匂いおこせよ梅の花(2)
この先の坂を越えて橋を渡れば、自宅まではもうすぐだ。
頭痛はいつの間にか治まったが、今朝に見た夢の
北から吹いてくる風が、雨の予感を帯びた匂いを運んでくる。降り始める直前に漂う赤土や草の匂いの混じった、あの香りだ。
水気を含んだ空気が体にまとわりつき、ペダルを漕ぐ足まで重たく感じてしまう。
思わずため息をつく。
折悪しく、雨が降り始めた。空を覆う黒雲から、最初の一滴が鼻先に落ちてくる。
視界の端に違和感があった。
そこには、一人の老女がうずくまっている。
ああ、また――《影》が見える。
年の頃は七十歳といったところか。祖母と同じくらいだろう。
白髪交じりの髪は手入れがされていないようで、ぼさぼさだ。着ている服はさっぱりとしているが、六月なのに厚着をしているせいでちぐはぐに思えてしまう。
膝を抱え、ぼぅっとした顔で道ばたに座り込み、中空を見つめている。
道を行く人たちは顔に当たる雨をどうしたって気にするというのに、彼女はそうする素振りがない。
雨に溶けてしまいそうなほど、その存在は
この春の初め頃から、啓人はときおり《影》を見るようになっていた。
《影》の形は、少年少女、中年の男性、老人と様々だ。
彼、彼女たちは一見すれば生きているようにしか見えない。しかし、啓人以外に彼らが視認できている様子がない。
例えば、道の真ん中で泣いている少年がいる。まだ小学校に入る前だと思われる幼い子供だ。親とはぐれたか、転んでしまったか、大切なおもちゃでもなくしたか。
しかし、誰一人として、ちらりとそちらを見ることすらせずに、すぐ横を通り過ぎていく。啓人は若干の憤りを感じながら、少年に話しかける。
しゃがみ込んで、彼と同じ目線で声をかける啓人を、隣を行く女子高生がいぶかしげな目で見たことに気づいて、戸惑ってしまう。
少年は泣いてばかりで、何を聞いても答えはない。
周りには保護者の姿も見当たらず、近くの交番に連れて行こうと手を引くが、しばらく歩くうちにいつの間にか姿がない。
慌てて、周囲を探してみても、もはやどこにも少年はいない。いたという
見間違いだとしたら、おかしくなったのは啓人だ。手を握った時の感触を忘れるはずもない。しかし、彼らは啓人以外の者には見えていない。
啓人も常に彼ら《影》の姿が見えるわけではなく、たまに見えることがあるという程度だ。だから、急に見失ってしまう。
《影》とは意思疎通が図れない。さめざめと泣いていたり、聞き取れないような独り言を呟いていたり、黙ったままだったり。およそ表情や感情に乏しい。
こちらから話しかけても、何かしらの反応があるわけでもない。
幽霊かとも思ったが、特に怖いとは思わなかった。まるで誰かが置き忘れた《影》だけがそこにあるようにひっそりと、ただ悲しそうにしている。
関わり合いにならない方が良いことは分かっている。
他の人には見えていないのだから、啓人が一人で声をかけても傍目にはおかしな人にしか見えないということも分かっている。
それでも、泣いたり、困っているような彼らを放っておくことは心苦しい。
道ばたや空き地で小さな猫を見かけた時と同じような気持ちになる。
どうか元気で過ごして欲しい、と祈る以外に自分には何もできないこともまた分かっている。
それでも、結局――啓人は何もしないという選択肢を選べない。彼らが猫と違うのは、その姿が人と同じという点だ。
今日もまた、啓人は自転車から降りて老女の《影》に近づく。
「どうかしましたか」
うずくまったままの老女は視線こそ啓人の方を向いているが、自分を認識しているとはとても思えない目つきだ。
当然、返事はない。
いっそ、すぐに消えてくれれば、それはそれで諦めもつくのだが。
これまで啓人が声を掛けたことのある数人の《影》たちは、最終的には見失ってしまっていた。彼らのその後を啓人は知るすべもない。
いま、たとえ人ではないとしても、路上に座り込み、雨に濡れる老女を置いて行くことは啓人にはできなかった。せめて、消えてしまうまで見守ろう。
雨は、さあさあと降り続く。
左手で老女に傘を差し掛け、しばし啓人は立ち尽くす。
雨粒が半袖から覗く右腕にかかり、水滴が指先へと伝っていく。
しばらくそうしていると、老女は緩慢な動作で腰を上げる。立ち上がると、今度はよたよたと歩き始める。
啓人は自転車を端に寄せて鍵を掛けると、その後をつける。
老女が歩いて行く先は、橋のたもとから脇へ入ると続く古い街並みだ。まず左に折れて、永瀬川の堤防を右手に見ながら歩いて行く。
道はさらに左へとカーブをしていて川からは離れていく。この辺りは昔からの家が並んでいる。
犬を連れた中年女性が傘を差しながら向こうから歩いてくる。女性はもちろん柴犬も老女に気づく様子はない。
啓人には馴染みがない場所だ。通学路からは外れ、遊び場でもなかった。
前を行く老女は、この街並みを知っているのだろうか。足取りは這うようにゆっくりだが、歩き方に迷いはないように見える。
日本家屋を基調とした住宅と店舗が混在した街並みには
啓人が後ろからついてきていることに気づく様子もなく、老女はそれらの店には関心を示す風もなく、歩みを進める。
十分ほど歩いただろうか。
普段の啓人の足ならば五分と掛からないだろうが、速度を極端に落として歩くことは存外に疲れるものだ。
老女は立ち止まると、再びうずくまってしまう。
もしかして、これまでずっと、こうして歩いてはうずくまり、歩いてはうずくまり、を繰り返してきたのだろうか。
彼女はどこから来て、どこへ向かっているのか。目的地があるのだろうか。
啓人は、そこで自分でも思いがけない行動に出る。
老女を背負ったのだ。なかば強引に、しゃがみ込む老女を背中に乗せる。
重みはほとんど感じないが、ないわけではない。小さな子供くらいだろうか。服の上から分かる感触はどこかふわりとしているが、指先には確かに温もりも覚える。
「こっちで良いんですか?」
これまでの短い足取りからも、この一本道を先に行こうとしていたことは明白だ。
答えはないが、啓人はそのまま進む。
老女の息づかいを、耳元に感じる。まるで、生きているみたいに。だが、そうではないこともまた、啓人は知っている。
どこまで歩くべきなのか。啓人が戸惑い始めた時、老女が吐息以外の反応を示す。
《ちかこ》
初めて聞いた彼女の声は、胸の奥から絞り出すような微かで弱々しいものだった。
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