青き海鳴る(2)

 梅ヶ枝家の墓へはバスで向かう。市街の外れへ行くに従い、民家は疎らになり、田畑が広がる。

 小さな寺の一角に墓地はあった。墓が並ぶ光景というのは不思議なものだ。

 新しい墓、古い墓、綺麗な墓、朽ちた墓、その全ての下に眠る死というものを認識せざるを得ない。

「男の人が一緒だと助かります。いつもは私一人なので」

 亡くなったはずの妻を探して旅を続けているという詩葉の父親は、今もどこかの空の下にいるのだろうか。

「母が亡くなったのは、去年の七月のことでした」

 墓石の前に立ち、水を浸したたわしで墓掃除をしながら、不意に詩葉が呟く。啓人に聞かせるようでもあり、また独り言のようでもあった。

「去年ですか」

 草抜きをしていた啓人が確認すると、

「母は自死しました」

 それもまた、独り言のようだ。啓人の脳内で《じし》という言葉の響きが漢字に変換されるまで、一瞬の間が生じる。

 それを通じていないと取ったのか、

「私が家に帰ると、母は首を吊っていました」

「ああ――」

 啓人は唸ったきり、次の言葉を探すことさえできなかった。

「藍川さんを嫌な気分にさせるつもりはなかったのですが、知っておいて頂きたかったのです」

 小さな墓石の周りの掃除はすぐに終わる。墓石の前に据えられている椀に水を汲み、花入れに新しい花を挿し、蝋燭と線香に火を付ける。

 線香の独特の匂いが、つんと鼻をくすぐる。それらを手向けると、やることはすべて終わったようだ。

「よろしければ、手を合わせて頂けますか」

「はい」

 詩葉は数珠を取り出して、合わせた両掌にかける。目を瞑り、軽く頭を下げる詩葉の横顔は侵しがたく美しい。啓人はそれを真似て、同じく手のひらを合わせる。

 しばし黙祷する。

 墓地には、詩葉と啓人以外の人の姿はない。八月のお盆の時期になれば、おそらく多くの人が訪れ、そして死者に花と祈りを捧げるのだろう。

 閑香の墓はどこにあるのだろうか。これまで、考えたことのなかった思いが、頭をよぎる。彼女の両親の行方が分からない今となっては、それを知るすべは乏しい。

 そもそも、本当に彼女は死んだのだろうか。遺体が見つかっていないままだとは聞いている。ならば、もしかして本当はどこかに生きているのではないか。詩葉の母が見たというのも、もしかして、生きている閑香ではないのか。記憶をなくしてさまよっているのではないか。

 まさか、そんなはずはない。だが、答えの出ない自問は何度も繰り返される。

 死を思う時、瞼の奥の方が鈍い痛みに襲われる。目を閉じていると涙が滲んできそうになる。

「藍川さん、ありがとうございました」

 詩葉に声を掛けられるまで、啓人はじっとそのまま黙していた。

 遠くからカナカナとヒグラシの鳴く声がする。アブラゼミと違い、どこか物静かで、悲しげな声だ。

「母のことを少し、お話しします」

 詩葉の母、真理は死の少し前から様子がおかしかったと言う。

 ふさぎ込むことが多くなり、独り言が増え、泣いていることもあった。そして、一年前の七月中旬、梅雨の最中にもかかわらず、それは酷く暑い日だったらしい。

 二人の家族、描き残した絵たち、そして『つゆくさ』の名と建物、そこで出すためのコーヒーを遺して、彼女の母はこの世を去った。

「自殺の理由は、今も分かりません。ただ……伝え人には、時折そのようなことがあるらしいと、父から聞きました。母の母、つまり祖母にも迷い言が見えたそうです。そして、やはり最後は事故か自殺か分からない亡くなり方をしたということです。

 私もそのような道を辿るかも知れません。そして、藍川さん。あなたにお手伝いをしてもらううちに、巻き込んでしまう恐れもあります。あなたが同じ目に遭わないとは言い切れません。

 もし、今の話を聞かれて、明日からはお手伝いを止めると言われるのであれば、それは仕方ないことです。この事実を話さずしてお手伝いを続けていただくことは、誠実とは言えません」

「やります」

 迷うことなく、啓人は即答した。

「少なくとも閑香に会うまでは、どんなことを言われても行きます。来ないで下さいと言われても、行きます」

「分かりました。藍川さんにとって、閑香さんは本当に大切な人なんですね」

「そうですね。僕は彼女が……好き、でした」

 詩葉を前に、嘘をつくのは嫌だと思った。

 好きという感情がどういうものか、自分でも良く分からない。ただ、啓人は事故の前からずっと閑香のことを想っていた。それはおそらく、好きということなのだ。

「でも、その資格は自分にはありません。僕は許されないことをしました」


 小学五年生の時。

 子供の頃から、啓人は泣き虫だった。すぐに泣く啓人は、よくクラスメイトにからかわれた。閑香と仲が良いこともあったのだろう。

 ある日、前日に閑香と一緒に帰ったことを、男のくせにと揶揄されて啓人は負けてしまった。勇気があるなら、高森に嫌いだと言え、という言葉に従ってしまった。

『お前なんて嫌いだ。本ばっかり読んで、つまんないやつのくせに』

『ごめん、そうだよね。もう、一緒に帰るのは止めるね。話しかけるのも止めるね』

 閑香はそれはそれは、悲しそうな顔をしたのだった。

 すぐに後悔し、そんなつもりはなかったと撤回しようとしたが、周りの視線がそれを許さなかった。

 結局、学年が一つ違うため、六年生だった閑香は卒業し、それからは滅多に顔を合わせることさえなくなってしまった。


「僕は閑ちゃんを裏切った。優しくしてくれた彼女に、あんな言葉を言ってしまった。だから……自分のためなのかも知れません。自分が救われたいから、許されたいから、僕は閑ちゃんに会いたい。多分、それだけです」

 閑香の口から聞かれるのは、きっと自分への恨みだろう。あの五年生の日のこと。そして、あの事故の日のこと。それでも声を聞きたいと、今この瞬間は思うのだ。


   ◇


すえつゆ もとのしずくや世の中の おくれさきだつ ためしなるらむ」

 啓人の告白を受けた詩葉は、墓石の脇に生える草葉の垂れる先を見つめながら、小さく口にする。

六歌仙ろっかせんの一人、僧正そうじょう遍昭へんじょうの歌です。百人一首の『天津風あまつかぜ 雲のかよ吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ』が有名でしょう。僧らしからぬ色気のある歌を多く遺していますが、一方ではこの歌のように世の無常むじょうはかなむ歌も多くんでいます」

 それが何か、と問い掛けようとした啓人よりも先に、詩葉は続ける。

「『つゆくさ』は、母が描いた露草つゆくさの絵から名付けられました。露草の花言葉については、以前に申し上げた通りです。しかし、本当にそれだけなのでしょうか」

 その問いは、ほとんど独り言だった。

「母は、私に多くのものを遺してくれました。しかし、ただ一つ、真意だけは遺してくれませんでした。私は母の後を辿り、そして想像するより他にないのです。

 藍川さん、あなたもそれはきっと同じなのでしょうね」

 昼の最中なのに溶けて消えてしまいそうな、詩葉の言葉と表情だった。

 その錯覚は一瞬のことで、彼女は啓人の答えを待つことなく道を戻ろうとする。

 すると、

「やあ、詩葉ちゃん」と声を掛けてくる女性がいた。

「美空さん」

 その人物は啓人にも見覚えがある。以前に『つゆくさ』で会った詩葉の友人だ。その際はスーツを着て仕事帰りだった。今日も私服ながら墓地に来ているためか、落ち着いた服で纏めている。

「お墓の前で深刻そうに話し込んでいるから、声を掛けるタイミングが難しかったよ。そっちの男の子は確か、前に会ったよね」

「藍川啓人です」

「私は織田おだ美空みそら。君はひょっとして、詩葉ちゃんの彼氏?」

「違います」

「やっぱりね」

 啓人の言葉に美空はすぐに頷く。からかっているようだ。

「藍川さんには、私のお手伝いをして頂いています」

「ああ、なるほど」

 詩葉の言う『手伝い』の意味するところをすぐに理解したところを見ると、彼女も詩葉の伝え人としての務めを知っているようだ。

「織田さんも、伝え人なんですか?」

「ん? ああ、私は違うよ。私は詩葉ちゃんに助けられたの」

「美空さんは、私が初めて迷い言をお届けした方です」

「三ヶ月くらい前かな。あの時は驚いたなあ」

「もしかして、小々海ささみさんのお墓参りですか?」

「ああ。ちょうど今日があの子の誕生日なんだ。就職の前後は忙しくて、三月の命日は来られなかったから、その償いかな」

「小々海さんのお墓もこちらにあるのですね」

「『も』ってことは、詩葉ちゃんも誰か近しい人がここに眠ってるの?」

「はい。母がいます」

「そうだったんだ。で、こっちの啓人君と一緒にってわけだ」

「これからのことを考えると、色々と知っておいて頂きたいと思いましたから」

「なるほどね。……って、私も詳しいことは全然知らないけど。ねえ、これから時間ある? せっかく会ったんだ。ちょっと話でもしない? 啓人くんも一緒に」

「はい、構いません」

「大丈夫です」

「その前に小々海さんのお墓にお参りさせて頂いても良いですか?」

「もちろん。あの子もきっと喜ぶよ」

 詩葉の申し出に美空が応え、啓人も二人に続いて、小々海という女性の墓の前に立つ。話の流れからして、その人が美空のもとへと送り届けられた迷い言なのだろう。

 六条家の墓石には花が供えられているが萎れてしまっている。今日供えたものではないようだ。

「私は手ぶらで来たんだ。月命日まではまだしばらくあるからね。ご両親が、毎月綺麗に掃除をしているよ。それを捨てるのは忍びないからさ」

 啓人は目を閉じて、しばしの祈りを捧げる。

 今日は顔も知らない人へと手を合わせることが多い日だ。たとえ知らない人であっても、死というものに対しては厳粛になる。

 美空が車で来ているというので、ありがたく同乗させてもらう。中古の安いやつだけど、と美空は言うが、クーラーの効いた車内は快適だった。

 車内で、美空の身の上を聞く。

 織田美空。二十三才で社会人の一年目。今は毎日、日本三大都市と呼ばれるうちの一つ、隣県にある鳴海市に通っているという。

「一応、雑誌の編集をしているのさ。まだ、下っ端、雑用だけどね」

 話していると分かるが、美空は気さくというか、ざっくばらんで誰とでもすぐに距離を詰められる性格のようだ。話が途切れることなく続くのが助かる。

 詩葉とも親しげに感じたが、実際には知り合ってまだ数ヶ月ということだ。

「啓人君には、小々海のことは話したのかい?」

「いえ、お話ししたことはありません」

「だったら、私から話そうか」

「良いんですか?」

「美空さんさえよろしければ、私からもお願いします」

 啓人としても、詩葉が関わった迷い言のことは知りたい。だが、美空のプライベートに踏み込むようなことはためらわれたため、彼女からの申し出はありがたかった。

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