青き海鳴る(1)
「詩葉さんのお父さんは、何をしているんですか?」
啓人が詩葉の店を訪れるのも、もう何度目になるだろうか。
これまで、この場所で詩葉以外の人物を見かけたことはほとんどない。美空と名乗る詩葉の友人に一度会ったくらいだ。
他に客と言えば、僅かに一人の迷い言だけだった。ここを訪ねる者の多くは迷い言に縁のある者だという詩葉の言葉を思い起こせば、訪問者が少ないのも当然なのかも知れない。美空もその一人なのだろうか。
詩葉の両親のうち、既に亡くなっているという母親はともかく、父親にも会ったことがない。そのことを聞くと、詩葉は僅かに瞳を伏せて、
「父は、母を探して旅を続けています。戻ることは滅多にありません」
「探してるって……?」
「疑問に思われるのは当然だと思いますが、いずれお話しする機会もあるでしょう」
それ以上のことを詩葉が話さなければ、啓人としても詳しく聞くこともできない。
「置いてある絵のうち、父が描いたものは、旅先でスケッチしてから、ここで仕上げたました。父が戻ってきた時には、ご紹介できると思います」
名は一朗と言い、その朗の字をサインにしているらしい。つまり、母親の
この店についても聞くと、
「最初は訪れるかも知れない迷い言の方の目印となる絵を飾るために、母が始めました。やがて、その絵を見たいと言われる方がいらして、飲み物をお出しするようになりました。タンポポのコーヒーも母譲りです。
母が生きていた頃は、そういった喫茶のお客様もあったのですが、母の死後しばらくの間、閉めていたためか、私が後を継いでからは、めっきり少なくなりました。近所の方には寂れた喫茶店だと思われているようです」
珍しく自嘲めいた口調だった。あまり触れたくない話題のようだ。
母親である真理のことも、詩葉は話したがらない。
既に亡くなっていること。そして、詩葉の外見、ほのかな黄みを交えた夕暮れ色の髪や、くっきりとした目鼻立ち、雪のように白い肌から想像はしていたが、母方の祖父がフランス人だとのことだった。
真理は詩葉と同じく伝え人をしていて、詩葉はかなり影響を受けている。
それは、そうだろう。他人には見ることも話すこともできない存在を共感できる相手に、依存しないはずがない。ましてや、それが母親なのだから。
しかし、それ以上のことは分からず、今のところ語るつもりもないようだった。
◇
啓人が通うようになってから、晴子以外に
あれから二ヶ月あまりが経過していたが、その間も人知れず、男児はさ迷い続けていたのだろう。
幼い子供の死は珍しい。詩葉は図書館で過去の新聞記事を丹念に調べ、啓人が描いた似顔絵と合わせて、身元を確かめた。
一年ほど前に交通事故に遭い、その二日後に息を引き取った五歳の少年だった。
詩葉と啓人は、その男の子の迷い言を両親や飼っていた犬と引き合わせた。
歌を詠む前に、まず詩葉はシャボン玉のセットを取り出した。溶液の入れ物とストローが入っている。
「お子さんなら、きっと喜ぶと思います」
ストローの端を口に咥えて、ふわりと息を吐くと虹色に輝く球体が空に向かって飛んで、そして割れた。
彼の父親と母親がその様を見上げ、そして涙ぐんでいた。
幼い迷い言は飛んでいくシャボン玉をじぃっと見つめていた。
詩葉が
再び、啓人は幻を見る。七色のプリズムの球が、風に吹かれ、屋根まで舞い上がり、そして消える運命を。その風はどこか甘く、懐かしい匂いがした。
彼女が少年に手向けたのは『シャボン玉』。有名な
男の子はお父さんとお母さん、そして犬のメリーに別れを告げる。一緒にシャボン玉で遊んだ時、とても楽しかった。生まれ変わるなら、また両親の子供になりたいと、そう伝えて消えていった。
三十代だと思われる両親は、詩葉と啓人に何度も何度もお礼を言った。
「どうして、あの歌だったんですか?」
「『シャボン玉』は詩人の
その様子に亡くなった魂を鎮め、また生まれてくるという事象を重ね、祈る。私は、そのような想いをあの男の子に伝えようと思いました」
「良かったですね」
啓人は笑顔で消えた子供のことを思う。
「お二人は亡くされたお子さんを何度も夢に見て、一時は後を追うことも考えられたそうです」
帰り際に何か話していたようだが、そんな話をしていたのか。
「ですが、今日のことでようやく前向きになることができた、救われたとおっしゃってみえました」
そう告げる詩葉の声は、しかし彼女自身はその結果にさほど興味がないようにも思えるほど淡々としている。
「残された人は、どう生きれば良いんでしょうか。……救われないままに生きていかなければいけないんでしょうか」
啓人の口から、思わずそんな疑問がこぼれ出る。
「多くのことは時間が解決してくれます。僕も普段は、閑ちゃんのことなんか忘れたみたいにして生きている。でも、時々ふと思い出す瞬間があって、そんな時は治りかけた瘡蓋を剥いで痛みを覚える時みたいに、どうしようもなく怖くなります。まだ生きている自分が不思議に思えてしまうこともある。
そんな気持ちは、閑ちゃんの迷い言に会えばなくなるんでしょうか」
もしくは、閑香の言葉によって背中に最後の一押しを加えられるのだろうか。
「分かりません」
詩葉は素気なく首を振る。
「迷い言が伝える言葉は、救いでも呪いでもなく、純粋な偽りなき気持ち、ただそれだけです。救済と捉えるか、呪言と思うか。その答えは届けられた人次第です。
その気持ち、その言葉、その過去に向き合った時、それをどう捉えるかは、誰でもない自分自身だと思います。それまでに何を考えたか、何を思ったか、何をしたか。それは藍川さん次第です。まだ、時間はあります。藍川さんにも……そして、私にも」
そう言うと、詩葉はしゃべり過ぎたと言うように下を向いてしまった。
◇
「今日もちょっと、出かけてくるから」
七月に入って二回目の日曜日。まだ
昼ご飯を家で食べてから、啓人は母親に声をかける。
「最近、毎日帰りは遅いし、休みの日も出かけるし、いったいどうしたの?」
「友達に会ってるだけだよ」
「もしかして、女の子?」
「違うって……」
嘘ではない。詩葉は《女の子》よりも年上だ。詩葉の年齢や、いま何をしているかというのを聞いたことがない。
大学生か、社会人相当だと思うのだが。彼女はどこかリアリティに乏しく、学校で勉強していたり、職場で働いている姿が想像できない。
「遊ぶのは良いことだし、友達は大切にして欲しいけど、
「分かってるよ。笑未はどうしてる?」
妹のことを持ち出されると、啓人は弱い。
「部屋で本を読んでるみたい」
「帰ってきたら、顔を出すから。夕飯までには帰る」
「雨が降りそうだし、気を付けて」
母の言葉を背に、啓人は自転車に乗り、川を渡り『つゆくさ』の扉を潜る。
迎える詩葉は、普段とは違い脇に大きなバッグを置いている。すぐにも出かける準備ができているようだ。
「藍川さん、お待ちしていました。少しお付き合いいただけませんか?」
「どこにですか?」
訪問して早々の求めに戸惑いながら、啓人は
「次の水曜が母の命日になりますので、今日のうちにお墓参りに行こうと思います」
「僕が一緒でも良いんですか?」
「はい。お話ししたいこともあります」
「分かりました」
迷い言を見ることができ、詩葉と同じ伝え人だったという彼女の母親、真理。その話が聞けるのならば、断る理由もない。
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