匂いおこせよ梅の花(7)

「つたえびと、ですか?」

「迷い言を見ることができる。さらに、彼らを本来その言葉を聞くはずだった人の許へと送り届ける。私も、微力ながらその才を持ち、そして迷い言を送り届ける役割を勤める伝え人です。私の母も伝え人でした」

 《伝える》《人》で、《伝え人》だろうと、啓人は頭の中で漢字に変換する。

「詩葉さんのお母さんって、あの絵を描いた?」

「名を梅ヶ枝真理と言います。母は自分が出会った迷い言を絵姿に留めてきました。ここに飾られている人物画の多くは、そうして母が描いたものです。

 母は特に、あの事故の後にたくさんの絵を描きました」

 あの事故。その言葉だけで啓人はそれが何を指すのか理解できる。二年と少し前に多くの犠牲を出した船上火災事故だ。

「さっきの絵に描かれているのは、僕の幼馴染みなんです」

 啓人は震える声で告げる。

「その方の名前を教えて頂けますか?」

「高森閑香です」

 その答えに、詩葉は「ああ」と短く嘆息する。

「知ってるんですか?」

「お名前だけですが」と前置きして、詩葉は話を続ける。

「母は、あの事故のことをずいぶんと気に掛けていました。何度も現場近くの海岸ひがんまで足を運んでいました。

 そこで、何人かの迷い言と出会ったようです。迷い言の多くは、亡くなられた方が最後に遺す言葉です。だから、大きな事故の後には、たくさんの迷い言が産まれます」

「じゃあ……あの絵は、閑香の迷い言だと……」

「母は彼らの姿を絵に残しました。伝え人として無事に送り届けた迷い言もいます。ですが、結局身元も分からず、惜しくも見失ってしまい、そのまま今もさ迷っているかも知れない迷い言もあります。

 報道で、被害者の方の顔と名前は分かりました。だから、あの絵に描かれた方が高森閑香さんだとは分かったのですが、住所を訪ねても誰も住んでみえませんでした。閑香さんの迷い言も、今はどこにいるかは分かりません。それ以上は、私にはどうしようもありませんでした」

「閑香の迷い言に会えば、最後に言おうとした言葉も分かるんですか」

「その言葉を聞き出すことが、伝え人の役目です」

「どうやったら、閑ちゃんに会えるんですか!?」

「今はただ、待つことしかできません。一人の迷い言の方を闇雲に探しても、広大な砂浜で手からこぼれ落ちてしまった一握の砂を、すべて拾い集めるようなものです」

「待つって、どこで?」

「この『つゆくさ』です。待っていれば、きっと閑香さんがこの絵に惹かれて訪れる日が来ます」

「本当に?」

「先にも申し上げました。ここは、そういう場所です。ここを訪れる人もまた迷い言と縁のある方です。今から二ヶ月ほど前、私はあの事故で亡くなられた一人の迷い言をここでお迎えしました。その方は無事にお友達に思いを伝えられました」

「……閑ちゃん」

 本当に会える日が来るのか。

 たとえ本人でなくとも、その姿を留め、その言葉を宿す者に。

 頭の中が真っ白になった。

 そこに見えた光は希望なのだろうか。

 それとも――。

「あなたは本当に、閑香さんに会いたいですか?」

 心を見透かすような詩葉の瞳に、啓人は視線を逸らすことができない。

「はい」

 反射的に肯定する。その気持ちに偽りはない。

「彼女の口から語られるのがどのような言葉であったとしても、大切な人の思いは知りたいものですか」

 重ねられた問いは、どういう意味か。

 答えようとした時、携帯が鳴る。家からだった。時計を確認すると既に七時を回っている。どこにいるのかという母の声。すぐに帰る、と返事をする。

「帰らないといけません。……また、来ます」

「藍川さん。明日も私を手伝って頂けますか?」

 確かに最初はそういう話だった。今もまだ、老女は二人が座る椅子から少し離れた場所で、啓人たちに空虚な瞳を向けている。

「分かりました」

 不安と期待という思いすら、まだ明確な言葉として浮かび上がらない。

 だが、閑香と再会し、その最後の言葉を知ることができるならば、詩葉の傍に居なければならないことだけは間違いない。

 外に出ると、あれほど降っていた雨は上がっていた。雲はまだ残っているが、陽が沈んで暗くなり始めた空には点々と星が散らばる。

 その数も、その光も、そのときめきも、あの日、船の上で見た夜空の星々には遠く及ばない。それでも、啓人は空を見上げずにはいられなかった。

 果たして、今日起きたことは現実だろうか。

 もし振り返り、建物があったはずの場所をもう一度見れば、夢幻のごとくに消えてしまっているのではないか。そんな畏れさえ抱く。

 不思議な女性、詩葉。さ迷う言葉、迷い言。そして――閑香。

 全ては嘘のようだ。

 結局、振り返ることができないまま、啓人は帰宅する。

 母親の追及を適当にいなし、夕食の席に着く。妹の笑未が寂しそうな顔をしていたのには、申し訳なく思う。

 自室に戻ると、もう一度夜空を眺める。先ほどよりも星の数は増えていたが、やはりあの日には及ばない。


   ◇


 翌日は降水確率も低く、晴れ間も覗いていた。

 一日中、授業に集中することができなかった。数学の時間も、古典の時間の最中も、どうしても昨日のできごとが思い出された。

 梅ヶ枝詩葉。彼女は啓人に何をして欲しいのだろう。何を手伝えば良いのだろう。それは、迷い言を救うことに繋がるのか。ひいては閑香と再会できるのだろうか。

「藍川君、まだ体調が悪い?」

 放課後になると、誓子が気掛かりな様子で寄ってくる。

「もう大丈夫。でも、部活は今日も休むから」

「今日はもともと部活はないけど」

「ああ、そうか」

 基本的な予定も忘れるほど、自分は焦っているようだ。

「どっちにしろ、急ぐから。じゃあ」

 後は誓子の返事も待たずに、教室を飛び出す。


「おっ、啓人。もう帰るのか?」

 廊下に出ると昨日と同じく巧と出くわす。なぜ、こうもタイミングが合うのだろう。最近はほとんど話をしていない。意識的に避けていることは否めない。

 昨日の閑香のことを話したら、何を思うだろうか。聞いてみたい欲求に駆られるが、信じるはずもないと思い直す。

「巧は部活?」

「今日は自主練だ」

 巧が応じた時、校内放送を知らせるチャイムが鳴る。

『生徒会副会長の入舟いりふね更紗さらささん、教頭先生がお呼びです。職員室までお越し下さい』

 更紗の名前を耳にして、啓人と巧は目を合わせる。

「我らが入舟先輩は、今日も頑張ってるみたいだ。啓人は最近、話したか?」

「全然。最近どころか、入学してからまったくだよ」

「同じくだ。学校一の秀才で副会長か。子供の頃は一緒に遊んだのが嘘みたいだな」

「昔の話だよ。それより、巧、行かなくていいの?」

「やべぇ、遅れると先輩に叱られる。……自主練なのに理不尽だよなあ」

 巧は苦笑いして、早足で去って行く。


 その巧と入れ違いのように、更紗が廊下の向こうから歩いてくる。

 生徒会の副会長を務める彼女は教師の信頼も厚い。おそらく何かと頼まれごとをされるのだろう。

 啓人とすれ違う。その際に軽く会釈するが、

「…………ふん」

 と小声で言ったきり、にこりともしない。

 長い髪を三つ編みに、度の強い眼鏡を掛け、痩せ気味で小柄な体だが胸を反らして、まるで周りを威嚇して寄せ付けないかのようにして大股で歩いて行く。

 子供の頃、真っ黒に日焼けして男子顔負けで真っ先にプールの中に突っ込んで行った少女と同一人物だとは、到底思えない。

 だからこそ、当時を知る啓人や巧をことさらに無視しているのかも知れない。


 同学年の五反田ごたんだたくみ、一つ先輩の入舟更紗、同じく一つ年上で別の学校に通っている江崎えざき純一じゅんいち、そして今はもう亡い高森閑香。

 それに啓人を合わせた五人で、子供の頃はよく遊んだものだ。小学生の時には、啓人の母の実家まで旅行をしたこともある。

 しかし、長じるに連れて次第に各々の時間、各々の趣味、各々の友人ができていく。そして二年前、久しぶりに以前のように遊びに行こうとした時に起きたあの事故を機に、すっかり疎遠になってしまった。

 巧は同じ学校、同じ学年の隣同士のクラスだから、今でも顔を合わせる。もっとも、高校に入学して以降、事故や閑香に関する話をしたことはない。会っても立ち話をする程度になっている。

 更紗は先ほどの有様で、すれ違っても挨拶すらしない。向こうが避けているようでもあり、こちらが苦手に思っているようでもある。

 彼女は閑香とは仲が良かった。あの旅行に更紗を誘ったのは、閑香だ。

 もう一人、江崎純一は違う高校で学年も一つ上だ。入学後の交流はまったくない。

 中学では巧と同じく野球をやっていて、有力選手だった。高校も甲子園出場経験もある学校を選び、野球部に入ったはずだが、これまでの二年間はその高校が甲子園に出ていない。この夏が最後となるはずだ。

 幼馴染み五人のうち一人はもう亡く、残った四人も皆違う方向を向いていた。

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