匂いおこせよ梅の花(3)

 老女が声を発したのは、ちょうど一軒の建物の前だった。

 周りの古民家と異なる洋風の佇まいで、比較的新しい乳白色の壁が目立つ。こじんまりとした二階建ての建屋は、落ち着いた雰囲気で不思議と周囲に溶け込んでいる。

 重厚な木の扉の向かって左隣には、ガラス張りの小さなショールームがあり、客を迎えるように一枚の絵が飾られている。小さな青い花をいくつか咲かせた綺麗な絵だ。

 視線を上に向けると『つゆくさ』というこちらも木造の看板がある。

 ということは、この絵に描かれている花が露草なのだろう。草花には詳しくないが、言われてみれば確かに朝の露のように儚げに見える。

 二階部分はカーテンが閉まっていて中をうかがい知ることはできないが、建物の持ち主の住居だと思われる。

 もう一度、露草つゆくさの絵に目を向ける。

 油絵の具で描かれた三輪の可憐かれんな青く小さな花。大きな二枚の花弁を開き、頭を垂れるように咲いている。萌葱色もえぎいろをした数葉と鮮やかな青い色の花。それだけが描かれたシンプルな絵だ。

 どんな場所に咲いているのか。描かれた時の天気は。そんな情報は一切含まず、見る者の感性に委ねられている。

 この絵を描いた人の他の作品も見てみたくなる。

 絵の片隅にはアルファベットでMのサインがある。イニシャルなのだろうが、やはりなんの情報も提示されていないに等しい。

 背中に微かな重みすらない。

 ここに至ってようやく、啓人はその事実に気づく。老女は姿を消していた。安堵よりも寂しさが先に訪れた。そして、もう少し何かできたのではないかと悔やむ。


 目の前の家屋が気になった。もしかして、老女は中にいるのではとも思う。

 内部の様子は分からないが、店名らしき看板が出ている以上は店なのだろう。入って拒まれるということはないはずだ。持ち合わせも幾らかはある。

 きしむ扉を開けると、ガランと湿ったベルの音が啓人を出迎える。

 背後から激しい雨の音が聞こえる。運良くと言うべきか、入った途端にさらに雨脚が強くなり始めたようだ。

 橙黄色とうこうしょくの灯りに照らされた屋内は明るいが、人の気配はない。啓人を迎える声もなく、雨音がやけに強く響いてくる。

 手前半分の空間には四組の机と椅子が並んでいる。喫茶店のようだ。

 残る奥のスペースは壁で仕切られていて一望はできない。壁の上部に隙間があり、そこからも灯りが漏れている。仕切りの右側には内へと続く入り口がある。扉はなく、自由に入っても良いようだ。 

 だが、店員もいないのでは、まるで不法侵入だ。このまま留まって良いものかどうか、啓人は逡巡する。

「ごめんください」

 大きめの声を何度か掛けるが、やはり反応はない。

 帰ろうかとも思うが、しかし壁面に飾られている絵が気になる。

 喫茶スペースの左右と奥の壁三面には、合わせて九点の絵が飾られている。

 見た所、表の絵と同じ作者のものが五点、それ以外の人物によるものが四点だと思われた。それぞれ特徴は違うが、どちらも遠目にも良いものだと思う。

 咎められた時はその時だと啓人は決意して、引き寄せられるように絵に近づく。

 作者のうちの一人は思った通り、表に飾られていた露草の絵を描いた人物で、Mのサインを残している。五点のうち人物画が三点、静物画、風景画がそれぞれ一点。

 人物画の対象、その背景はバラバラで統一感はない。

 描かれている表情は一様に乏しく、しかし僅かな陰翳の差からモデルとなった彼らの思いを覗き見ることができるような気になる。

 果たして、彼、彼女らは何を思うのか。それもまた、見る者に委ねられている。

 啓人は先ほど見かけた老女のこと、そして時折見る《影》のことを思い出す。

 絵に描かれた人物は、あの《影》に雰囲気が近い。見ていて心を揺さぶられる。不安になる絵だ。

 深い森が描かれた風景画、テーブルの上に置かれた数冊の本を描いた静物画からも同じ印象を受ける。

 もう一人の作者は、朗という字を四角く囲ったサインをしている。サインの漢字から察するに男性だろうか。繊細なタッチの風景画ばかり四点だ。

 日本のどこかにありそうな里山、都会の街角の一風景、戯れる親子の猫、など明るい雰囲気で啓人の好みとしては、こちらが合う。

 一通り絵を眺めると、次は奥へと続く入り口が気になる。覗き込むと、回廊になっていて、やはり壁際に絵が飾られている。展示スペースとなっているようだ。


 そちらへ歩みを向けようか。だが、誰もいないのにさらに奥に入ることはさすがに気が引ける。

 やはり、帰ろうか。

 そう思った時、静かな店内にがたり、と大きな音が響いた。

 驚いて顔を上げるが、誰もいる気配はない。天井、つまり二階からの音のようだ。

 帰るなと言っているようだと、なぜか思えた。

 結局、啓人は先へと進む。

 喫茶スペースよりもわずかに明度が落ちており、橙色の光の下、より落ち着いて絵が見られるようになっていた。

 展示されているのは、やはり先の二人の手によるものだが、朗のサインがされた絵の方が多い。

 明朗な印象を受けるその絵が何点か続いたあとに、Mのサインの絵が現われると、その雰囲気の違いに、より心がざわめく。

 一つ一つの絵の前で立ち止まりながら、ゆっくりとした足取りで歩いていると、こつ、こつという雨だれが打つような自分の足音が、少し後ろを追いかけてくる。

 いよいよ、最後の一角の絵を見終えるという段になる。

 その絵がその場所に配置されているのは、ただの偶然だ。

 海を臨んでいる。手前に砂浜。遠くには灯台、そして奥に広がる海は暮れゆく夕空を映し込み、ほのぐらい印象を受ける。

 この風景に啓人は見覚えがある。

 啓人の祖父母が住む東北の町の海だ。幼い頃に五人で遊んだあの浜だ。

 彼女が眠る、あの海だ。

 そして――そこには、あの日と変わらぬ姿の彼女が立っていた。

 高森閑香。

 二年前の春に亡くなったはずの幼馴染み。

 どうして――閑ちゃんが、ここに。

 啓人の視界が、一瞬ぐらりと揺らぐ。

 そうか、彼女も《影》か。

 それでも良い。会いたかった。

 《影》を見るようになった春先から、心のどこかで願い続けていたはずだ。

 いつか、彼女と会えるのではないか、と。

 だが、会って――どうすれば良い?


 謝る?

 助ける?

 手を掴む?

 そうだ、手を――。

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