匂いおこせよ梅の花(9)
決して、お座なりな誉め言葉というわけではないのだろうが、ここに飾られている絵に囲まれて暮らす詩葉が、絵の善し悪しを判断できないとは思えない。どうしてもお世辞に聞こえてしまうが、今は関係ないことだと心の奥にしまい込む。
「これ、どうするんですか?」
「コピーして、張り紙をしたり、それを持って聞いて回ろうと思います」
「まるで、迷い猫ですね」
「しゃべれないという点は同じですね。お疲れでしょう。時間も遅くなりましたし、今日はこれくらいにしましょうか。また、コーヒーを
それは昨日に続き、やはり少し不思議な味がした。そのおかげか、疲れが和らぐ。
「今さらですけど、ここは喫茶店ですか? 昨日はお金も払わずにご馳走になってしまいましたが」
今日の分と合わせて支払おうと、啓人は財布を鞄から取り出す。
「お気遣いは無用です」
でも、と続ける啓人に詩葉は再度、柔らかに首を横に振った。
「ありがとうございます」
言葉に甘えて、財布をしまう。
「迷い言は食事はしないんですね」
口直しのチョコレートの甘さを口内に覚えながら、啓人は尋ねる。
「その人の姿を残して、その人の思いの在りし頃を留めていますが、その本人ではありませんから」
「今日は一言も話しませんでした」
昨日は《ちかこ》という言葉を口にしたが、今日はスケッチをしている間も、老女はずっと黙り込んでいた。
「生まれてから時間が経つに連れて、迷い言の方は感情や記憶、言葉を徐々に失っていきます。ただ、私の推測ですが、この方はそれほど時間が経っているようには思えません。時を経た迷い言の方はもっと表情に乏しく、存在がうっすらとしています。
着ている服は、春より少し前、二月頃のものでしょうか。そうであれば、まだ四ヶ月くらいだと思います。そのくらいであれば、普通はもう少し表情も豊かで、自分のことも覚えているものです。だから、送り届けて差し上げるのも、さほど難しくないのですが……」
詩葉が語尾を濁す。懸念していることがあるようだ。
「この方は認知症だったのではないでしょうか。亡くなる頃には、ご自身のことも曖昧になっていたのかも知れません」
「つまり、記憶は戻らないかも知れないと」
「それは大丈夫だと思います。大切な誰かに伝えたい、その強い思いは心の奥深くに刻まれたものですから」
声だけを聞けば平板で冷たくも思える詩葉の口調だが、その内容は迷い言に対す思い入れが深いことを窺わせる。
啓人はもう一度老女を見る。普段、老人に接する機会は少ない。父方の祖父母とは同居しているが、母方の祖父母は東北地方に住んでいて、この数年は会っていない。近所にも老人は住んでいるが、特に話をするわけでもない。
家族はともかく、それ以外の老人は啓人にとっては遠い存在で、有り体に言ってしまえば異質な存在だ。
だから、目の前の老女の生前も、いまいち思い浮かべることができないでいる。
「今のところ、《ちかこ》だけが手掛かりですね」
啓人が「ちかこ」と言った途端、
《ちかこ》《ちかこ》《ちかこ》《ちかこ》《ちかこ》
老女はようやく聞き取れるような小声で、ちかこという言葉を繰り返す。
「あなたにとって、《ちかこ》という名前がどれだけ大切かよく分かりました。あなた自身のお名前なのか、それともご家族やご友人なのか。それは、まだ分かりませんが、きっと送り届けて差し上げます」
詩葉が老女の肩を抱くようにして労る。
啓人も困っている人がいれば力になりたいとは思う。それは、おそらく多くの人が持っている良心だ。
だが、その強弱の度合いは人それぞれだ。啓人も、自分のその気持ちが弱いとは決して思わない。だが、詩葉の迷い言への接し方に異質なものを感じてしまう。果たして、自分は閑香以外の迷い言に対しても、それほど親身になれるだろうか。
◇
描いた似顔絵は啓人が持ち帰る。コピーをしてから、また詩葉のもとを訪ねることになった。部室の複写機を使うつもりでいた。
翌日は、また朝から雨が降っていた。六月の半ば、まだまだ
「今日は部活はどうする?」
放課後になると
「行くよ」と答えると、彼女は嬉しそうな顔をした。
二年生の教室のある二階から、美術部の部室がある三階まで、誓子と並んで歩く。
「はぁ……」
階段の途中、一段下にいる誓子が深いため息を吐く。いまいち元気がないようだ。
「今度は、春近の調子が悪いのか?」
「えっ? ああ、ごめん。藍川君の前でため息吐くなんて。……ちょっと、寝不足なんだよね」
「何か心配ごとでも?」
「ううん、何でもないよ。ちょっと、夜更かし」
照れ隠しのようにはにかむ。
彼女とは一年生の時から同じクラス、同じ部活の付き合いだ。小柄でちょっと丸っこい体型。人懐っこくて分け隔てなく接する性格は、広く好かれている。
子犬のようだという評価を本人が気にしているかどうかは、定かではない。
これまで暗い顔をするところをほとんど見たことがないが、実は二年生に上がってから、ぼんやりしていたり、ため息をつくことが多くなっている。
部活でも先輩が心配しているようで、言われてみれば、確かに元気がないような気がする。そう思って、ため息ついでに聞いてみたが、何でもないとの返事だ。
強がって他人に弱いところは見せないようにしようとしているか、それとも、本当に何でもないのか。その判断は、啓人には付けられない。
「ところで、藍川君が持ってる紙は何?」
「昨日描いた絵なんだけど、部室でコピーしようと思って」
「へえ、どんな絵を描いたの? 見てもいい?」
部室のドアを開ける直前に啓人は持っていた紙を何気なく誓子に渡す。
啓人はそのまま、部屋の中に入る。乾ききっていない絵の具の匂いが鼻をつく。
「……春近?」
自分に続いて入ってくるはずの誓子が入り口前で立ち止まっているため、啓人は振り返る。部室内には既に何名かが待っていて、そんな二人の様子を訝しく見ている。
「藍川君、……これ、誰?」
茫然自失としか言い表せない風の誓子が、目尻に涙を溜めている。
「僕も誰かは知らない。これから探そうと思うんだけど……」
ここまで来て、啓人の中で一つの推論が思い浮かぶ。今まで春近誓子・・・・というフルネームと《ちかこ》が結びつかなかった。
いや、誓子は《せいこ》と読むのではなかったか。ならば、やはり人違いか。
「……もしかして、春近の?」
それでも恐る恐る確かめると、
「どうして、おばあちゃんが……。なんで、藍川君が……?」
誓子が手に持つ紙を破れんばかりに握りしめている。そこに描かれた人物は、彼女の祖母のようだ。
「春近、一緒に来てくれ」
まだ状況が飲み込めないでいる誓子の手を強引に引く。
「すみません、今日は二人とも休みます」
部室内に声を掛けると、部長が
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