水に眠る(3)
魚。そう、閑香は魚になりたいと言っていた。事故の直前にも水族館の話をした。
『啓くん、早く来ないかな。ずっと待ってるのに』
いまだ苦しみと痛みからは逃れられない。それでも、今の詩葉の言葉を思い起こすならば、行くべき場所は一つしかない。
やはり自分は、無意識に目を背けていたのだろうか。
陽が西に傾き始めているが、
再び、自転車を漕ぎ始める。既に半日、乗り回している。幼馴染みの家を
まるで子供の頃のようだ。あの頃は無限の時間と無尽の行動力があった。何も知らず、何も悩まず、ただ
もうそんな時間は二度と来ることはないと知っている。手から
ならば、何故に自分は閑香の迷い言を、これほど探しているのだろう。
過ぎた時を取り戻そうとする行為ほど、空しいことはないというのに。
あれこれと考えているうちに、公園の入り口に着く。自転車置き場には、結構な数の自転車が並んでいる。人の数はまだ多いようだ。
子供連れやカップル、友達同士、一人で写真を撮りに来る人、犬の散歩をしている人、思い思いの目的を持っているのだろう。
啓人は早足で公園を歩く。何を急いでいるのか、自分でも分からない。
辺りは緑に恵まれ、風も肌に気持ちよい。夕暮れが近いというのに、人出が多いのもそのためだろう。
すれ違う人の表情は一様に明るく、おしゃべりや笑い声が聞こえてくる。
園内を流れる小川は豊かな水が流れている。これまでの雨を集めてきたのだろう。
言うなれば、この場所は生に満ちている。
だからこそ。
その一角にどうしようもなく潜む影、闇、死、無が際立ってしまう。
それらの言葉は決して否定的なイメージではない。ただ、対極というだけのことだ。詩葉の立ち振る舞いから感じるものが、そうであるのと同じく。
自然と、啓人はそのイメージに目を向けた。
その一角には、かつて小さな水族館が建っていた。
建物はとっくに取り壊され、今は整備されて花壇になっている。脇にある青色のベンチに人の姿はない。
そのベンチのすぐ隣に、少女が立っている。
影、闇、死、虚、無を纏って、少女が立っている。
啓人からは背中しか見えない。顔はちょうど、沈みかけている太陽の方角、つまり西を向いている。茜に燃える大きな陽を見ているのだろうか。
逆光のせいで、少女自身がまるで影、闇、死、虚、無、そのものであるかのように見えてしまう。
静かに吹く風に長い髪が微かになびいている。制服の裾が揺れている。
後ろ姿でも、見まごうはずがない。
そこには、閑香がいる。
やはり――まずは、その思いが先立つ。
啓人が立つ位置から、彼女までの距離は僅か数メートル。歩けば、十数秒の距離に閑香が立っている。
すぐにも歩み寄りたい。だが、体が動かない。そのまましばらく、閑香の背中を見つめている。
その背中から匂い立つように漂う気配は、迷い言特有のものだ。
無いようで、そこにある。そこにあるようで、しかし朧気で希薄だ。
辺りに他に人の気配はない。他の場所は賑わっているのに、この一角だけ切り離されたように思える。
それでも一歩、また一歩と踏み出す。土を踏む音をやけに大きく感じる。だが、閑香の迷い言はいまだ啓人には背を向けたまま、振り返る様子はない。
「
震えそうな唇を押さえつけて、最初に、そう声を掛けた。
事故の前には、既に水族館は取り壊されていた。生前の閑香がそれを知らぬはずはないのだが、それでも彼女は魚を求めて来たのではないかと、啓人には思えた。
細い肩に手を置いた。自分の手が我慢できずに震えていることを自覚する。
軽く触れても、閑香はこちらを向こうとしない。意を決して、啓人は正面に回る。
西日を受けた閑香の顔が、茜色に染まって浮かび上がる。
たとえ啓人に笑みを向けなくとも、たとえその瞳が啓人を捉えていなくても、たとえその口が啓人の名前を呼ばずとも。
そこに立つのは、確かに二年前の春に失ったはずの閑香に相違なかった。
「……閑ちゃん。待たせて、ごめん。迎えに来たよ」
啓人の胸に
喜び、悲しみ、懐かしさ、そして、恐れ。
閑香と再会できたことは確かに嬉しい。だが、同時に怖くもある。
今はきつく結ばれ閉ざされている、その唇はいったい何を告げるのだろうか。柔らかな彼女の声音は、果たして啓人に何を伝えるだろうか。
それでも、啓人は進むしかない。
「連れて行きたい場所が……あるんだ」
あの日、最後に掴めなかった彼女の手をあっさりと啓人は握る。
啓人の右手が、閑香の左手に触れる。ひんやりとした陶器のような肌触りからは、生気が感じられない。
冷たく乾いた彼女の
「……行こう」
踏み出そうとした一歩目でよろける。
「……あれ」
歩き方を忘れてしまったかのように、啓人の足は上手く動いてくれない。
「ああ……僕、震えているみたいだ」
そのことを自覚して、ようやく両足が言うことを聞いてくれるようになった。
閑香の手を引いてゆっくりと歩き始めると、彼女は抵抗することもなく一緒に付いてくる。啓人が先導して、閑香を引っ張る形になる。
「閑ちゃんは、二年間……どうしていたの?」
返事はない。
「……ねえ、皆のことは覚えてる?」
返事はない。
「僕は……
返事はない。
「叶うなら、閑ちゃんも一緒に……高校に行きたかった……な」
決して届くはずのない願いを、彼女の姿を前につい、口にしてしまう。
だが、弱々しい啓人の声を聞いているのか、いないのか、反応もない。それでも、啓人は何かを口にし続けずにはいられなかった。
閑香は、いつからあそこにいたのだろうか。
啓人が最後に宗宮公園を訪れたのはいつだっただろうか。四月に美術部で新入生の歓迎も兼ねて、スケッチをしたことがあった。閑香がいた辺りも歩いた。
その時にはいなかった。ならば、長くて二ヶ月くらいだろうか。
啓人が迷い言を見るようになったのは、ちょうどそのくらいの頃からだ。ならば、その日はそこにいたのに、まだ気づかなかっただけ、という可能性もある。
だとしたら、果たしていつから彼女はあの場所に立っていたのか。
昨日かも知れない。二ヶ月かも知れない。二年かも知れない。
その答えが出るはずはないが、ただ彼女の時間を思うと、啓人は居たたまれない気持ちになる。
閑香の手を離してしまったら、二度と掴めない気がする。だから、ずっと、握り続けていた。
妻を亡くし、愛しいその人を連れ帰るために死者の国を訪れたオルフェウスもイザナギも、最後に振り返ってしまったために、再度、最愛する人を失う羽目になった。
だからという訳でもないが、詩葉のもとに着くまで閑香の顔を見ることはできなかった。汗ばんだ手から伝わってくる冷たい感触が、確かに彼女の存在を伝えていた。
建物の前に立ち、扉のノブに手を掛ける。既に夕闇迫る時間になっていたが、鍵は開いていた。
「詩葉さん、詩葉さん!」
彼女は先ほど訪ねた時と同じように腰掛けていた。あのまま、待っていたようだ。
「それほど大きな声を出されなくても、聞こえています」
「詩葉さん……。閑香を、閑ちゃんを……見つけました」
「そうですか」
詩葉が啓人の背中の後ろに立つ閑香に視線を向ける。
「ようこそ、
そして、この店にたどり着く者全てに向かって、彼女がこれまで掛けてきた歓迎の言葉を、同じように閑香にも贈る。
そのようなやり取りすらもどかしい。
「どうやったら、閑ちゃんを助けられますか?」
自らが、当たり前に使った言葉に不意に疑問を感じる。
閑香のことを――助ける?
助ける、ということは、閑香はいま困っているのか?
ここに来てようやく、啓人はすぐ後ろにいるはずの閑香に再び向き合う。
人工的な光のもとで、その懐かしい顔と対面する。二年前のままの姿で、しかしどこか抜け殻のような、だが内部には確かに閑香の残した言葉を宿したはずの人像、つまり彼女の迷い言と。
強ばるほど堅く握った手を指一本ずつ解すようにして、啓人は開く。
ずっと、握っていたかった。
離してはいけないような気がしていた。
だが、離してしまった。
助けて欲しいのは、自分だ。
救って欲しいのは、自分だ。
あの日の呪縛から解き放って欲しいのは、誰でもなく自分なのだ。
「詩葉さん……僕を助けて下さい……」
「できません」
だが、詩葉は啓人の助けを拒絶した。
「藍川さんを助けることができるのは、あなただけです。そして、閑香さんの言葉を引き出すことができるのも、あなただけです」
どうしてだ。これまで、
「僕は……閑香の手を離してしまった人間です。そんな僕が、自分を助けられますか? 閑ちゃんからもう一度、何かを言ってもらえる資格がありますか? 閑ちゃんが伝えようとしている言葉が、たとえどんなのものでも僕は受け止められるでしょうか?」
そして、啓人はあの日、あの時のことを詩葉に語り始める。
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