匂いおこせよ梅の花(6)

「藍川さん、聞かれましたか?」

「はい」

「この方のお名前でしょうか。そうですか? ちかこさん?」

 詩葉の呼びかけに、老女は震えるように小さく頷く。

「それとも、どなたかご家族のお名前ですか?」

 その言葉にも、同じような反応を示す。

「残念ながら、どちらかは判断しかねます。名前ではない別の意味を持つのかも知れません。ですが、この方の身元を調べる大きな手掛かりには違いありません。藍川さん、手を貸して頂けますか?」

「僕に……何ができるんですか? そもそも、何を手伝うんですか? 他にも聞きたいことが山ほどあって、何から聞いたらいいか、僕が教えて欲しいくらいです」

「そうですね。……一休みしましょう。コーヒーで良いですか?」

 啓人が大丈夫だと答えると、

「それでは、こちらに来て下さい。おばあさんも連れてきて頂けますか?」

 啓人は老女の手を引いて、詩葉の後をついていく。心なしか老女の足取りに力強さがあるようだ。

 何気なく時計を確認すると、学校を出てから、もう一時間以上が経過している。

 喫茶スペースに戻ると、少し眩しく感じる。雨は小降りになっていて、空には薄日が差している。夏至げしが近いだけあって、まだ陽は落ちていない。

「ここで少し待っていて下さい」

 その言葉に促され、四組あるテーブルの一つに座ると、じきに詩葉が戻ってくる。

「苦いかも知れませんが、最初は何も入れずに飲んでみて下さい」

 トレイに二つのカップが乗っている。詩葉はそのうち一つを手慣れた手つきで啓人の前に置くと、自分も椅子に腰掛ける。

 背もたれに体重を預けると、思わず深い息を吐いた。自分が思っていた以上に、気を張っていたようだ。

 目の前のコーヒーからは良い匂いがしてくる。

 一口飲んでみると、確かに苦い。もともとコーヒーは飲み慣れているわけではなく、たまに飲むときは砂糖とミルクを入れるのだが、ブラックだとこんなものだろうか。

「いかがですか?」

「苦いです」

 素直に答える。匂いは独特で香ばしい。丁寧に煎られた豆を使っているようだ。

 最初はただ苦く思えたが、喉を通過する時、ほのかな甘みを感じた。

「お口直しにどうぞ」

 小腹が空いていたところだ。一口サイズのチョコレートの口に入れると、溶けるような甘みが広がる。

「後はお好みでお召し上がり下さい」

 その言葉に甘えて、多めに砂糖とミルクを入れてかき混ぜる。スプーンがカップの縁に当たり、からんという音が響く。

「どうぞ、ごゆっくり」

 再度コーヒーに口を付けると、当初の苦みは薄れ、ミルクのマイルドさが相まって、香ばしさが口内に広がる。口当たりがこれまで飲んだことのあるインスタントとはまったく違う。

「酸味があって、さっぱりします」

「気に入って頂けると嬉しいのですが。少しは落ち着かれましたか?」

「はい」

「私も順を追って説明すべきでした。何分、このようなことは初めてなので」

 改めて啓人と目を合わせる。その奥に映るものを確認しようとしているようだ。

「藍川さん、見えるようになったのは、まだ最近ですか?」

「この春からです」

 まずは、啓人がここを訪れることになった経緯を説明する。

 うずくまっている老女を見かけ、一緒に来たこと。背負った際にも《ちかこ》という言葉を口にしていたこと。

「そうですか。藍川さんが背負った時にも……」

「どういう意味があるんでしょう?」

「まだ、分かりません」

 詩葉は首を軽く振ると、

「ここまで連れてきて下さったことに、あの方に代わって感謝します」

「おばあさんは、ここが目的地だったんですか?」

「おそらく」

 詩葉には理由が分かっているようだ。だが、相変わらず啓人には何も分からない。

「さて、何からお話ししましょうか。何からご説明するにしても、まずは《迷い言》のことからにすべきでしょう」

「まいご……ですか?」

「はい。迷い言です。迷う子供ではありません。迷う言葉と書いて、迷い言です」

「幽霊みたいですけど」

 啓人は老女の立つ方に目を向ける。啓人は内心で《影》と呼んでいたが、消えては現われる、その存在は幽霊と呼ぶにふさわしいかも知れない。

「幽霊、確かにそう思われるのが当然でしょう。ですが、私たちはあの方たちを幽霊、霊魂れいこんとは違う、言葉の迷子、《迷い言》と呼んでいます」

「言葉の迷子? ……意味が良く分かりません」

「藍川さんは、言霊という言葉をご存じですか?」

「言霊、ですか?」

「はい。言葉の御霊、言葉の魂、つまり言霊です。言葉には魂が宿る、という考えが古くからあります。身近な例ではみ言葉というものがあります。受験生に向かって、落ちる、滑る、散るという言葉を使ってはいけない、と言われませんか?」

縁起えんぎが悪いからですね」

「その縁起が悪い、という考え方が言霊の一種と言えます。たとえ直接的に受験に落ちるという話をしなくても、階段から落ちる、床で滑る、そして桜が散る、そのような言葉を口にするだけでも良くないとされる。

 口にしたことが現実になり得る。それだけの力が言葉には宿っているのです。

 古くは『万葉集』にも山上憶良やまのうえおくらが『神代かみしろより らく そらみつ 大和やまとの国は 皇神すめかみいつくしき国 言霊ことだまさきはふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり』と贈っています。大和、つまり日本は言霊によって幸いがもたらされる国だと言っています」

 すらすらと語られる詩葉の知識に、啓人は気圧される。自分も本を読むことは嫌いではないし、それなりに物を知っているつもりでいるが暗誦あんしょうまでは難しい。

「詩葉さんはさっき、和歌を読んでましたが、あれにはどういう意味が?」

《東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主無しとて 春な忘れそ》

 あの歌を詩葉が読み上げた時、春の匂い、風、気配を啓人は確かに感じた。まるで、詩葉自身が春を運んできたかのように。

 あれも言霊の一種だろうか。彼女の言葉に力が宿っていたように思えた

菅原道真公すがわらのみちざねこう太宰府だざいふ左遷させんされる時にんだ歌です。道真公はご存じですか?」

「天神様ですね」

 菅原道真は平安時代の貴族で、書や和歌に優れた学者でもあり、また当時の天皇に重用された政治家でもあった。だが、それを政敵に妬まれ、讒言ざんげんを受けてついには今の福岡太宰府に流刑となってしまう。死後は怨霊となり、そのたたりを恐れられた。今では天神様、学問の神様として全国で祀られている。

 そのような説明をすると、

「藍川さんは、良く勉強をされていますね」

「本が好きだった友達の影響で身に付いた程度です。詩葉さんには敵いません」

 啓人は一人の少女の顔を思い浮かべた。

「道真公は住み慣れた自宅を離れる時に、でていた庭の梅の木に別れを告げた歌を読みました。春になって東の風が吹いたなら、太宰府までその香りを届けて欲しい。自分がおらずとも、春を忘れないように。そう思いを込めたのです。そして、福岡県の太宰府天満宮には、主を追って飛んできたという飛び梅が今も残っています。私もこの伝説にあやかりたい。そのためのおまじないです」

「おまじない?」

「はい。これは私が迷い言の方たちに最初にお贈りする言葉です。私はきっと、あなた方を無事に送り届けてみせます、たとえどれほど離れていても、思う人への許へと至った梅のように、という意思表示です」

「誰に送り届けるんですか? そもそも、迷い言って何なんですか?」

「迷い言とは、誰かが発した言葉です。思いや願い、祈りといった強い力を持った、でも本来それを聞くべきはずだった人へと届かなかった言葉なのです。届けられなかった彼らは、その人の姿をして、さ迷い続けているのです」

「………………」

 信じがたい説明に、啓人は返すべき言葉を見つけられない。

「藍川さん、私は《つたびと》です」

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