水に眠る(5)

 長い間、しゃべり続けていたような気がしたが、実際に時計を見ると、それは十分にも満たない間のことだった。

 たった、それだけの時間で、あの日に起きたことの説明ができてしまうのかと思うと、寂しくなってしまう。

「これだけ詳しい話をしたのは、詩葉さんが初めてです」

 言いながら、啓人は閑香の姿を目で追う。

 視界が滲んでいるのは自覚している。涙を流すまいと耐えながら、詩葉と向き合うことができず、視線で閑香の姿を探した。

 彼女が歩く様子は、まるでいるはずもない魚の姿を追い求めているように見える。

 自分自身が描かれた、真理の遺した絵の前に来た時、少しだけ首を傾げて、立ち止まった。だが、それだけだった。そこに映るのが自分だとは、気づいていないようだ。

「よく話して下さいました」

 詩葉は啓人をいたわると、タンポポのコーヒーを出してくれた。

 今日は天候も良く、話し続けていたから冷たい飲み物が良いと初めは思ったが、いざ口を付けると、その温かさが喉から胸に染み渡る。

「落ち着きましたか?」

「はい」

 まだ少し右手が震えている。しかし、啓人は拳に力を入れて、ぐっと握りしめる。

「閑香さんは、あなたに縁の深い迷い言です。彼女のことを誰よりも、もちろん私よりもご存知のはずです。あなたがずっと会いたかった人なのでしょう。

 それでも、私を頼りますか? 私の力を借りますか? 閑香さんが必要としているのは、誰ですか?」

「……僕がやります」

 誰かの手ではない。自分の手で助ける。

 もう、後悔はしたくない。

 あの日、掴み損ねた手を、次はきっと離さない。

「もう遅くなりました。閑香さんは私が見ていますから、今日の所はお帰りになってはいかがですか?」

 携帯を確認すると、家から何回も着信があった。閑香のことに掛かりっきりで、まったく気づいていなかったのだ。

「お願いします」

「先ほどはああ言いましたが、相談には乗ります。私も、あなた方の行く先に興味があります。どのような結末を迎えるのか、見守らせて下さい」

 その言葉に安心し、最後にもう一度、閑香の様子を確認すると、先ほどと変わらず閑香の形をした影とも呼ぶべき少女が立っている。

「じゃあ、閑ちゃん、また明日」

 声を掛けても返事がないことは分かっていたが、そうすることが自然だった。

 家に帰ると、心配した両親や妹が待っていた。帰る間に心を落ち着けたはずだったが、笑未には目尻に残る涙の乾いた後を見つけられ、泣きそうな顔で何かあったのかと聞かれた。あの事故以来、家に籠もりがちな妹だが、その優しさを保ったままでいることを嬉しく思う。


   ◇


 翌日、朝から閑香のことが気に掛かるが、詩葉からのメールには特に変わりがない旨が簡潔に書かれていたため、いつも通りに登校する。

「ねえ、藍川君。昨日は大丈夫だった?」

 教室に入ると、すぐに誓子が近づいてくる。

「別に何もないけど」

「そう? なんか、昨日の様子がちょっと違ったような気がしたんだけど」

「トイレに急いでたんだって」

「じゃあ、どうして昨日は公園にいたの?」

「それは……スケッチだよ」

「ふーん……。もし、何か困ったことがあったら、あたしにも相談してよ」

 誓子が頼もしい学級委員長の顔をする。彼女とは、迷い言という秘密を共有している数少ない相手だ。信じがたいことをすんなり信じてくれるという点ではありがたい。

 授業中も、これからのことばかり考える。前向きになれたと言えば、きっと良いことなのだろう。

 どうすれば、閑香の言葉を引き出せるだろうか。啓人が直接知る伝え人は、詩葉一人だけだ。彼女のようなやり方、つまり迷い言の想いをなぞり、彼らの言葉を代弁し、そのきっかけを与えるために先人達の昔日の思いが込められた歌や詩を贈る、という方法しか知らない。

 彼女の母、真理は絵をそのきっかけにしていたようだが、詳しいことは分からない。自分の絵では、真理のように思いを伝えることはできないだろう。

 ならば、もっと閑香のことをもっと知る必要がある。彼女の足跡を辿ることしか、自分が始められることはない。


「巧、ちょっと話があるんだけど。一緒に昼飯を食べないか?」

 昼休み、隣のクラスに顔を出す。

「こんな風に誘われるなんて久しぶりだな」

 巧のクラスの片隅で、机を向け合って昼食を共にする。巧の言うとおり、こんなことはいつ以来だろう。高校に入ってからは初めてではないだろうか。

「昨日、純にぃに会った」

「どうして、また?」

「聞きたいことがあったんだ。……なあ、巧は純にぃが野球を止めた理由を何か知ってるのか? あんなに頑張っていたのに」

「そうか、知ったのか」

 巧が辛そうな顔をする。

「頑張ってたからだよ。頑張って、頑張り続けていたからこそ、できなくなった時に耐えられないんじゃないか。何をしたら良いか、分からなくなるんだ。次にどうしたら良いか分からなくなって、そこで立ち止まっちまう。ずっと口止めされてたんだが……。純一は、あの事故で肩を痛めたんだ」

 巧の言うあの事故が何を指すかは言わずもがなだ。

「みんなで逃げるときに、人混みに巻き込まれて転んで肩を強打したらしい。俺もその現場を見ている余裕なんてなかったけど、後からそう聞いた。純一には他の奴、特に啓人には言わないで欲しいって言われたからな」

 巧が言うには、痛めた肩は完治せず、日常生活はともかく、これまでと同じように野球をすることはできなくなってしまった。

 進学後も部活で野球を続けたかった純一は、そのことを誰にも隠していたが、ついにはボールを投げることもままならなくなり、利き腕ではない左手を無理して使った結果、左手も痛めてしまった。そして、野球部を辞めることになった。

 一年遅れて菊水高校の野球部に入った巧が、純一の進学した高校の野球部に彼の名前がなく、直接連絡をした結果、今のようなことを教えられたということだった。

「純一は野球が好きで、野球がやりたくて、野球しか知らなくて、でもできなくなった。他にやることも見つけられなくて……。だから、あんな風に……」

「巧は会っているのか?」

「前はたまに様子を見に行ってた。俺にとってはいつまでも野球の上手い純にぃだしな。でも、今はもう。あんな姿を見るのは辛いし、純一も嫌がるようになって。だから、最近は会ってない」

「だから、純一は『お前のせいだ』と言ったのか……」

「そんな風に啓人が責任を感じるから、きっと言わないで欲しいって言ったんだと思うぜ、純一は。なのに、どうして会いに行った? もう、用事なんてないだろう」

 それはさびしい物言いだった。だが、真実を含んでいる。もし、閑香の件がなければ、会いに行くことはなかっただろう。そして、今の純一の姿を知ることもなかった。

「閑香のことで聞きたいことがあったんだ。まさか、そんなことになっているとは知らなかった」

「閑香……高森閑香のことか? どうして、今更?」

「巧にとっても、今更なのか」

 純一も更紗も、同じ言葉を口にした。皆、『今更』だ。

「違いないだろう。俺たちにとって、二年前に終わったことだ。忘れたいことだ」

「違う。僕にとっては、今更じゃない。僕にとっては昔じゃない。……閑香のことは、現在進行形なんだ」

「それで、閑香の何を聞きたい? まさか純一だけじゃなくて、入舟先輩の所にも行ったのか?」

「ああ。やっぱり、今更だって言われたよ」

「そうだろうな」

「僕が知りたかったのは、閑香の両親の居場所か、それかお墓の所在だ」

「……言われてみれば、俺も知らないな。そうか、分からないのか」

 それらは、閑香の迷い言を探すために知りたかったことで、今となっては優先事項ではない。だが、いずれは知りたいことに違いはない。

 今の目的、つまり閑香の迷い言から言葉を引き出すためには自分一人ではどうしようもない。かと言って、詩葉には頼らないと決めた。幼馴染み達は、もう誰も閑香に興味がないのだろうか。

 それではあまりにも、悲しすぎる。


「僕、閑香に会ったんだ」

 これは賭けだ。

「は?」

 巧は食べようとしていたご飯粒を思わず落としそうになり、慌てて拾い上げる。

「それは何かの例え話なのか? 閑香が生きてる? って、そんな訳はないよな。だったら、過去から甦った亡霊、みたいな感じで日記が見つかったとか。だから、それを閑香の両親に返すか、墓前に供えたいとか」

 そして、巧はその賭けに乗ってきた。

「巧は想像力が豊かだな。僕にはそこまで思いつけない。だから、言葉通りの意味しかないよ」

「オーケー、つまりは閑香の幽霊ってことだな。分かった、じゃあ啓人の冗談にもう少し付き合うとしてだな、閑香は今もここにいるのか? 俺たちのすぐ傍で、この会話を聞いてるのか?」

「今はいない。別の場所にいる」

「じゃあ、どこだ?」

「僕の知り合いの人の所で、巧は知らない人だ」

「ディテールが甘いな。そんなんじゃ、本が好きだった閑香は喜ばないぞ」

「じゃあ、言うよ。梅ヶ枝詩葉という人の所だ」

「いきなり、具体的になったな。そして、それは誰だよ状態だ。実在するかどうかも怪しいが、とっさに名前が出てきたところをみると、多分本当にいるんだろう。なるほど、ディテールはそれっぽくなった。

 閑香が、その梅ヶ枝さんとやらの所にいるとしよう。閑香はお前に何か訴えているのか? よく、幽霊は恨めしやって言って化けて出るって言うが、お前が閑香に恨まれているとは思えないけどな」

「僕はそれを知りたいんだ」

「それ?」

「閑香が僕に何を訴えたいのか。何を伝えたいのか。もしかしたら、恨んでいるかも知れない。でも彼女は、何も話してくれない。何も教えてくれない。だから、僕はそれが知りたい。そのためには、巧たちの助けが必要なんだ……と、思う」

「俺たち? 純一や入舟先輩もってことか? そいつは無理だろう。あの二人が、こんな馬鹿げた話に付き合うとは思えない」

「……そうだよな」

「ところで、俺は霊感ってやつはないと思うんだが、俺も閑香の姿が見えるのか?」

「多分、無理だと思う」

「それは残念。さっきは今更なんて言ったけど、俺も情がない訳じゃない。もし、閑香の姿が見えるなら、ちょっと会ってみたい気はする。興味もある。

 閑香は物静かで、昔から大人びていて、中学になったら更に綺麗になって……別に好きだったってわけじゃないし、ちょっと近寄りがたいところはあったけど、憧れていたな。啓人、お前は閑香のことが好きだったんじゃないのか?」

「……ああ」

 素直に認めた啓人に、巧は「やっぱりな」と返す。

「悪かった、確かに啓人にとっては《現在》の話だ。一度好きになった相手のことは、簡単には忘れられないもんだ。たとえ、次の恋を探すにしたって、ちゃんと区切りは付けたいよな」

「巧、お前の方が僕よりもずっと詩人だな」

「別にそんなんじゃないけどな。俺も好きな子がいるから、そう思うよ」

「なあ、巧。好きってなんだろうな」

「……やっぱり、お前の方が詩人だろう。いや、改まって聞かれると分からないな。好きって言えば、好きだろう。理屈じゃなくて、感情だよ。そう言うのは。

 自然に治まることもあれば、いつまで経っても忘れられないこともある。怒りとか喜びとか、そういうものよりもずっと長く続く、そんな感情だ」

 巧が好きだという相手は、いったい誰なのだろうか。

「分かった」

 続いて出る唐突な巧の言葉に、啓人は「何が?」と思わず聞き返す。

「何がって、閑香を成仏させるんだろう?」

「成仏って言うと、語弊があるけど。閑香の伝えようとしたことを聞き出すんだ」

「だったら、それを手伝おうじゃないか」

「本当に? 僕の言うことを信じるの?」

「まあ、信じる、信じないで言えばどっちとも言えないが、純一や入舟先輩にも会うんだろう? そいつには力を貸そう。

 子供の頃、みんなでよく一緒に遊んだもんな。純一は俺が野球を始めるきっかけになった人だ。俺は、あの人みたいに上手くなくて、チームも甲子園どころか県の三回戦が最大の目標ってレベルだけど、それでも楽しいんだ。

 入舟先輩も今となっては、どうして一緒に遊んでいたのか分からないくらいになったけど、あの頃は確かに楽しかった。もう一度、話をするくらいは悪くない」

「早速だけど、一緒に純にぃに会いに行ってくれないか」

「今日? 構わないけど、俺と一緒だからって話を聞いてくれるとは限らないぜ」

「その時は、またその時で考える」

「了解。……啓人、お前ってそんなに行動力あったっけ?」

「多分、なかったと思う。ただ、今は立ち止まったら、もう二度と動かなくなってしまうかもって思うだけだ」

 自分は弱い人間だ。低きに流されてしまう人間だ。だから、坂を上に向かって走り続けて、ようやく現状を維持できる。

「久しぶりにお前とゆっくり話した気がするよ。お前、俺を避けていただろう?」

「それは……」

「別に責めてるんじゃない。お互い様だ。高校に入ってからは、部活が優先だったし、新しい友達もできた。何より……お前や入舟先輩の顔を見ると、あの事故のことをどうしたって思い出す。俺は大きな被害を受けたわけじゃないが、そいつは結果論だ。

 お前は好きだった閑香を亡くした。心の傷は俺よりもずっと大きいだろう。なのに、今になって何かをしようとしている。だから、応援しようって思ったんだ」

 気づけば、既に昼休みはかなり終わりに近づいていた。二人して、慌てて残りを掻き込んで食べる。ちょっと咽せてしまった。

 教室に戻り、席に座るとすぐに午後の授業が始まる。

 巧と話して良かった、と思う。

 自分で勝手に壁を作っていた。だが、その壁は、実は幻だった。それが分かった気がした。これなら、更紗にも素直に話ができるかも知れない。

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