匂いおこせよ梅の花(10)

「藍川君、一人で歩けるから!」

「ごめん」

 部室を出てしばらく行ったところで誓子の抗議があり、慌てて手を離す。

「いったいどういうことなの? 説明して」

「ああ……」

 何と説明して良いか、咄嗟に思い浮かばない。あまりに不意打ち過ぎる。これから探そうとする矢先に、その当人が現れたのだから。

「ごめん、とにかくついてきて」

「うん」と、頷いた誓子が啓人の隣を歩く。下駄箱で靴に履き替えながら、

「僕は自転車だけど、春近はバスだよな」

 詩葉の家の最寄りのバス停を教え、そこで落ち合うように提案すると、

「二人乗りしよう」

 誓子が言ってのける。

「校則違反だ」

「そんなこと言ってる場合じゃないよ。校門出て、しばらく行ってから二人乗り。良いよね?」

 女子を乗せての二人乗りなど、いつ以来だろう。その記憶はおそらく小学生まで辿らなければ、出てこない。

 朝は街路樹の葉を濡らしていた雨も上がっていた。誓子が荷台に横座りをする。その重さをペダルに感じながら、啓人は自転車を漕ぎ進める。

「ねえ、藍川君」

 早速というように誓子が切り出す。

「……着いたらちゃんと話すから」

「着いたら?」

「ああ、春近のおばあさんの所へ」

「………………」

 背後の誓子が何かを言いたそうにして、ぐっと飲み込む気配があった。

「分かった。藍川君を信じる」

 耳元で囁くように彼女が言った後は、お互いに似顔絵のことは口に出さなかった。

「こうやって二人で帰るのは初めてだね」

「帰るわけじゃないけど」

「じゃあ、寄り道? どっちにしても初めてじゃない?」

「委員長なのに、寄り道や二人乗りなんかして大丈夫か?」

「遊びに行くわけじゃないし、緊急事態だから平気だよ。それに、あたしは普段の行いが良いから、多少のことはきっと大目に見てもらえるの。藍川君、いつもは真面目にしていることの利点って知ってる?」

「さあ」

「たまにさぼったり、悪ふざけをしても、信用してもらえることだよ。あいつなら、まあいいか、何か理由があるんだろうって思ってもらえるんだ」

 なるほど。更紗に聞かせてやりたい気がする。彼女は、そのような打算すらなく、ひたすらに自分を追い込んでいるように見える。

「だから、最近、授業中でもぼんやりしているのか?」

「えっ? そうかな……。藍川君、気になるの?」

「美術部の先輩が言ってるのを聞いたんだ。さっきもため息をついてたし。春近にしては珍しいって思ったけど」

「うーん……。そっか、やっぱり他の人も気づいてるんだ。先輩に心配掛けてちゃ、後輩失格だよね」

 それから、話題はさらに違う方へと逸れていった。美術部のこと、部員のこと、夏休みの予定や、休み明けの文化祭の話などだ。

 詩葉の家まで一人ならば自転車でおよそ二十分。誓子を後ろに乗せている分、スピードは遅くなり、少し余計に時間が掛かる。


「ふぅ、ふぅ」

 目的地に近づく頃には、啓人は息が上がっていた。

「藍川君、大丈夫?」

「あまり、平気じゃない。普段、運動不足だから……」

「しょうがないなあ。ちょっと止めて。あとは後ろから付いていくから」

 橋の手前で、誓子は荷台から飛び降りる。

「あたし、こっちの方はほとんど来たことないなあ。道は案内してくれる?」

「一本道だから、迷うこともないよ」

 息を整えながら、気持ちゆっくり目に自転車を進める。

「川が近くて、夏は気持ちいいだろうなあ」

 誓子はすぐ隣から軽く駆け足で付いてくる。その様子は、まさに子犬のようだ。

「山も綺麗だし、スケッチに来たいな」

「公園には、確か去年の夏に美術部で行ったことがあったよね」

 金宝山の麓には噴水や遊具を備え、また図書館などの公共施設も並ぶ大きな宗宮公園があり、市民の憩いの場となっている。

 子供の頃などは、小さな動物園や水族館まであったのだ。ペンギンやライオン、クジャクもいて、閑香も一緒によく見に行った。子供心にも狭い檻に閉じ込められて、かわいそうに思えた。

 また水族館と言っても、永瀬川に棲む鮎やナマズなどの川魚が水槽で泳いでいるだけだった。ただ、目玉として天然記念物のオオサンショウウオがいて、ぬめぬめとした体が気味悪かった記憶がある。

 閑香は、あのじめっとした空気の籠もった建物を妙に好んでいた。もっとも、何年も前にそれらの施設はすべて取り壊されてしまったが。

 そんなことを思い出すうちに、ちょうど目的地に到着し、啓人は自転車を止める。

 誓子は目の前の建物を屋根から下までじっくりと眺めてから、店頭に飾られた露草の絵に目を留め「素敵な絵だね」と感嘆の声を漏らす。

 そして、

「……ここに、おばあちゃんがいるの?」

 誓子は決して、来訪の目的を忘れていた訳ではない。むしろ、無理に明るく振る舞ってきたように怯えを含んだ顔をしている。


 二人の来訪を知らせる鐘の音が鳴り、詩葉が顔を向ける。

「藍川さん、いらっしゃいませ。もうお一人の方も、お待ちしておりました」

「こんにちは。藍川君のクラスメイトの春近誓子です」

 挨拶をする誓子の声には緊張が感じられる。

「もしかして、こちらの方が私たちの探し人ですか?」

 頷いた啓人に、誓子が戸惑いの視線を向ける。

「そうですか。藍川さんのお友達が。これも、何かの縁なのでしょうか」

「……藍川君、この人は?」

「失礼致しました。私は梅ヶ枝詩葉と申します。この『つゆくさ』の店長代理です。

 この度は、藍川さんにお願いして《ちかこ》という名前の方を探していました。あなたのお祖母様のために」

「……《ちかこ》。どうして、その名前を」

 誓子が驚いたように息を飲む。

「ねえ、藍川君、どういうことなの? 本当にここにおばあちゃんがいるの? どうして、おばあちゃんの似顔絵を持っていたの? あたしのことを《ちかこ》って呼ぶのは、限られた人だけなのに、どうしてそれを知っているの?」

 そして、堰を切ったように捲し立てる。これまで我慢していたものが一気に吐き出されたようだった。

「僕も、全部を理解しているわけじゃないんだけど」

 誓子の吐露とろを受け、啓人は彼女の目を見据えて話を始める。

「信じられないかも知れないけど、ここに春近のおばあさんの……幽霊がいる」

 正確には、迷い言なのだが、その違いを解説するのは一筋縄とは行かない。

「ふざけてる……訳じゃないよね」

「僕と詩葉さんには……見えるんだ。納得させるのは難しいよな」

 迷い言は、詩葉と啓人にしか見えないのだ。そもそも、彼女の祖母かも知れない迷い言の姿が見当たらない。

 そう思っていると、老女がゆっくりと歩いてくる。足取りは危うく思えるものの、確実に誓子の方へと向かっていた。

 そして、誓子の傍に立つ。皺に隠れそうな小さな瞳が誓子を捉えている。

「今、春近のすぐ左隣にいる」

「本当に……おばあちゃんが?」

 誓子は、自らの左に向けて手を伸ばすが、その行為は空振りに終わる。

「藍川君があたしをからかったり、騙したりするはずはないよね。《ちかこ》のことも知っていたし。それで……おばあちゃんの幽霊は……どんな顔をしてるの?」

「顔? 似顔絵に描いたみたいな顔だけど」

「おばあちゃん、怒ってない?」

 それは奇妙な質問だった。

「いや、怒ってない。と言うか……感情らしいものは示してないよ」

「……本当に?」

 不安げに念を押す誓子に違和感を覚えながら、啓人がもう一度同じ答えを返すと、

「そうなんだ」

 ほっとした様子を誓子が見せた。そのやり取りを見守っていた老女が《ちかこ?》と口にする。さらに、《しょうた?》《みのる?》《かつおさん?》《あつこさん?》と四人の名前を続ける。

「春近、《しょうた》《みのる》《かつお》《あつこ》って言うのは?」

「ああ」

 誓子が口を押さえて、呻く。

「翔太は弟、実はお父さん、勝男は亡くなったおじいちゃん、敦子はお母さん。……半信半疑だったんだけど、やっぱりおばあちゃんは、そこにいるんだね」

 もう一度、手を伸ばした。

「お祖母様のお名前を教えて頂けますか?」

「晴子です。春近晴子。おじいちゃんと結婚して、変な名前になっちゃったって、よく笑ってました。

 あたしの名前は《せいこ》って読むんですけど、おばあちゃんは《はるちかちかこ》って読める私の名前を気に入って《ちかこ》《ちかこ》って呼んでました。そのことは、家族しか知らないことなのに……」

「ありがとうございます。そうですか、晴子さんですね。ようやく、あなたに名前をお戻しすることができました」

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