青き海鳴る(3)

 詩葉の店に着いたのは夕方近くになり、その頃には雨も降り始めていた。家で待っている笑未のことを思うと、あまり長居はできないが、美空の話は今聞かなければ、あとはいつ聞けるか分からない。

 妹に内心で謝りつつ、いつもの椅子に美空と二人で座る。

 館内に他の気配はない。念のためにと奥を覗くが、閑香の絵の辺りに彼女の姿をした迷い言がいるということもなかった。

「カボスの果汁のジュースです。さっぱりしますよ」

 詩葉が運んできたトレイには、透き通った青葉色あおばいろをしたジュースが入っている。カボスの果汁を薄めたものらしい。涼しげな硝子のコップには氷が浮かび、縁に当たるとからんと音がする。

 細かい果実と一緒に口に含むと、ほど良い酸味と甘味が広がり、確かにさっぱりして心地よい。

「美味しい! 詩葉ちゃんのお家は、色々と変わった飲み物が置いてあるねえ」

「母の見よう見まねです。他に体に良いものもあります。青汁となどはいかがでしょうか。一般には飲みにくい、不味まずいと言われていますが、口当たりも良くて清爽としたものもあります」

「……それは、また次の機会に」

 もっと暑くなれば、もしかしたら美味しく飲めるかも知れない。

「で、私と小々海ささみの話だったよね」

 人心地ついたところで、美空が切り出す。

「空の日に浸みかも響く青々と 海鳴るあはれ 青き海鳴る」

 美空が良く透る声で一首を歌い上げる。

「知らない?」

「はい」

 ただ、直感的に悲しい歌だと思った。海は悲しい記憶を思い出させる。

「詩葉ちゃんは覚えてるよね?」

「私が小々海さんに手向けた歌ですから」

若山わかやま牧水ぼくすいという人の歌だよ」

「牧水というと『白鳥しらとりかなしからずや空の青 うみのあをにも染まず ただよふ』ですか?」

 若山牧水は明治、大正時代に活躍した歌人で、旅と酒と自然を愛して歌にんだ。

 啓人が例に挙げた歌は教科書にも取り上げられている。一読しただけで、無限に広がる青い空と青い海、その狭間はざまでそのどちらにも染まらず孤独にいる白鳥、という一枚の深閑しんかんとした絵が思い浮かぶ。寂しさと、そして一抹いちまつの憧れとともに。

「高校生でそれだけ知っていれば大したものさ。歌の感想も、とても素敵だ。啓人君は文学青年なのかい?」

「友達に詳しい子がいたので、なんとなく覚えているだけです。実際、先ほどの歌は知りません」

「あの歌は『白鳥や』と同じく歌集『海の声』に収められているんだ。その序文に『われは海の声を愛す』とある通り、牧水は海を愛した」

 レクチャーするように美空は言うと、

「空の日に浸みかも響く青々と 海鳴るあはれ 青き海鳴る」

 再度、先ほどの歌を詠み上げる。

「私と小々海の青春をこれほどよく歌い上げた歌を、私は他に知らない。

 そして、あの日、海の泡へと帰った小々海にこれ以上なくふさわしい歌さ。啓人君は覚えているかな。二年前にあった船の火災事故のことを」

 美空の言葉を聞いた途端、心臓が止まったかと思うほどの衝撃を受けた。

 かろうじて、口には出さずに詩葉の方を見る。表情は変わらないが、僅かに目を伏せる。知っていたのか。いや、当然か。

 以前に、詩葉はあの事故に遭った迷い言が、ここを訪ねてきたと言っていた。それは小々海のことだったのだ。

 啓人が受けた驚愕きょうがくを知るはずもなく、美空は話を続ける。

「私と六条ろくじょう小々海は高校の時の友達だったんだ。誰とでも仲良くなれる私と違って、あの子は大人しくて、自分の思っていることもなかなか言い出せない子だった。

 クラスでいじめられそうになっているのを私が助けて、それ以来、よく話すようになったのさ。

 私が知らないことをたくさん知ってる子だったな。私が今みたいに本を読むようになったのも、小々海の影響さ。ついには、雑誌の編集者になってしまったよ」

 美空は懐かしむように、しばし遠い目をする。

「小々海は、海が好きだった。海に憧れていた。……いや、海にとらわれていたと言った方が良いかも知れない。水平線を眺めて、小さく見える船をじっと見つめて、波の音に耳を傾けて、時々空に目を向けて、それで一日中過ごせるような、そんな子だった」

 啓人は小々海に親近感を抱いた。彼女は、閑香に似ている。

「休みの日に、よくそうやって海まで二人で出かけたな。ある時、聞いたんだ。よく飽きないねって。そうしたら、小々海はこう言ったよ。

『海は空に憧れている。なのにあまりにも遠すぎる。だから、空が遠い、遠いと言って哭いている。私はその海鳴りを聞きに来ている』って。

 でも、私はその解釈には反対した。海が空に憧れるように、空は海に憧れるんだ。海鳴りは、空に響かせるための呼び声さ。青い海と青い空は、いつだって隣り合わせだ。水平線で溶け合って、手を繋いでいるんだ。

 私の言葉に小々海は、

『そう、かも。ふふ、美空には感謝している。これからもずっと友達でいて欲しい。そして、いつか自分が先に死んだら、遺骨を海に流して欲しい』

 それから、哀しそうに涙を流すんだ。どうしたら良いか分からなくて、そっと手を握ったことを覚えてるよ」

 じきに、二人は大学に進学する。別々の大学だったが、交流は続いた。

 しかし二年前の春に事故は起こる。二人で旅行に行くはずだった。小々海が好きな海の上を。だが、美空が急用で参加できなくなる。

「一人でも良いから行ってきたら……なんて言うんじゃなかったって、今でも後悔してるよ。小々海は……私と二人で行きたかったんだ」

 小々海は一人で旅に出る。

 そして、その時に乗った船(それはつまり啓人や閑香たちも乗っていた船だ)が、あの事故に遭うことになる。

 死者行方不明者二十五名を数える惨事となった船上火災。月のない夜、晴天と強風、初期消火の失敗、避難誘導のまずさ、その他複合的な要因により、被害は広がった。

 その二十五名の中に閑香がいて、そして小々海がいた。もしかしたら、自分は小々海と船内ですれ違っていたかも知れない。

「小々海を亡くしてから、私は本をむ仕事に就きたいって思うようになったのさ。まだようやくその途についたばかりだけど、今は楽しいよ」

織田おださんは前向きなんですね。大切な人を失ったのに」

「君にはそれが不服かい?」

 美空が微笑ほほえむ。

「多分、私が小々海の思いを知ることができたからだよ。そうじゃなくても、きっと私は歩み出しただろう。私が立ち止まることを小々海は望まないと知っているから。でも、詩葉ちゃんがそのきっかけをくれたんだ。

 もし、私が一緒だったらきっと小々海を助けられたはずだ。それまでは、よく夢を見たよ。海の底へ、底へと小々海が沈んでいく夢だ。彼女の白魚のような身体が遠ざかっていく。私は必死に手を伸ばすのに、決して届くことはない。そんな夢さ。起きると、私はぐっしょりと汗をかいているんだ。……最近は、ようやく見なくなったけどね」

 啓人にも心当たりがある。美空を直視することができず、詩葉に視線を移すと、彼女もまたどこか苦しそうな顔をしていた。

 しかし、その表情はすぐに消え、

「私が『つゆくさ』に戻ってきてから、一番最初のお客様、つまり迷い言が小々海さんでした。彼女の絵も飾られています」

 確かに閑香しずか以外にも、あの事故の被害者の絵を真理まりが描き、それは迷い言の道しるべとなっていると言っていた。

 小々海の迷い言も、そうして『つゆくさ』に至ったのだろう。実績があるならば、希望はある。

「小々海さんの迷い言からは、何を伝えられたんですか?」

「それは、勘弁してくれないか。私と小々海の秘密だ。私たちは、牧水が歌ったように、いつまでも空と海で響き合う関係だ。そう、彼女が伝えてくれたんだ。

 啓人君、童話で有名なアンデルセンは『涙は世界で一番小さな海だ』と言ったそうだよ。だから、私は小々海と同じく物語を愛して、そして今でも彼女のことを思う時、心の中の海を溢れさせて、そっと涙を流すのさ」

 美空の声が、かつて閑香から聞いた言葉を想起させる。

『知ってる? 悲しいときに流す涙と、海の水は同じ成分なんだって。私たちの瞳は海と繋がっているのかもね。だから、涙は尽きないから、いっぱい泣いて良いんだよ』

 その言葉に纏わる物語が、啓人たち二人のものだけであるように、美空と小々海の物語は、二人のうちだけのことだ。

 無理に聞くべきではない。ただ、あの事故の犠牲者の迷い言がいて、そして無事に求められる人のもとへとたどり着いた。

 今はその事実を知るだけで充分だ。


 帰る前に、館内に飾られているという小々海の絵を見る。これまでに何度も目にしていたが、そうと認識して見るのは初めてだ。

 亡くなった時は大学生だったというが、さらに大人びて見える。切り揃えて眉に掛かった前髪が物静かな性格を現わしているように思えた。硬質で、しかしうれいを帯びた表情は、迷いまいご故か、それとも生前からだろうか。

 陽の美空と、陰の小々海は良いコンビだったのだろう。

「どうだい、綺麗な子だろう」

 美空は、どこか誇らしげだ。会ったこともなく、そしてもう会うこともない小々海に、啓人は心の中で手を合わせる。

 外に出ると、まだ細雨さいうが続いている。今日はこのまま夜まで降り続きそうだ。

「じゃあ、私はこれで。詩葉ちゃん、啓人君、また今度」

 ずっと変わらず明るい声で、美空は車に乗り込み、窓を開けて手を振りながら去って行った。

 そんな陽気な彼女も親友を亡くした過去がある。他人のことは傍には分からない。

「それじゃあ、僕も」

 折り畳み傘は鞄の中に入っていたが、なんとなく濡れて帰りたかった。

 どうしてだろう。そうすることで、少しだけ海に近づけるような気持ちになれるからだろうか。


 夜、また夢を見た。

 暗い暗い、光の届かない海の底を思わせるそこは、既に取り壊されて久しいはずの宗宮そうみや公園にあった小さな水族館だ。

 その中を、こちらに向かって一人の少女が、歩いてくる。闇にほのかに浮かび上がるその姿が閑香だと、直感的に理解する。

 他には誰もいない。狭かった館内も、そうなるとやけに広い。

 彼女は空っぽの水槽の前で立ち止まり、その中を覗き込む。声を出せないまま啓人が立ちすくんでいると、

「ここで泳いでいるのは、私なのかな」

 顔を向けることなく、閑香は呟く。

「啓くん、早く来ないかな。ずっと待ってるのに」

 果たして啓人が背後にいることに気づいているのか、いないのか。

 閑香は独りごちた言葉。それは、きっと啓人が心に秘めた願望だ。


 夢の中で幻のように立っていた閑香の後ろ姿は、自分の記憶にあるよりもか弱く、小さかった。それ故に、啓人の心を締め付けた。

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