匂いおこせよ梅の花(11)

 詩葉が老女――春近晴子に微笑みかける。

「晴子さんのことを詳しく教えて頂けませんか? 亡くなられたのはいつ頃か、なぜ亡くなられたのか、生前のお人柄などを。分かる範囲で構いません」

「それを教えると、どうなるんですか? おばあちゃんの幽霊がそこにいるとして、それから……その、成仏するんですか? あたし、まだ何が起こっているのかさえ、良く分からなくて」

「混乱させて、申し訳ありません。先ほど、藍川さんは説明を簡単にするために幽霊と言われましたが、私は正確には《迷い言》という言葉を使っています。

 言葉は正確さを必要とし、違う名前を与えると、違う性質を与えてしまう可能性があります。これからは、彼女のことは晴子さんの《迷い言》と呼ばせて頂きます。これは、一つの約束事だと思って下さい」

「分かりました」

 飲み込めないままに、誓子は頷く。

「迷い言の説明を藍川さん、お願いします」

 詩葉の後を受け、啓人は自分なりの言葉で迷い言について、誓子に語る。

 上手く話せたか自信はなかったが、啓人の説明を聞き終えた彼女は、じっと考える素振りを見せた後、

「おばあちゃんがあたしたちに伝えたい最後の言葉……何だろう」

 震える声で呟く。

「まだ分からないけど、きっと春近たちに何か大切なことを伝えたいんだろう。それは、間違いないと思う」

「誓子さん、確認したいことがあります。晴子さんは認知症でしたか?」

 昨日、詩葉がこの老女、つまり誓子の祖母の迷い言について立てた仮説だ。

 誓子は虚を突かれたように息を詰まらせるが、「……はい」と頷いた。

「普段はしっかりしているけど、たまに症状が出ることがありました。そういう時は、家族のことが分からなくなったり、もっとひどいと、お金を盗られたとか、物がなくなったといって騒ぐこともありました。

 本当はずっと優しくて、温かいおばあちゃんだったんだよ。だから……あれは病気だっただけなの」

 それだけ言うと、再び誓子は言葉を詰まらせる。しばらく待つが、継ぐべき言葉を探そうとしているかのような沈黙が続く。


「詩葉さん、いつものコーヒーを淹れてくれませんか?」

 啓人の提案に従って詩葉が席を立ったので、誓子と二人きりになる。正確には、晴子の迷い言が傍で寄り添っているが。

「その……大丈夫か?」

「夕方から色んなことが一度に起こり過ぎて、自分でもよく分かんないかも」

 誓子が曖昧あいまいに笑う。

「おかしなことに巻き込んで悪いな。でも、きっと大切なことなんだ。僕が席を外した方が良いか?」

 知らない人だから話せないことと、知っている人だからこそ話せないことの二種類がある。身内の事情をさらすことは、知っている相手だからこそ躊躇うだろう。

「ありがとう。でも、大丈夫。詩葉さんって、ちょっと変わってるよね。悪い意味じゃなくて。すごく綺麗で、不思議で。クールだけど、熱心で。絵に描いてみたいかも」

「春近の絵なら、きっと映えるだろうな」

「素敵な所だよね。喫茶店かな? 美術館かな? 一段落したら、ゆっくり見てみたいな。ここを教えてもらっただけでも、来て良かった」


「お待たせしました」

 詩葉が運んできた三つのカップをそれぞれの前に置く。その一風変わった味わいを知っている啓人は、誓子の反応を待つ。

「なんだか、奇妙な味ですね」

 一口飲んだ誓子は、しかめ面だ。口に合わなかったらしい。

「これ、いわゆるコーヒーじゃないですよね」

「お分かりになりましたか。これは珈琲豆で淹れたコーヒーではありません。乾かしたタンポポの根を豆代わりにしたものです」

「タンポポのコーヒーですか。聞いたことはあるけど、飲んだのは初めてです。ちょっと薬っぽい感じもするけど、慣れればおいしいのかな」

 誓子はもう一口。一旦口に含んで、ごくんと飲み込む。

「初めて知りました。ちょっと変わったコーヒーだとは思ってましたが」

「母が教えてくれた思い出のコーヒーです。誓子さん、お口に合わなければ無理に飲まなくても良いですよ。他の物をお出しします」

「いえ、大丈夫です」

 チョコレートと一緒に、誓子は最後まで飲み干した。


「藍川君、詩葉さん、母と祖母のことをお話しします」

 カップを片付けた詩葉に向かって、ようやく落ち着いたのか、改まった口調で誓子が切り出す。

 彼女は今、母と祖母と言った。晴子だけでなく母親も関わっていることのようだ。

「子供のあたしから見ても、母は認知症の祖母の面倒を良く見ていたと思います。祖母は心臓が少し悪い以外、体はよく動いていました。

 それだけに、症状が出た時はとても大変でした。時には母を罵ったり、暴力を振るうこともありました。それでも、じっと祖母の介護をした母を尊敬します。

 さすがに父やあたしには愚痴を言っていましたが、父は仕事も忙しく、あたしも学校があって日中の面倒は母に任せきりでした。まだ幼い翔太もいましたし。

 休日はあたしも手伝いました。施設の人にも来てもらいましたが、常に症状が出ているわけでもなく、祖母も大丈夫なときは身の回りのことは全部自分でできたから、介護を頼むのもかえって大変でした。

 母は疲れていたと思います。平気な顔をしていましたが、それは明らかでした。でも、あたしたちにできることは少なかった。父は会社が、あたしは学校があったから。

 日に日に元気がなくなる母、そして優しい顔と怖い顔を不定期に、前触れもなく変える祖母、去年の終わりから今年の初め頃、あたしの家の中は倦みきっていました。

 そして、あの雪の日……おばあちゃんは突然倒れました。家にお母さんと弟と三人でいて、お母さんは弟の面倒を見たり、雪かきや掃除、食事の準備をしていて、おばあちゃんが倒れたのには全然気づかなかったみたいです。ようやく救急車を呼んだけど道路も混んでいて、なかなか到着しなかったらしくて、病院に運ばれた時には既に亡くなっていたそうです。あたしの携帯に連絡があった時には、全てが終わった後でした。

 死因は心筋梗塞しんきんこうそくでした。お医者さんは、寒さのせいで弱っていた心臓に負担が掛かったんだろうと言っていました」

 誓子の祖母が亡くなったのは、今から四ヶ月ほど前のことだった。その日は宗宮市では珍しい大雪だった。通学が大変だったことを、啓人も覚えている。

 誓子は悔しそうにうつむいている。大切な人の今際の際に立ち会えないことの寂しさ、悔しさは啓人にも理解できる。もしかしたら何かできたのではないか。そんな無力さに誓子もさいなまれているのかも知れない。

「あの日のことは、今でも時々夢に見るの。おばあちゃんが一人で胸を押さえて苦しんでる。でも、誰も助けに来ない。あたしも、お母さんも誰も……。夢から覚めると、あたしまで胸が張り裂けそうに苦しくなってる。剥き出しの心がナイフで抉られたみたい。そして思うの。もしかして、これは夢なんかじゃなくて、本当は……」

 啓人には、彼女が何を言おうとしているのか見当がついていた。そして、それを彼女に言わせるのは酷だと思った。

 詩葉に目を向けると、口を堅く結んでいる。言うのは、自分しかいない。

「お母さんが、異変に気づいたのに何もしなかったんじゃないか……。春近は、そう思っているんだな」

 先んじた啓人の言葉に、誓子は目を大きく見開き、それから首肯する。

「あたし、ここ最近、ずっとそんな思いが頭を離れない。お母さんを疑っちゃいけないって分かってるんだけど、でも……どうしても……。もしかしたら、おばあちゃんが生きていた時よりも、今の方が、ずっと悩んでる。

 だって、そんなことお母さんに確かめるわけにもいかないじゃない。

 だから、怖い。おばあちゃんが、あたしたちに何を伝えようとしているのか。

 おばあちゃんは、お母さんを告発しようとするんじゃないか。ううん、もしかしたら、あたしにもその罪があると訴えるんじゃないかって。学校を理由にして、お母さんを支えられなかったあたしも、きっと同罪だから……」

 それだけ言って、誓子は弱々しく項垂れる。

 しばらくの間、啓人も詩葉も口を開くことはなかった。誓子が抱える悩みに軽々しく口を挟むことなど、啓人にはできなかった。

「それでも」

 口火を切るのは、詩葉だった。

「私たち伝え人は、迷い言の方の言葉を届けるべき人へと送り届けねばなりません」

「聞く人が望まないとしてもですか?」

「私たちは誰も、晴子さんが伝えようとしている言葉を知りません。だから、誓子さんが危惧されていることとは違う真実が聞ける可能性も充分にあります。

 そして、仮に誓子さんが懸念される通りだとしても、それでも伝え人は迷い言の言葉を伝える必要があるのです」

「言葉が届けられないままなら、いずれ迷い言は消えてしまうと言ってましたよね? だったら、それまで待っても良いんじゃないですか? 知らない方が幸せだっていうこともあるでしょう」

「それはできません。私たちが知らない所で、残念ながら結果的にそうなってしまうことはあります。しかし、目の前に迷い言の方がいるのに、その役割を放棄することはできません。それが、伝え人としての誇りです」

「詩葉さん、藍川君。あたし、大好きなおばあちゃんがあたしたちに伝えたかった言葉が聞きたい」

 誓子が二人の会話に割り込んで訴える。

 良いのか? と問うように啓人が目配せをすると、彼女は黙って頷いた。

「藍川さん、晴子さんの迷い言をここまで連れてきて頂いた時の様子を、誓子さんに話して頂けませんか?」

「分かりました」

 啓人は気を取り直して、一昨日の放課後に起きたことを話した。

 道ばたでうずくまっていた晴子を見つけて声を掛け、最後は背負って、この建物の前まで来た。そして、いつの間にか彼女は店内に入っていた。

「そっか。藍川君がおばあちゃんを見つけてくれたんだね。ありがとう」

「晴子さんを背負った時も《ちかこ》と言う言葉を聞いたのでしたね。誓子さん、何か心当たりはありませんか?」

「藍川君が、おばあちゃんをおぶってくれた……」

 詩葉の質問に、誓子は「もしかして」と小さく声を上げる。

 さらに言葉を続けようとした誓子に向かって、

「後を私に任せて頂けませんか。誓子さん、あなたは心優しい方です。晴子さんは、そのことを決して忘れていないと思います」

 詩葉は机から紙を取り出す。以前に道真の和歌をしたためたものと同じ短冊だ。

「晴子さん」

 筆を取った詩葉は晴子に向き合う。朧に浮かぶ影の表情は、それでも虚だ。

「それから、誓子さん。どうか、聞いて下さい」

 自分の少し後ろに立つ誓子に前に出るように促す。啓人はそのまま、詩葉の背後で成り行きを見守る。

「そして、藍川さんは、これから起こることをどうか見ていて下さい」

 詩葉が筆の穂先ほさきに軽く墨を含ませ、垂れるしずくを綺麗に切る。

 左手で短冊を胸元に構え、右手の筆を流れるように走らせる。

『たはむれに 母を背負いて そのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず』

 同時にその口からつむがれる言葉は、老母を想う歌。久しぶりに背負った老母が、あまりに軽くて驚いて泣きそうになってしまった。

 石川いしかわ啄木たくぼくの歌だ。

 『一握いちあくすな』という歌集に収められていることは、授業で習った。

 その『砂』という言葉から連想したのか、啓人は建物の中にいながらにして、砂浜を幻視する。

 夕陽に映える砂浜を誓子が一歩一歩、体を屈め、踏みしめながら歩いている。

 その背には、晴子の姿がある。誓子が晴子を背負っているのだ。

 足下は悪く、さぞかし歩きにくいだろう。それでも、誓子は歩き続ける。どこへ向かう訳でもない。ひたすらに真っ直ぐに歩くその後には、砂の上に足跡が残る。

 背負う誓子も、負われる晴子も、優しそうな顔をしていた。

 二人が向かう先はきっと、帰るべき家なのだろう。

 幻想は一瞬で消え、啓人は先ほどと変わらず詩葉たちといることに気づく。

 晴子の迷い言は詩葉の方をじっと見ていた。それから、視線を誓子に移す。その瞳はこれまでにない強い輝きを宿している。

誓子せいこ

 晴子の口から漏れる言葉は、はっきりと誓子を認識している。

翔太しょうた》《みのる》《勝男かつおさん》《敦子あつこさん》

 続けられる家族の名前も響きこそ先刻と同じだが、そこに込められた力が違う。

「おばあちゃん……」

 そのニュアンスを真っ先に感じたのは、他でもなく誓子だ。

 ……えっ?

「春近も、聞こえたのか」

「うん。聞こえるだけじゃなくて、おばあちゃんがそこにいる……。見える、あたしにも見えるよ」

 誓子がよろめきながら、晴子に近寄る。彼女の皺混じりの顔に手を当てて、愛おしそうに撫でる。

「誓子、翔太、実、敦子さん。そして、勝男さん」

 晴子が自分に言い聞かせるように家族の名前を呼ぶ。その様子は啓人の目にもはっきりと映っている。彼女の《迷い言》は姿こそ変わらないが、その瞳には意思が秘められ、その言葉には想いが乗っている。

「うん、うん、みんな……元気だよ」

 誓子が何度も頷く。

「なあ、春近」

 先ほどの光景を自然と思い浮かべ、啓人は提案する。

「晴子さんをおんぶしてあげたら、どうだ?」

 詩葉の方に目を向けると、啓人に任せると言うように無言で頷く。

「……うん」

 誓子は晴子の前で屈み、「ほら」と背中を見せる。晴子の迷い言は引き寄せられるように、誓子の肩に皺の刻まれた小さな手を置く。

「よいしょ。……なんか、不思議な感じ。もう一度、おんぶができるなんて。あの時より、さらに軽いね、おばあちゃん。でも、しっかりと伝わってくる、おばあちゃんの温もりが……」

 その声は最後は涙で掠れていた。

「誓子ちゃん、あなた達のおかげで、私はとても幸せでした。最後までありがとう。言えなかったけど、ずっとありがとうって思ってたよ」

 誓子の背中で、晴子の《迷い言》が告げる。

 発した言葉は僅かそれだけ。だが、彼女にとっては充分だったようだ。伝え終えると、満足したように微笑む。その笑みは肝心の誓子には見えていない。

「春近……晴子さんが笑ってる」

 啓人の声を聞いた誓子が自分の祖母を背中から下ろす。

「おばあちゃん……お願い、もっと話を聞かせて。……もっと顔を見せて」

 誓子が縋るように晴子の手を取る。

 握った手に誓子がぐっと力を入れると、晴子は僅かに顔をしかめる。それは、誓子の思いが彼女に伝わった証だろう。

「ありがとうね」

 笑顔でもう一度そう言うと、啓人たちの前から姿を消した。

 時間にすれば、数分にも満たない短い間のできごとだった。

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