匂いおこせよ梅の花(1)

 彼女の夢を見ていた。

 忘れたつもりになっていても、夢というやつは隙を突いて無防備な心を容赦なく削ってくる。

 目が覚める直前、

『ずっと、待ってるからね』

 彼女が、そうささやいたような気がした。


 低気圧のせいか、学校に着いて授業を受けている間もずっと頭が痛かった。

 放課後になっても、その痛みは治まらない。

「藍川君、部活に行こっか」

 ゆっくりと席を立つ啓人に、春近誓子はるちかせいこが声を掛けてくる。

「悪いけど今日は帰るよ。あまり体調が良くないから」

「大丈夫?」

「頭痛だけだから、大したことはないよ」

 入梅にゅうばいからしばらく経ち、雨の日が多い。今日も朝から雲が低く垂れ込めていて、そろそろ降り出してもおかしくない空模様だ。できれば早めに帰りたい。

「あたし、家まで送ろっか?」

「心配は要らないから。方向も全然違うし」

「それはそうだけど……」

「春近は早く部活に行った方がいい。副部長が遅れるわけにはいかないだろう? 僕のことは上手く言っておいて」

「分かった。じゃあ、お大事に。まっすぐ帰って、すぐに休まなきゃダメだよ!」

「ああ。また、明日」

 啓人が小さく手を振ると、誓子はまだ少しためらう様子を見せたが、結局「また、明日」と返事をして、教室を出て行った。

 しばらく待ってから鞄を持って、廊下に出ると、

「おっと! よう、啓人」

 隣のクラスから出てきた巧とばったりと顔を合わせる。

「不景気そう顔してるけど、大丈夫か?」

「大丈夫。心配ないよ」

「春近さんは、部活行ったみたいじゃないか。一緒に行かなくていいのか?」

「今日はいいんだ」

「そうか。……じゃあ、またな」

 細身ながらも、がっちりした巧の後ろ姿を見送る。巧は野球を続けている。雨が降りそうな時でも基礎トレーニングなどやることはいくらでもあるのだろう。

 授業の後に、まだ続けて体を動かす。運動にすっかり縁がなくなった啓人には、ちょっと想像ができない。

 靴を履き替え、自転車置き場に向かう。暗い雲が空を覆っていて、いつ水滴が落ちてきても不思議ではない。降り始めれば、一気に強くなるだろう。

 啓人は自転車を漕ぎ始め、湿り気を帯びた風を受けながら、帰途につく。


   ◇


 啓人の住む宗宮市そうみやしは、古い歴史を持つ地方都市だ。歴史と言えば聞こえは良いが、要は適度に開発されて、そして適度に廃れ始めている、昨今どこにでもあるような一都市に過ぎない。

 市内の真ん中を横断するように永瀬川ながせがわが流れる。その中流にそびえる標高三百メートルを越す金宝山きんぽうざん、その頂に建つ宗宮城そうみやじょう、この三点セットが市の象徴であり、市の歴史を物語ってきた。

 啓人の住む家は、その永瀬川の北側にある。

 彼の通う菊水きくすい高校は川の南側に位置していて、毎日自転車で通っている。所要時間はおよそ二十分と言ったところだ。

 川を越えるためには、当然橋を渡らなければならない。それなりに大きな川に架かる橋は、やはりそれなりに大きく、上りも下りも坂の勾配こうばいがきつい。

 そこを自転車で進むのは、下りはともかく、上りは結構体力を使う。

 通学にはバスという手段もあるのだが、登校下校時間とも車内は混雑し、それもまた体力を使う羽目になる。同じ疲れるなら、自転車で通う方を啓人は選んだ。

 橋を渡るとき、清流を眼下に見る。四季折々しきおりおりで異なる様子を見せる永瀬川の流れと、そこから視線を上げると飛び込んでくる金宝山の趣深おもむきぶかい緑は、時間にすればほんの一、二分のことだが、登下校中の一服の清涼剤となる。

 梅雨つゆのこの時期は水量が多く、前夜に雨が降った時などは濁流と呼べるくらいの速い流れになることもある。

 啓人の生まれは東京だ。父の仕事の関係で幼い頃に宗宮市に越してきた。

 だから厳密には生まれ故郷というわけではないのだが、啓人はこの町が好きだ。

 確かに、昔は繁華街だと言われた通りはシャッターが閉まった店が目立つ。主立った産業も衰退してしまった。今は隣県の大都市・鳴海市なるみしのベッドタウンとなっている。

 だが、適度に交通の便が良く、適度に遊びに行ける場所があり、そして適度に自然が残っている町は過ごしやすい。

 もっともクラスメイトの中には卒業して、一刻も早く東京に出て行きたいと思っている者も少なくない。

 啓人の将来はまだ分からないが、たとえ大学は県外に出るとしても、また地元に帰ってくるのも良いのではないかとは考えている。

 菊水高校は県内でも有数の進学校で、金宝山のふもとに建つ由緒ある県立高校だ。由緒あるということは言い換えれば古い、ということだが、耐震工事も済んだばかりで、南側に大きく窓が配置された校内は明るさに満ちている。

 その眩しさに、ときに目が眩みそうになる時もあるが、まず大きな不満はない。

 クラスメイトとは適度な距離を保ち、放課後は所属している美術部で絵を描く。今日は体調不良でさぼってしまったが、それが啓人の日常だ。

 取り立てて、大きな波はない。目立たず、静かに、魚のように過ごす。そのような生き方を選んできた。

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