匂いおこせよ梅の花(8)

 校門を潜り、詩葉のもとへと自転車で向かう。太陽こそ顔を覗かせているが、風は湿気っていた。しばらくすると制服のシャツが汗ばんで、体に張り付いてくる。

 片手で胸元を軽く扇ぎながら、橋のたもとまでおよそ二十分でたどり着く。

 『つゆくさ』の扉を開けると啓人の来訪を知らせるベルが鳴る。だが、詩葉の返事はない。昨日とは違い先客があり、向かい合う詩葉と何かしら話し込んでいた。

 スーツを着た細身の女性は客というよりは、詩葉の友人のようだ。女性が一方的に話をしていて、詩葉は聞き役に徹している。詩葉に友人がいることが意外に思えた。

 啓人が近づくと、二人が顔を上げる。

 詩葉と話していた女性が、

「じゃあ、また来るね。詩葉ちゃん。今度はゆっくり話そう」と軽く手を振って、その場を離れる。

 啓人とすれ違う時には、

「ここ、素敵だから」と笑いかけて帰って行く。

「後にした方が良かったですか?」

 邪魔をしてしまっただろうか、と気遣うと詩葉は首を横に振り、

美空みそらさんも、お仕事がありますから」

 先ほどの美空という女性は仕事の途中で寄ったらしい。

「雑誌の編集をしていらして、お忙しいようです」

「ここにも取材に?」

「それはないと思います。父も母も画家としてはまったくの無名ですから」

 詩葉と美空の年はそれほど変わらないだろう。自分に至っては年下なのに、この人はいつも丁寧語なのだな、と啓人は思う。

「詩葉さん、僕は何をすれば良いですか」

 悠長ゆうちょうにしていると、すぐに時間が過ぎてしまう。今日は、聞けるだけのことは聞いていきたい。

「分かりました。藍川さん、よろしくお願いします。おばあさんもお待ちです」

 そもそもの発端となった老女は、館内を覚束おぼつかない足取りで目的もなく歩いている。言い方は悪いが、徘徊はいかいに近い。

「僕が見たことのある迷い言は、もっと早く消えてしまっていたのに」

 これまで視界の端に現れては消える程度がほとんどで、啓人の前に出現していたのは長くても数十分といったところだった。

「恐らく、藍川さんが迷い言を見ることに慣れていなかったからでしょう。見えなくなったように思えても、実際にはすぐ傍にいたはずです。

 これまで、ご自分が見ているものが何であるか、その正体が不明でした。しかし、私が《迷い言》という名前と意味を与えることによって、藍川さんはいわば、安心したのだと思います。だから、迷い言の方を見ることに対して不安がなくなり、慣れることができたのでしょう」

 ならば、迷い言が見え始めた頃に出会った、少年や少女たちも、まだどこかにいるのだろうか。幼い彼らは、家族のもとへと帰ることができるのだろうか。

 かつては見捨てたという認識すらないまま見失ってしまった彼らの力に、自分もなれるだろうか。

 啓人がそう言うと、

「私も同じ気持ちです。ですが、残念ながら、中には本当に消えてしまった迷い言の方もいると思います。この方も、一時的に安定しているに過ぎません」

「ちょっと待って下さい。消えるって? 迷い言は消えるんですか? じゃあ、閑香はもういないかも知れないんですか?」

 それでは、昨日と話が違う。この場所で待っていれば、いつかは閑香と会えるという話だったはずだ。

「私たちと同じく、迷い言の存在もまた永遠ではありません。彼らはいつかは消えてしまいます。

 伝え人の力で、または自分の力で本来届くべき相手に届いてから消える迷い言の方たちは、ごく少数です。多くは、自分でたどり着くこともできず、伝え人に出会うこともないまま、やがて自分の意識も、記憶も、思い出も、そして届けるべき言葉も忘れ、そして誰にも気づかれることのないまま、消えてしまいます。そうならないように、少しでも多くの迷い言を助けてあげたい。私はそう願っています」

「じゃあ、閑香はもう……」

「数年、いえ、もっと長い月日を迷い言として過ごすことは珍しくありません。だから、閑香さんの迷い言も、まだ大丈夫だと思います」

 昨日もあの事故で生まれた迷い言が二ヶ月前に、ここに来たと言っていた。ならば、まだ余裕はあるのだろうか。

「でも、自分から探しに行くことは難しいんですよね」

 いくら、すぐには消えないと言われても不安は残る。

「どうしてもと言われるのであれば、藍川さんを止めることはできません。ですが、昨日も申し上げたとおり、お勧めはしません」

 僅かに伏し目がちになりながら、詩葉が忠告する。

 ふと、もしかしたら彼女も自分から迷い言を探そうとしたことがあるのではないか、と思った。そして、失敗したのではないだろうか。

「今は、おばあさんを送り届けることを優先して頂いてもよろしいですか?」

 その言葉に異論はない。迷い言というものを知らなければ、探すも何もない。

「この方がいったい、どこの誰なのか、まずはそれを知らなくてはいけません。藍川さんにはその手伝いをお願いします」

「直接、聞けないんですか?」

「今のところ反応はありません。もっとも、ここにたどり着くほとんどの迷い言はそうなのですが」

「……閑香もそうなんでしょうか? そんな風で本当に会えるんですか?」

 老女も最後に啓人の助けがなければ、どうなっていたか分からない。

「閑香さんはこの近くでお育ちですね。近所まで戻ってきたときには、きっと自分の絵のあるこの場所に惹かれるはずです。母の絵が目印になってくれるでしょう」

「じゃあ、おばあさんも?」

「この方は事故の犠牲者でもなく、過去に母が会ったことがある迷い言でもないようです。ですが、この近くの方か、もしくは何かしら縁のある方だとは思うのです。だから露草の絵に惹かれて、ここを訪れたのでしょう。

 露草の花言葉は《懐かしい関係》です。絵を軸にして縁を結び、思いを繋げ、言葉を届ける。それが、伝え人であった母の力です。母が死してもなお、母の描いた絵は、その力を残しています」

 死してもなお、さらりと彼女は言った。

 以前の口ぶりからも察してはいたがやはり、詩葉の母親は今はもうこの世の人ではないようだ。

「ところで、藍川さんは絵は得意ですか?」

 詩葉の質問の意図を図りかねる。今の話の流れからすれば、絵が描けるかどうか、というのはかなり重要なのではないか。

「一応、美術部員です」

「それは幸いです。これも何かの縁ですね。では、おばあさんの絵を描いて下さい」

「いやいやいや、無理ですよ。確かに絵は描けますが、詩葉さんのお母さんのような、そんな不思議な力を持った絵を描くなんてできるわけがないです。僕じゃなくて、自分で描けば良いじゃないですか」

「私は絵が苦手です。似せて描くことができません」

 彼女は僅かに視線を伏せる。

「藍川さんに絵を描いて頂き、この方がどこの誰なのか探すために使いたいのです」

 要は、写真代わりだ。迷い言をカメラで写すことはできない。だから、見ることのできる人が絵に残して、それを元に身元を探す。それならば、啓人でも役に立てる。

「分かりました。やってみます」

 似顔絵は得意だ。

 詩葉が用意した画材を手にして、老女と正面で向かい合い観察する。存在感は希薄だが、しかし確かに気配はある。気配とは何かと言えば、息づかい、視線、瞬き、手や肩、頬などの微かな動き、どんなにじっとしても、隠し切れない人間の佇まいだ。

 パーマの掛かった白髪交じりの短い髪はぼさぼさしている。清潔感のある服装だが着崩れていて、厚着で時季外れは否めない。

「本当はおしゃれな方だったのでしょうね」

 化粧もしていないため、顔に刻まれた皺は隠しようもない。そのありのままの姿を、スケッチブックに乗せていく。

「お上手ですね。まるで、写真のようです」

「……そんなこともないです」

 例えば、詩葉の母の絵には到底敵わないと自覚している。美術部の中で比べても、自分の絵の評価は高くない。

 確かに、鉛筆で写真のように精緻せいちな描写ができることは一つの才能だろう。だが、それならば写真を撮れば良いだけのことだ。

 自分が描くものは、自分にしか描けない絵であるべきだ。しかし、先ほどの例に倣えば、啓人の絵からは隠し切れない《気配》というものが感じられない。写真であっても、通常は撮った人、そして撮られた対象との関係性、テーマ、感情というものが滲み出るものだ。しかし、啓人にはそれが足りない。

 だが、今の状況には関係ない。とにかく、姿を写し取れば良いのだから。

「この人に触ってみても、良いですか?」

 詩葉が頷くのを確認してから、啓人は老女の左手に軽く触れる。

 骨張った堅い手触り、皮膚はかさかさとしている。自分の祖母も手を握るとこんな感じだ。正直、その手触りは少し苦手だ。

 およそ二十分ほどで似顔絵は完成する。その間、老女はじっとこちらを見ていてた。啓人たちがしようとしていることを理解しているのだろうか。

「ありがとうございます。やはり、お上手です」

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