匂いおこせよ梅の花(12)

「……おばあちゃん」

 誓子がうめき声をもらし、その場に座り込んでしまう。つい先ほどまで、晴子が立っていた場所に手を伸ばすが、空しく宙を切る。

 起き上がれない誓子に啓人は手を差し伸べる。

 彼女はその手を掴み、

「最後におばあちゃんが手を握り返してくれたよ。すごく弱々しかったけど、でもしっかりと私の手を握ってくれたの」

「なあ、春近。僕は思うんだ。心臓発作で突然倒れた晴子さんが、最後にどうしても言いたくて、伝えたくて、心残りになったのが、家族への感謝の言葉だった。だったら、きっと春近の心配するようなことは何もなかったに決まってる」

 今まさに死にゆく人の最期の言葉が嘘であるはずがない。

 たとえ言葉を忘れてしまっていたとしても、彼女の祖母はその瞬間まで、家族のことを想っていたのだ。

「……そうだね、藍川君。あたし、今はおばあちゃんの姿が見られたことが嬉しい。声を聞けたことが嬉しい。そして、おばあちゃんの言葉がただ、ただ嬉しいの」

 誓子の声は嗚咽おえつまじりだったが、それでも敢然と言葉を続けた。

「少しは落ち着いたか?」

 問い掛ける啓人自身も鼻をすする。

「うん、ありがとう。大丈夫」

「晴子さんにとって、背負われるということは特別な意味があったのですね」

「分かっていたんですか?」

「藍川さんがここまで連れてきて下さった状況をお聞きした時から、もしかしてとは思っていました。伝えたい言葉が生まれた時の状況は、迷い言にとって最も深く刻まれた記憶です。それを推測できれば、言葉を引き出す手掛かりになりますから。

 もちろん、お二人の間に具体的に何があったのかまでは分かりません。ただ、誓子さんが晴子さんを背負うということには、きっと深い意味があるのでしょう」

「今年の初めだったかな、一緒に散歩に出かけたおばあちゃんが途中で自分がどこにいるか、どこに行こうとしていたか分からなくなっちゃったことがあった。

 あたしがついていたんだけど、新年の人混みの中、突然のことで見失っちゃったの。やっと探し出しけど、おばあちゃんはあたしのことも分からないし、すぐにどこかに行こうとしちゃうし、あたし、どうしたらいいか分からなくなっちゃって……。

 寒くて早く帰りたいって、そればっかり考えてた。あいにく、家にも家族は誰もいなくて、だから、あたしがおばあちゃんをおんぶして、家まで帰ることにした。

 ……不思議とあたしの背中でじっとしてた。おばあちゃんは軽くてちっちゃかった。小柄なあたしでも簡単に背負えるくらいに。

 おばあちゃんは途中ですぅすぅって寝息を立てながら寝ちゃった。親切な人が手伝ってくれたりして、私は家まで帰ることができた。その間、あたしは自分の子供みたいに、おばあちゃんをおんぶしてた。

 藍川君も、そんな風におばあちゃんをおんぶしてくれたんだね。ありがとう」

「……僕は何も」

 ただ、あの時はそうすることが自然だと思っただけだ。だが、それがこの瞬間に繋がったのであれば、嬉しく思う。

「あの時、やっぱり、あたしはおばあちゃんが好きだったんだなって、気づいたの。確かに嫌なこともあったけど、でもそれ以上にたくさん良い思い出があるから」

「多分、春近のお母さんも同じなんじゃないかな。だから、春近から見ても献身的だと分かるほどに、ずっと介護をしてたんだと思う。その気持ちはおばあさんにも伝わっていたとんだと思う」

「うん、ありがとう」

 目尻をハンカチでぬぐい、誓子が頷く。


「詩葉さんが、あの歌を詠み上げた時、夕暮れの砂浜を春近が晴子さんをおんぶして歩いている、そんな光景が頭の中に浮かびました。あれは、何だったんだろう」

「そうでしたか」

 珍しく、詩葉が少し驚いた顔をする。

「藍川さんは感受性が優れているのですね。共感性が高いと言っても良いでしょう。読み取る力、感じ取る力が強い。人の不幸を悲しみ、人の喜びを願う。だから、迷い言が見える。だから、迷い言の立場をおもんばかることができる。とても大切なことです」

「ああ、分かるかも。藍川君、優しいから」

「……そうかな」

 自分が弱い人間だとは思うが、優しいかどうかは判断しかねる。

「うん。藍川君、結構涙もろいよね。いつも泣かないように我慢しているみたいだけど。それって、優しい証拠だと思うよ」

 気づかれていたのか。ごまかすように、啓人は話題をらす。

「どうして、詩葉さんは歌を詠むんですか?」

 晴子はるこが言葉を取り戻した直接のきっかけは、あの啄木たくぼくの歌にあった。

「前に私の母は絵を描くことで迷い言の方の考えを見つめ、そして伝えたいことを引き出していたと申し上げました。しかし、私に同じ方法はできません。だから、母に及ばずとも、私が迷い言の方のことを知り、そして背中を押してあげる、伝えようとしている言葉を思い出してもらうために用いるのが、この方法です。言葉には力があります。多くの先達の言葉を借りて、迷い言の思いをみ上げ、読み取り、そして、呼び戻す。それが、伝え人としての私のやり方なのです」

「じゃあ、僕はどうすればいいですか?」

 やがて来るはずの、閑香の迷い言との出会い。彼女から言葉を聞き出すためには、詩葉と同じような手段を取るのだろうか。それとも――。

「方法は人それぞれです。藍川さん自身が見つけなければいけません」

 詩葉の答えは、素っ気ないとも思えるものだったが、だからこそ、啓人はやがて自らに訪れる役目を予感する。


 外に出ると空はすっかり、暗くなっていた。

「今度、他の絵も見せて下さい」

「いつでもお待ちしています」

「春近、帰りは大丈夫か?」

「うーん、大丈夫じゃないけど、仕方ないよね。帰ったら、お母さんに怒られるかも知れないけど、今日あったことに比べたら、ちっちゃなことだよ。帰ったら、あたし、お母さんともう一度ちゃんと話してみるから」

 誓子が先にバス停を目指して、帰っていく。

 詩葉は残された啓人に向かい、

「藍川さん、今日はありがとうございました」

「僕の方こそ。いつか……閑ちゃんにも会えるでしょうか」

 閑香も、晴子のように啓人の前で話す時が来るのだろうか。

 いったい、閑香の迷い言は自分に何を伝えようとしているのか。そもそも彼女の届けたい相手は自分なのか。それは、分からない。

 あの日にあったことを思えば、必ずしも良い内容だとは限らない。彼女こそ、啓人の罪を告発しようとしているのかも知れないのだ。

「きっと」

 短く答えた後、啓人にも自分にも言い聞かせるように詩葉は言葉を続ける。

「迷い言にたくされた言葉に嘘はありません。そこには、真実以外には何もないのです。偽りだらけのこの世界で、彼らの想いを伝えるために、私は伝え人を続けたいと願っています。ようやく母以外の伝え人に会うことができました。だから、これからもどうか、私に力を貸してください」

 最後はお願いというよりも、独り言のようだった。

 『つゆくさ』の近くには飲食店が多く、陽が沈んだ後の方がかえって日中よりも道行く人が増える。今も、灯りの下を仕事帰りの人たちが雑談を交わしながら通り行く。

 そんな当たり前の日常の風景の中で、啓人と詩葉だけはそこから切り離されたかのように、しばらく沈黙していた。

「はい」

 ようやく思い出したように啓人は頷くと、詩葉も同じように首肯するのを待ってから、その場を後にした。


   ◇


 それからしばらく後。啓人は再び誓子を連れて詩葉に会いに行った。

 啓人自身は閑香の迷い言がいつ来ても良いように、ほぼ毎日のように『つゆくさ』に通っていたが、誓子はあの日以来となる。

 自転車に二人乗りをすると、またもや啓人は肩で息をする羽目になった。

「藍川君、もう少し体力付けた方が良いんじゃないかな」

「……だから、バスにして欲しいって言ったんだ」

 誓子が改めて詩葉に礼を述べると、彼女は「お気になさらずに」とだけ答えた。

「春近。この前のことは家族には話したのか?」

「直接的には何も話してないよ。どうやったって上手く説明する自信がないから。

 でも、お母さんにはちょっと聞いてみたの。そうしたら、お母さん、あたしが思っていたよりもずっと、あの日異変に気づけなかったことを悔やんでいたみたい。

 亡くなった日のことは今でも、まだ夢に見るって言ってた。あたしと同じだった。あの時、もっと上手くできれば助けられたんじゃないか。悔やんでも、悔やみきれない。後悔しても、キリがないって。お母さんも悩んでいたんだって分かったよ。それも知らずに勝手に嫌なことを考えていたことに、今度はあたしが落ち込んじゃった」

 誓子の母の気持ちも啓人には、よく分かる。

 過去は夢という姿で不意に襲ってくる。心の無防備なときにやって来るそれは、本当に辛い。先日、誓子自身も同じことを言っていたことも思い出す。

「あの日にお母さんがここにいれば良かったんだけど……。そればっかりは、仕方ないよね。あたし、お母さんのあんな顔を初めて見た。お母さんは、ずっと『お母さん』だと思っていたけど、本当はそれだけじゃなくて、一人の人間なんだって分かった。あたしが、勝手に『お母さん』を押しつけていたのかも知れない。

 これからは少しずつ、折に触れて、おばあちゃんの思い出をお母さんと一緒に語っていこうって思う」

 ここから先は詩葉や啓人が立ち入る問題ではなく、春近家の人々が歩む道だ。

 その一歩を踏み出すきっかけを作る手助けができたことは、啓人にとっても貴重な体験だった。


 誓子の希望で、店内をゆっくりと見て回る。

 啓人も飾られている絵は何度も見ているが、誓子と一緒であれば、また新しい発見もあるかも知れないと思う。

 事実、誓子の観点は啓人とは少し違っていて新鮮だ。

 それが一番如実に現れたのは、閑香の絵の前に立った時のことだった。

 既に迷い言のことを知った誓子には、詩葉の母親が描いた人物画は、彼女が出会った迷い言だと言ってある。

 ただ、閑香が啓人の幼馴染みであるとは一言も教えていない。言えるはずもない。

「綺麗な子だね。歳はあたし達と同じくらいかな」

 啓人は閑香の享年を既に一年以上上回ってしまった。だから、絵の中の彼女は一歳年下ということになる。

 その閑香の絵を、正面から、斜めから、近づいたり離れたりして誓子は鑑賞する。

「そんなに、この絵が気になるのか?」

「この絵だけって訳じゃないけど、真理さんの絵って不思議だと思わない? 見る位置や角度によって、表情が全然違って見えるの。この絵も正面から見ると、悲しそうに俯いているみたいに見えるでしょう?」

「そうかな」

 啓人は誓子の隣に立ち、正面の絵を見据える。そこから見る閑香の顔は、記憶の中にはあまりない悲哀を帯びている。

「でも、少し斜めから見てみると、ほら、はにかんでいるみたいでしょう? まるで、絵が……描かれているこの子が……生きているみたい」

 誓子に倣って、啓人も同じ位置に立つ。

 柔らかな照明の加減なのか、誓子の言うとおり、恥ずかしそうにうつむいているようにも見える。

 なるほど、繰り返し見たつもりだったが、いつも正面からだったかも知れない。

 見る角度を変える。当たり前のことだが、つい忘れがちになる。だから、自分の絵も硬直的なのだろうか。

 こうして角度を変えると、確かに表情は違う。それでも、やはり閑香の目尻には拭い切れない涙の痕があるように見えてしまう。

「詩葉さんのお母さんの絵は見る人を試す絵だと思う。見る人の心を映し出す絵だ。

 たとえ、ここに描かれているのが迷い言じゃなくて、普通の人だとしても同じような気がする」

「どういうこと?」

「ここに描かれている人物を通じて、自分自身を見せられているような気になる。

 多分、詩葉さんのお母さんは意図しているわけじゃないと思うけど。そして、それは春近の絵にも感じることだ」

「興味深いことを言われますね。もし、母が伝え人ではなく、まっすぐに画家の道を歩んでいたら、きっと、もっとたくさんの人の目に触れる絵を描いていたのだろうな、と思うことがあります。お二人に気に入って頂けたら、おそらく母も喜ぶでしょう」

「今度、美術部のメンバーも連れてきます。みんなも参考になると思います」

「はい。お待ちしています」

 果たして、その日は来るだろうか。二人のやり取りを眺めながら、啓人は思う。

 閑香の絵が飾られたこの場所を、できればたくさんの人に知られたくないと思ってしまうのは、自分のわがままだろうか。


 夢を見た。

 夜のとばりでもあるような、深い海の底でもあるようなくらい場所に、二人の閑香が立っている。

 一人はその場に留まり、一人は歩き始める。

 啓人は、そんな二人を俯瞰している。

 留まった方の彼女は、心なしか嬉しそうだ。何かを、あるいは誰かを待ちわびるように、はにかんでいる。

 一方、歩き始めた閑香の表情はうかがい知れない。暗い暗い闇に溶けるように、その存在は薄れていく。

 最後にわずかかに垣間かいまえた頬には、流れぬ涙が浮かんでいた。


 目が覚めて、啓人は思う。二人の閑香。そんな夢を見たのは、昨日の誓子の言葉が耳に残っていたせいだろうか。

 どちらも同じ閑香で、しかしどちらも啓人が知る彼女とは違うような気がした。

 いずれも啓人の願望が見せた幻だったのだろうか。

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