匂いおこせよ梅の花(4)
やっぱり、閑ちゃんは自分を待っていたのか。
背後から掛かったはずの声は、目の前の少女から聞こえたような気がした。
「申し訳ありません。お構いも致しませんで。二階で呼ばれたと思ったのですが、やはり気のせいでした。物を落として、片付けていたせいで遅れてしまいました」
続けられる言葉の主は女性だった。
「あ、ああ、いえ、いや、閑……」
頭では分かっている。この声は閑香ではない。
しかし、心がいまだ惑っている。だから振り向くことができない。
この均衡を僅かにでも崩したら、目の前の閑香が後ろの彼女もろとも消えてしまうのではない。そんな気がしてしまったからだ。
「その絵がどうかされましたか?」
「え……絵?」
言われてみれば当たり前だが、啓人の前にあるのは一枚の絵だった。
決して死者が甦ったわけではない。
そのことに、ほっとする。
だが、描かれている少女が閑香にそっくりなことに間違いはない。
その目、その鼻、その髪、その唇を忘れるわけがない。啓人たちが通った中学校の制服を身に着けている。白のカーディガンは着ていない。海の底に沈んでいるからだ。
彼女は遠くを見つめていて、どのような思いを抱いているのかは窺い知れない。
「大丈夫ですか? ご気分が優れませんか?」
まだ顔も知らぬ女性の声が、背後から問い掛けてくる。大丈夫。自分の記憶にある閑香の声ではない。そう言い聞かせてから、
「これは誰なんですか?」
啓人はようやく絵から視線を引き剥がし、後ろを振り返る。
学校を出てからそれほど経っていないはずなのに、ずいぶんと久しぶりに他人の姿を見たような気がした。
立っていたのは、一人の美しい女性だった。
啓人よりも三つ、四つ年上だろうか。落ち着いた風柄で、啓人を悠然と見つめている。女性にしては背が高い。啓人より少し低いが、百七十センチは越えている。
柔らかく波打つ髪の毛は、夕焼けの茜色を混ぜ込んだように赤みがかっている。光の加減でも染色でもなく、地毛のようだ。
くっきりとした目鼻立ち、細い目の奥には色素の薄い琥珀色をした瞳が覗く。血管が透き通るような白い肌から見て、外国の血が流れているのかも知れない。
しかし、彩りのある顔立ちをしているにも関わらず、その表情は陰影に乏しい。
まるで、彼女自身が先ほどの絵に感じたように《影》であるかのように思え、啓人はしばし言葉を失った。
「もしかして、この絵に描かれている方をご存じなのですか?」
その《影》が、問うてくる。
「はい」
戸惑いながらも、啓人は彼女の言葉に大きく頷く。
「あの……勝手に入ってすみません。開いていたもので……つい」
「構いません。ここは来る者は拒まない場所です。お待ちしておりました」
ここでようやく、彼女が目を細め、表情に僅かに笑みが灯る。その微かな変化は、啓人を安心させた。
「さっきも言いましたよね。待っていたって……僕のことを知ってるんですか?」
「いえ、存じ上げません。ですが、ここを訪れる方の多くはこの場所を必要とされる方です。おそらく、私がお力になれることがあるでしょう。だから、初めての方でもそう申し上げることにしています」
聞けば、おかしなことではない。だが、啓人が最初に受けた衝撃が薄れるわけではない。いまだ謎めいた彼女だが、まずは目の前の絵のことだ。
「それで、この絵のことを聞きたいんですけど」
「申し訳ありません」
彼女は啓人の言葉を遮る。眉間に
「私もこの絵に描かれている方のことをお聞きしたい。また、私の知っていることを教えて差し上げたいのですが、少し待って頂けますか。その前に一つだけ、確認します。この方は、もしかしてあの事故で?」
その質問だけで、啓人は彼女の意図するところを理解する。
「はい」
「そうですか。この絵は、私の母が遺したものです」
遺した。その言葉の意味が気になるが、彼女は啓人を制す。
「これから、少しおかしなことをすると思われるでしょうが、どうか気にしないで下さいませんか」
「おかしなこと?」
「独り言を呟いたり、何もないところに手をかざしたり。そのようなことです」
確かにおかしいが、前もって言われていれば心構えもできる。
「それでは」
と、彼女は啓人の右後ろに向かって歩き出す。先ほど、じっと睨んでいた辺りだ。
自然と啓人もその後を追って、視線を動かす。
「えっ!?」
声をあげた啓人に、彼女が顔を向ける。二人の目が合う。
女性の前には、啓人がこの建物の前まで連れてきた老女がいる。いつの間にか消えてしまっていた、あの老女だ。
明らかに、彼女には老女――《影》が見えていた。
「そうですか。あなたにも、見えるのですね」
彼女もまた啓人も老女を視認していることに気づいたようだ。
女性と《影》の老女、どちらを見たら良いか啓人は迷う。説明を求めようと、啓人は口を開きかける。彼女もまた何か言いたげにするが、その時間は一瞬で、彼女は老女の方へと近づく。その一挙手一投足に、啓人は目を離せないでいた。
「こんにちは。私は
詩葉。そう名乗った彼女は腰を屈めて老女と目線を合わせ、言い聞かせるように話しかける。
これまで、啓人が彼らと意思疎通を図れた例しはない。果たして、詩葉ならばそれが可能なのだろうか。
だが、老女はなんの反応も示さない。
どこを見ているのか、何を考えているのか。ただ、眉根を下げた悲しそうな顔をしたまま、詩葉の声も聞こえていないのか、ぼぅっと立っている。
詩葉が啓人の方を向く。
「私は梅ヶ枝詩葉と申します。失礼ですが、あなたのお名前を教えて頂けますか?」
「藍川です。藍川啓人」
「お願いがあります。藍川さん、少しの間この方から目を離さないで下さい」
言い残して、詩葉は場を離れる。
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