水に眠る(2)

 純一の事情は、巧が知っているようだ。明日、閑香の件と合わせて聞いてみよう。

 幼馴染みの冷たい態度は堪えるものもあったが、気を取り直し、次に更紗さらさの家に行くことにする。

 おそらく在宅しているだろう。今の彼女が休みの日に外に遊びに行く姿が想像できない。受験に向けて勉強していると思われた。

 今度は、通っていた小学校の前を通る。更紗の家はそのすぐ傍にある。子供の頃は、朝はぎりぎりまで寝ていても遅刻しないからうらやましい、と思ったものだ。

 入舟家の前に立つ。昔はさほど感じなかったが、長じるに連れて知ったことのひとつに、更紗の家の事情がある。

 彼女の家は、あまり裕福とは言えない。父親は町工場を経営していた。かつては景気が良かったようだが、啓人たちが中学の時にはだいぶ苦しかったらしい。

 家屋かおくはこじんまりとした木造平屋建てで、中で遊んだ時もさっぱりとしていて清潔感はあるが、家電などは古くさい印象を受けたことを記憶している。

 彼女の家で読んだ漫画は、何度も何度も読み返されて、ぼろぼろになっていた。

 今でも父親の町工場は存続しているのか、入舟家の財政事情はどうなのか、知るよしもないが、こうして外から眺める限り、あまり変化はないように思える。

 幼い頃は活発だった更紗の性格が変わっていったのも、そういった家庭の事情があるのかも知れない。

 呼び鈴を鳴らすと少しの時間があってから、インターフォンではなくドア越しに直接女性の声が応答する。おそらく母親だろう。

「更紗さんと同じ学校の藍川と言います。更紗さんはご在宅ですか?」

 すると何も答えがないまま、いきなり扉が開く。

「藍川?」

 立っていたのは更紗本人だ。心の準備ができておらず、思わず面食らう。

 小柄な更紗は、不審な視線を隠そうともせず、眼鏡越しに啓人を睨み上げる。

「いったい、何の用?」

「あ、ええと、……入舟先輩にちょっとお聞きしたいことがあって」

「何? 勉強中で忙しいんだけど」

「すぐに済みます。話は閑香のことです。高森たかもり閑香しずか

「閑香……がどうしたの?」

 更紗が頬をぴくりと痙攣けいれんさせる。

「先輩は閑香と仲が良かったですよね。中学になってからも、よく話をしてました。だから、彼女の両親の行方か、閑香のお墓の場所を知りませんか?」

「……なんだ、そんなこと。そもそもお骨がないんだから、お墓はないんじゃないかしら。それとも、あれから閑香の遺体は見つかったの?」

「いえ」

「じゃあ、やっぱりないんじゃないの。あの事故の後、ご両親とも連絡は取っていないわ。確かに閑香とは仲が良かったけど、それも昔の話でしょう。どうして、今頃になって聞いてくるの?」

 純一と同じことを尋ねてくる。

「自分の中で、整理を付けたいと思ったからです」

 答えは微妙に変える。

「あなたはまだ整理が付いてないの? 友達が一人亡くなった。確かにそれは辛いことだけど、でも二年も前のことじゃない。子供じゃあるまいし、二年間も引きずっていたなんて、滑稽こっけいね。

 人は前を向かなきゃ、生きていけない。後ろを振り返る余裕なんてない。私はとっくに整理は付いている。知っていることも何もない。だから、もう帰ってくれない?」

「忙しいところ、すみません。でも……」

 更紗なら何か知っているかも知れない。事故の当日の夜も、啓人を除けば閑香に最後に会ったのは、更紗のはずだ。

 閑香と最後に交わした会話を、不意に思い出す。忘れていたわけじゃない。ただ、思い出さないようにしていただけだ。

「閑香……閑ちゃんは、海の底で眠る魚になりたいって言っていた。そして、僕に大風になって迎えに来て欲しいと願った。更紗ちゃんは、この意味が分かる?」

「…………っ。先輩に向かって、ちゃん付けなんて失礼じゃない?」

「わざとです」

「そんな風に呼んでも、別にあの頃を懐かしく思ったりしない。さっきも言ったけど、私は忙しい。過去にとらわれている余裕もないし、必要もない。閑香のことは忘れた。中学を卒業すれば、大半の同級生とはもう連絡さえ取らないでしょう。それと同じ。どうしても知りたいことがあれば、閑香に聞くしかないんじゃないかしら」

「僕もできれば、そうしたいよ」

「……できるわけ、ないじゃない。馬鹿みたい」

 もし閑香の迷い言に会えれば、という言葉は口にしない。

「忘れなさい。忘れてしまった方がきっと楽になる。私がそうしたように。じゃあね、啓くん」

 そして、今度は本当にドアを閉める。バタン、という音がしばらく耳に残る。


 結局、久しぶりに会う幼馴染み二人に素気なくされ、得るものはなかった。

 迷い言のことを話さずに、これなのだ。もし、閑香の幽霊のようなものがいるかも知れないなどと言ったら、話も聞いてもらえず門前払もんぜんばらいをされるだろう。

 目的は何一つ達成されないまま、夕方を迎えていた。巧の家に行っても良いが、彼とは明日も会える。心が疲れていた。

 失意のまま、詩葉の許を訪れる。

 なんの成果もなかったと告げる啓人に、詩葉は尋ねた。

「藍川さんは、閑香さんの夢を見ますか?」

「夢……ですか? そうですね。見ます」

 閑香の夢。例えば、あの事故の直前の時のことを夢に見る。それは決まって、重たい痛みを伴う。

 つい先日も、彼女が今はもうない水族館にいる夢を見た。二人の閑香が闇に立つ夢も見たことがある。

 もはや、どこまでが過去にあったことで、どこからが啓人の脳が作り出した幻だったか、判別することは難しい。

 ただ、夢を見たという事実だけが、目覚めた朝に心に残っている。

「誓子さんやお母様も、晴子さんの夢を見たと言われたことを覚えていますか」

「はい」

 確かに、言っていた。啓人と同じく、心を抉るような痛みだとも。

「美空さんも、小々海さんの夢を何度も見たそうです」

「……そうでしたね」

 自分と同じく、あの事故で友人を亡くした美空。彼女もまた、その友人を助けられなかったことをやみ続けていた。

現世うつしよは夢、夜の夢こそ真実まこと

 脈略がないように続いた詩葉の台詞せりふに、啓人は思わず昔を思い出す。いつか閑香が口にした時と同じように、かつて閑香が口にした時を映すように、詩葉はその言葉を紡いだ。

「夢と現世は表裏一体。平安時代、夢に思い人が出てくる時、それは相手が自分を思っているから、夢の中で訪ねてくるのだと考えられていました。

 晴子さんも小々海さんも、そして閑香さんも、彼女たちの迷い言が求める相手を探して、夢の中に現われたのかも知れません」

「つまり、それは……」

 詩葉の話が指し示す答えは、明白だ。

 閑香は啓人に既に会いに来ていた。啓人を探して、啓人を求めていた。

「心当たりがおありですか?」

「はい」

 啓人は力強く頷き、そして立ち上がる。

「行ってきます」

 啓人の背中に、詩葉が独りごちる。

「私は……いまだ母の夢を見たことがありません」

 抑揚に乏しい、しかしそれ故に悲しそうに聞こえる声だった。

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