水に眠る(4)
「……なんだろう?」
デッキに出ていた人たちも、そのけたたましい音に意識を取られ、おしゃべりを止めていた。ただ、波の音だけがざわり、ざわり、と響いていた。
「何だったのかな……」
「戻ろうか」
啓人の提案に、未練を残すような素振りを見せつつも、閑香は同意する。
近くにいる人たちも、銘々が動き始めようとしていた。
いまだ戸惑う人たちが多い中、
『ただいま、船内において火災が発生しました。係員の誘導に従って、落ち着いて避難して下さい。繰り返します』
船内放送が流れ、一気に事態は動き出す。
デッキに出ていた人数は正確には分からないが、数十人はいただろう。
火元が船内である以上、戻らない方が安全かも知れない。そう判断して、啓人も閑香もその場に留まっていた。
中にいるはずの家族や、他の幼馴染み三人の
「大丈夫だよ。どうせ、すぐに消えるさ。もしかしたら、誤報かも知れないし」
学校でも火災報知器が作動することはたまにあるが、それが本当であった例しがないのと同じように、何かの間違いかも知れない。
救命胴着を取りに船室に戻るべきか。それとも、指示を待つべきか。周囲が誰も動かない中、啓人と閑香も様子を見ていた。
乗務員と救命胴着をつけた客たちが続々とデッキに出てきた辺りから、段々と記憶は曖昧になっている。
押し寄せるように湧いてくる避難客に乗務員の声は届かない。その様子を見て、啓人の心には段々と不安が湧いてくる。
爆発音がする。
同時に誰かが、火だっと叫ぶ。
すぐ近い場所で、星空を天まで焦がすかのような炎が上がる。黒い煙がもうもうと立ち、折しも強い風に流されて向かってくる。
それをきっかけに、船上はパニックに陥り、救命艇へと人が押し寄せ、群がる。これほど人が乗っていたのかと驚くほどに溢れ出た。人の流れは、たやすく啓人たちを揉みくちゃにする。
「閑ちゃん!」
「啓くん!」
それでも、なんとか閑香の手を掴み、絶対に離さないと強く握りしめる。
右へ左へと押されているうちに、船が傾くのが分かる。もはや、放送が聞こえるような状態ではなく、混乱が混乱を呼んでいる。
そこに来て、更なる異変が起こる。
「大丈夫。閑ちゃんは絶対に僕が助けるから」
真っ赤な炎が照らす閑香の顔からは、怯えが見て取れる。おそらく自分も同じようなものだろう。だからこそ、絶対に不安にはさせたくない。
しかし、その決意とは裏腹に啓人たちは、徐々に船縁の方に押されていく。もはや、誰が何をしようとしているのかすら分からない。人間の濁流だ。
「啓くん、あのね、私」
先ほどと同じ言葉を閑香が発した直後。
ひときわ大きく、船が傾き――。
打ち付けられるような衝撃を全身に覚え、気づけば海に落ちていた。
燃え盛る炎は遠くになり、変わってまだ冷たい三月の海の水が、着ている服にみるみるうちに浸みる。それに伴い、痛みすら吹き飛ばすような震えと悪寒がやってくる。
襲い来る寒気は、ただ身体的な要因によるものではない。
「閑ちゃん!」
しっかりと握っていたはずの右手は、空になっていた。
先ほどまで二人で見上げていたはずの星空さえも遠く、辺りは真の暗闇に包まれている。ただ、闇に閉ざされた中で、どこからともなく音だけが聞こえてくる。
悲鳴、怒声、罵声、助けを呼ぶ声、悲痛な叫び声、相手を求める声、声、声、声。
声はすれども、姿は見えず。同じように海に落ちた人たちは、闇に紛れ、また広大な海に広がり、どこにいるかは分からない。ただ、怨嗟のような声だけが満ちている。
その埋め尽くされるような声に、負けじと啓人は喉を枯らして叫ぶ。
「閑ちゃん!」
「啓くん!」
答える声がある。
「今、そっちに行くから。だから、頑張れ」
海水をたっぷり吸って重くなった服が、啓人を水底へと誘う。その引力を振り払い、啓人は泳いだ。
「閑ちゃん!」
「……啓くん」
閑香の声が小さくなる。確かに方向は合っているはずなのに。
「……啓くん」
呼び声は小さくなり、対して啓人は力の限り絶叫する。
「閑ちゃん!」
「けいく、」
彼女が伸ばした手を、ようやく掴む。
闇の中。海の中。それは奇跡だ。一度は離してしまった手を、啓人は再び掴んだ。
「もう、大丈夫だから」
沈みかけている閑香を抱き寄せる。彼女が着ていたはずのカーディガンが、いつの間にか見当たらない。水を吸った制服だけの姿は、弱々しく寒そうだ。
「こわいよ」
よく頑張った。それに応えることだけが、今の自分の望みだ。
「大丈夫、大丈夫だから」
励ますために、ただそれだけを何度も繰り返す。
すぐそこに、閑香の顔がある。疲れ切り、寒さと恐れに震え、もはや口を開く気力もないようだ。しかしそれでも啓人を信じて、勇気を奮い立たせようとしている。
「閑ちゃん」
ああ、それなのに。
海は無情にも、容赦なく、大きな波をひとつ、啓人たちに被せる。
抱えていた閑香の体は。
握っていた閑香の手は。
啓人の抵抗も空しく――簡単に離れてしまう。
「あのね」
閑香の
「私ね」
閑香の手が掴むものは恐怖だ。
「啓くん」
閑香の顔に浮かぶのは悲憤だ。
きっと助けてくれると信じていた啓人が手を離したことへの裏切りに対する様々な感情が、閑香から溢れてくるようだった。
縋るような、泣くような、求めるような、乞うような、瞳の光が最後にひときわ強く輝く。
小学五年生のあの日。彼女に暴言を浴びせた時と同じ、あの瞳の色だと思った。
「閑香!」
啓人の思いが、祈りが、謝罪が、届く暇はなく。
波の合間に閑香は消えて、二度と浮かび上がることはなかった。
あれほど好きだった海の底へと、彼女は沈んでいったのだ。
それから、どうやって自分が助かったのかは、よく覚えていない。
救命艇に拾い上げられた時には、意識を失っていた。救命胴着も着けず、波の高い夜の海を意識もなく漂いながら、よく助かったものだと驚かれた。
まさに奇跡だとも言われた。
だが、そんな奇跡ならいらないと思った。
あの時、最後まで手を離さない奇跡。それ以外の奇跡などいらなかった。
両親や妹の
デッキに出ていた啓人と閑香のことを誰もが心配していた。啓人が助かったことに両親と妹は胸をなで下ろしていたが、閑香が行方不明のままでいることには、皆が心を痛めていた。
啓人は火災の知らせがあった時は一緒にいたが、混乱の中はぐれてしまった、と嘘をついた。そのことはとても苦しく、胸を締め付ける。だが、本当のことを話す勇気は持っていなかった。
事故は死者にも生き残った者にも大きな爪痕を残した。啓人の母の実家、そして思い出の地へと行くはずだった旅行は、当然中止となった。
啓人は病院で一夜を過ごした。翌日にはそれぞれの家族が駆けつけた。一度ついた嘘を飲み込むことはできず、同じ説明を閑香の両親にする時が、一番苦しかった。
啓人たち家族四人は、祖父母の家で一泊した。近くの浜からは、事故があった現場を遠くに臨むことができた。
閑香の両親は、その浜で何日も閑香を探し続けたと後から聞いた。
巧や純一、更紗とは、その後も顔を合わせる機会はあったが、会話はどこかぎこちなく不自然で、次第に互いを避けるようになっていった。特に違う高校に進学した純一とは、それ以降、今日まで会うことはなかった。
啓人の妹の笑未は外出を怖がるようになり、小学六年生の今も学校に通えず、家に籠もっている。
啓人の両親はそんな娘を暖かく見守っている。この両親でなかったら、啓人ももっと酷い状態になっていたかも知れない。
それは感謝している。
だが、やはり、閑香の
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