水に眠る(1)

 さらに数日が過ぎる。平日は放課後、部活がある日でも帰宅途中に必ず詩葉うたはの顔を見るために立ち寄る。休日も一度は出かけて、閑香しずかに関する進展がないか確かめる。

 そして、何もないことを確認する。そんなルーチンが続いている。

 もし、迷い言のことも知らず、詩葉とも出会っていなければ、それまでと変わらない日々を送っていただろう。

 そして、ある日突然、詩葉が自分の目の前に閑香の迷い言を連れて現れたかも知れない。そうではないかも知れない。

 いずれにせよ、その瞬間まで啓人は傍観者でいられたはずなのだ。

 だが、知らなかった日に戻ることはできない。

 啓人の心の中には焦りが生まれていた。

 こうしている間にも閑香の迷い言がどこかにいるのではないか。いまだ『つゆくさ』を見つけられず、さ迷っているのではないか。そして、たどり着けぬまま消えてしまうのではないか。いや、もしかしたら既に……。

 美空と小々海ささみの話を聞いてからは、特にその思いが強くなる。小々海の迷い言が詩葉の前に現われたのは、今年の春のことなのだ。

 何か自分にできることはないのか。待ち続けるべきか。それとも、街に出て探し歩くべきか。

「例えば、閑香の住んでいた家やお墓にいるということはないですか?」

 ここではなく、閑香ともっと深い縁のある場所に向かうかも知れない。

 しかし、詩葉は首を傾げる。

「私はこれまで、この場所を訪ねてくるか、あるいは街で偶然見かけた迷い言の方としかお会いしたことがありません。

 率直に申し上げれば、徒労に終わる可能性が高いでしょう。だから、以前はここで待つ方が良いと答えました」

「それでも僕は……閑ちゃんを探そうと思います」

 ただ待ち続けるだけの時間は耐えられない気がした。

「正解は分かりません。私も多くを知るわけではありません。だから、藍川さんが望むのであれば、止める理由を持ち合わせていません」


 あの事故の後に閑香の両親は離婚して、当時彼女が住んでいた家にはもう誰も住んでいない。どこにいるかも分からない。

 また啓人の心が痛んだ。胸を締め付けるような、掻き毟りたくなるような疼痛だ。

「どうして、閑香だけが」「どうして、閑香を助けなかった」「あなたが死ねば良かったのに」「今すぐに、海に飛び込んでこい」

 幼い頃から良く知っている人だ。遊びに行けばお菓子やジュースを出してくれた。いたずらをすると怒られることもあったが、優しい母親だった。

 その閑香の母から投げかけられた言葉は、暴風のように啓人の心を襲った。鬼の形相とはあのことを言うのか、と啓人はなぜか客観的に思ったものだ。

 閑香の父がなんとかなだめていたが、その父親にも噛みつき、すぐに彼女の両親は離婚した。閑香を愛していたが故に、彼女の死を受け入れられなかったのだろう。

 母親は家を出て行き、父親が一人で残っていたが、いつの間にかいなくなっていた。一年ほど前にそれに気づいたが、啓人にはどうすることもできなかった。

 もう何年も、閑香の家には近づいていない。無意識に避けていたと言って間違いないだろう。だが、いつまでもそうは言っていられない。


   ◇


 再び、日曜日。午前中は久しぶりに妹と遊んだ。それは大切な時間だったが、しかし同時に閑香の家を訪ねるという決意を、先延ばししようとしていたのかも知れない。

 午後になり、ようやく外出する。閑香の家まで歩いて十五分ほど、自転車ならば数分の場所だが意識的に訪れようとしなければ、前を通ることも少ない。

 曇りがちだが雨は降っておらず、風も適度に心地よい。梅雨つゆ明け宣言こそ出ていないが、しばらく雨は降っていない。

 だが、啓人の気分は晴れやかとは言えない。

 久しぶりに目にする閑香の家は記憶にあるよりも風化していた。フェンス越しに見える植木鉢うえきばちはとっくに枯れ、もはや褐色の何かに成り果てている。もとは純白だったはずの壁にも雨だれの汚れた筋が目立つ。人が住んでいないせいで、建物は朽ちていく。

 チャイムを鳴らしてみるが、当然のように反応はない。柵の取っ手を何度か動かしてみるとガチャガチャと音はするが、鍵が掛かっていて開く様子はない。

 分かっていたことだ。それでも、この家で遊んだ思い出が甦ると心が痛くなる。

 そして、閑香の迷い言の姿はなかった。

 気を取り直して、思い切って両隣の家のインターホンを鳴らす。

 子供の頃、この家の子と一緒に遊んだのだが、最近になって事故のことを知った。訪ねてみたが、誰も住んでいないようだ。何か知りませんか。嘘は混じっているが、方便というやつで許して欲しい。

 幸い、両家とも在宅だったが、どちらも父親、母親の行方は知らないとのことだった。無論のこと、閑香の墓のありかも知るはずはなかった。

 噂話として、まだこの家は売りに出されておらず、父親名義のままだから戻ってくるつもりはあるのではないか、と右隣を訪ねた時に出てきた中年女性は教えてくれたが、すぐに役に立つような情報ではない。

 分かってはいたが、いきなり出鼻をくじかれる。

 閑香の同級生となると、啓人の一学年上になる。彼女と親しかった友人となると、更紗さらさを除けば見当も付かない。

 やはり、まずは幼馴染みの三人に改めて尋ねるより他にない。

 巧は隣のクラスだ。顔を合わせるのは一番簡単だが、多分何も知らないだろう。

 更紗は閑香と親しかった。両親の行く先を知っている可能性はある。今の彼女に話しかけるのはためらわれるが、そうも言っていられない。

 もう一人、純一は今どうしているか分からない。野球部であれば、七月中旬の日曜日に練習していないとは思えない。いや、三年生はもう引退しているだろうか。夏の大会の予選の最中だろうか。在宅しているかどうかは疑問だ。

 ただ、ここからであれば純一の家が一番近い。まずは行ってみるべきだろう。


 純一の家の傍には小さな公園があり、その横を通り過ぎる。天気の穏やかな日曜日とあって、あの頃の自分たちのように遊んでいる子供の姿がある。

 ブランコに乗って誰が一番高く漕げるか男子三人で競争をした。ついでに、靴を思いっきり蹴飛ばして、遠くまで飛ばした方が勝ちだというルールもあったはずだ。

 更紗も混じって靴を飛ばしたが、一度そのまま片方をなくしてしまったことがあった。閑香は呆れて、それを見ていた。

 野球をして遊んだこともあった。純一の一人舞台だった。

 小さなプールもあり、夏には水遊びができた。更紗は我先にと飛び込んで、日が暮れるまで遊んでいた。毎夏、彼女は真っ黒に日焼けしていた。閑香も彼女に負けじと、後を追いかけていた。

 思い出は懐かしく、しかしどこか遠く、現実感に乏しい。

 たった十七年の人生の中で十年も前のことは、遙か昔に思えてしまうのだろうか。

 鮮明でいて、しかし何故か本当はなかったことなのかも知れないという思いに駆られてしまう。

 それでも、記憶通り、純一の家はそこにあった。

「えーと、藍川あいかわ君?」

 応対した純一の母親はさすがに老けていた。

「そうです、藍川です。おばさん、ご無沙汰しています。突然ですみませんが、純一君はいますか?」

「純一は……」

 そう言ったきり、露骨に目を逸らしてしまう。眉間みけんしわが寄り、啓人の来訪を心良く思っていない印象を受ける。

 あの事故のことは、それぞれのメンバーと家族に影響を残しているに違いない。

 旅行に誘い、その原因を作った啓人のことをうとましく思っても仕方がないことだ。

 閑香の母親の形相が思い浮かぶ。目の前の純一の母が同じ顔にならないうちに退散した方が良さそうだ。

「すみません、また来ます」

「ああ、その、純一は今は出かけているから。また、次にしてもらえるかしら。もし、何か伝えることがあるなら、言っておくけど」

 申し訳なさそうにする所を見ると、啓人の来訪自体を嫌がっている訳ではないのかも知れない。

「お聞きしますが、おばさんはあの……事故で亡くなった高森閑香さんのご両親の引っ越し先をご存じではないですか? それか、閑香さんのお墓の場所か」

「高森さんの? ……ごめんなさい。どちらも知らないわ」

 啓人は携帯の番号を伝え、

「純一君は、今日は練習ですか? 後で連絡してもらうようにお願いします」

「練習? え、ええ、そうなの。ほんと、ごめんなさいね」

 さらに何度も謝る純一の母に一礼をして、啓人が江崎家を辞そうとすると、

「待てよ」

 奥から低い声がする。

「オレなら、いるだろ。勝手にいないことにするなよ」

 聞き覚えがある声は、間違いなく純一のものだ。母親の背後からのっそりと現れた彼は、中学の卒業式以来、二年ぶりに会う幼馴染みの江崎純一だった。

「純一、……いいの?」

「出てきたんだから良いに決まってるだろ。久しぶりだな、啓人」

 平均より長躯ちょうくの啓人よりも更に背が高い。だが目には覇気はきが乏しく、体つきもたるんでいる。中学時代は野球部のエースで四番だった純一の面影おもかげは、そこには薄い。

「外に行こう」

 純一は返事を待たずに、啓人の横を通り抜けていく。すれ違った時、タバコの匂いがしたような気がした。母親が啓人にすがるような視線を送る。

 啓人は慌てて、その後を追う。

 純一は自宅から少し離れた、先ほどその前を通った公園へと向かう。彼の後ろを、啓人は黙って歩く。

「話は聞こえてきた」

 公園の木陰に入ると、純一が口を開く。

「どうして、今頃になってそんな昔のことを聞きたがる?」

「最近、ようやく自分の中で整理がついたんだ。だから、墓参りがしたいと思う」

 迷い言のことは話せない。信じてもらえるはずもない。だから、この言葉は嘘だ。整理は、まだこれからだ。

「整理、か。悪いが、オレは高森の両親の行方も、もちろん墓の場所も知らない。あいつの両親が引っ越したっていうのも、さっき初めて聞いた」

 啓人が改めて、両親はあの後離婚し今は家に誰も住んでいないことを話すと、

「ふーん」

 あまり興味がないように、その説明を受け流す。

「懐かしさに負けて、つい出てきちまったが、やっぱり止めときゃ良かった。啓人は巧と一緒の学校だったよな。あいつは、どうしてる?」

「今日も野球部の練習だと思う」

「そうか。……じゃあ、入舟いりふねは?」

「さあ……。同じ学校でも、ほとんど話はしないし。生徒会の副会長をしてるよ」

「あいつらしいな」

「純にぃは、今は……」

 近況を聞こうとしたが、続けられなかった。純一は野球を止めたのだろう。それは、聞かずとも容易に推測できる。

「純にぃ、か。懐かしい呼び方だな。もうこの歳になったら、一年くらいの差なんて、ないも一緒だ。二年生にも優秀なやつがいっぱいいる。オレよりもずっとな」

「もう一度、みんなで集まれないかな」

「どうして? 会って、どうするんだ? 思い出話でもして、酒でも飲むのか? 啓人、お前は何歳だ? 同窓会で過去を懐かしく振り返るおっさんか?」

「閑香の話を聞きたいんだ」

「ふん。お前はあの事故で好きな女を亡くしてお涙ちょうだいだったが、時間が経って、ようやく立ち直りました。前を向けるようになりましたっていうわけか。

 そりゃ、めでたいことだ。おめでとう。でもな、高森の話をしたところで、オレは別に楽しくもないし、立ち直ることもできない。そんな簡単に、過去を断ち切るなんて、できねえんだ」

「閑香の……」

 迷い言が、と続けようとして思い留まる。今、その話をしても火に油だ。

「野球、止めたんだ」

 代わりに、そう口にすると、

「巧から聞いてなかったか。まあ、詰まんなくなったからな」

 口元を自嘲じちょう気味ぎみにゆがめる。

「嘘だ」

 反射的に呟いた啓人の言葉に、

「じゃあ、本当のことを教えてやろうか。啓人、お前のせいだ。お前のせいで、オレは野球を止めるしかなかった」

「僕のせい? どういう意味?」

「これ以上、言わせるな」

 吐き捨てると、公園から去って行った。

 幼馴染おさななじみ五人のうちで、一番のリーダー格だった純一の変わりように、啓人は後を追いかけることをためらい、背中を見送る。時の流れにを感じずにはいられなかった。

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