思うが、寄り道している可能性は充分にあるな」

「ごめん。行き当たりばったりだ」

「まったくその通りだ。仕方ない」

 巧は携帯を取り出し、メールを打つ。

「僕、純にぃの携帯、知らないな」

 昨日、純一の母には自分の携帯番号を伝えたが、その後はどうなっただろうか。

「俺もメールするのは久しぶりだし、会うのはもっと久しぶりだ」

 結局、返信がないまま純一の家に着いてしまう。チャイムを鳴らすと、しばらく間があってから純一が出てくる。制服姿のまま、啓人をにらみ付ける。

「お前も一緒なのか」

 どうやら、巧は啓人が同行することはメールに書かなかったようだ。

 昨日の今日だ。更紗に続いて迷惑そうな顔をされると、さすがに啓人も落ち込む。

「久しぶりだな。元気にしてたか?」

「そう見えるか?」

「まあ、見えないな。元気じゃないっていうか、健康じゃないって感じだ。つまり不健康だな」

「言い直さなくても分かる。まさか、メールに書いてあった用事ってのは、啓人の昨日の話の続きか? だったら、聞く必要はないだろ」

「今から来て欲しいところがあるんだ」

 純一がきびすを返して家の中に戻ろうとする前に、先手を打つ。

「二人には、閑香と会ってもらいたい。だから、一緒に来て欲しい」

 遠回りは終わりだ。からは苦手だ。交渉は得意じゃない。ならば真摯しんしに、真っ直ぐに、直接、要求をぶつける。

 巧の時は上手くいった。巧も純一も、それに値する相手だと啓人は知っている。

「は? ふざけてんのか。また、高森の話か。巧だけだと思ったから出てきたんだ。啓人がいるなら、オレは付き合わねえ」

「純にぃの力を貸して欲しい。もちろん、巧の力も」

「力を貸す? オレが?」

 純一が振り返り、啓人にきつい視線を向ける。野球を止めたとは言え、その体つきはがっしりしていて、威圧感を覚える。

「そう。閑ちゃんを助けるために」

「高森、高森、高森。……なあ、啓人。それは、何かの遊びなのか? 子供の頃にやったような、ごっこ遊びか? だとしたら、随分とまらねえお遊戯ゆうぎだ」

「今は何を言われても構わない。どうしても助けてくれないと言うなら、僕一人でやる。でも、みんなが揃わないと、きっと上手くいかない。……どうか、僕にやり直すチャンスを与えて欲しい」

「チャンス? ……あのな、良いことを教えてやる。人間、一度失敗したら二度とチャンスは来ないんだ。もう、それで終わりだ」

「肩を悪くしたからって、全部諦めるのかよ。格好悪すぎるぜ、それが俺たちの純にぃか?」

「タク、お前に何が分かる。……いや、お前は分かってるはずだ。野球がなくなったら、オレは何もできねえんだ。勉強もできない、他に何の取り柄もない。オレは、もうお前達の純にぃじゃないんだ。だから、放っておいてくれ。

 もし高森に本当に会えたとしても、今の格好悪いオレの姿なんて見られたくねえよ。だって、惨めじゃねえか。オレはあいつの期待に……応えられなかったんだからよ」

 純一の声が弱くなり、俯いてしまう。

「格好悪いくらいで、閑ちゃんは笑ったりしないよ。惨めだなんて思わない。閑ちゃんがそういう子だって知ってるだろう? 今の自分が格好悪いと思えるなら、純にぃは、きっと大丈夫だ。

 だから、一緒に来てくれないかな。来てくれるだけで良い。僕が、過去は取り戻せるって証明してみせる。僕が過去を取り戻す。その様子を見て欲しい。お願いだ」

「……駄目だったら、そら見たことかって笑ってやる」

「笑ってくれて良いよ。だから、最後まで見届けて欲しい」

「……着いていくだけだ。それだけだからな」


 純一は啓人たちの後に続いて、寡黙かもくに自転車を漕ぐ。啓人と巧の間にも会話はなかった。三人が揃うのは、それこそいつ以来だろうか。思い出せない。

 夕方の風は涼しく、まだ梅雨の最中であることを忘れてしまいそうだ。西の空に広がる雲影が夕陽を受けて、オレンジ色に染まっている。きっと、以前もこうして日が暮れようとしている時間を三人で並んで走ったことがあるに違いない。具体的な日時を思い出すことは、永遠にできないとしても。

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