こころはいま

 藍川啓人あいかわけいとは、夜の船上に立っている。

 青く広がる昼の姿とは違って、夜の海は深い闇を思わせる。

 覗き込んだが最後、奥へ奥へと吸い込まれ、底のない果てまで落ちていきそうだ。

 久しぶりに幼馴染おさななじみの五人が揃って思い出の場所に出かけるというのに、なぜか嫌なことを想像してしまい、啓人は慌てて視線を空に向ける。

 そこには無限の星空が広がっている。

 しばしの間、船上にいることを忘れて、首が痛くなるくらいに空を見上げていた。

 時折、風がひときわ強く吹く。晴れてこそいるが、強風、波浪注意報が出ている。

 びゅうびゅう、と低い音を立てる夜風が啓人の背後からしおの匂いを運んでくる。

 その三月の風が、彼女の気配をもまた彼の許へと届ける。

「春の海、ひねもすのたりのたりかなって言う歌があるけれど、今夜はそんなのどかな感じじゃないよね」

 背中から掛かる声。

「啓くん、見いつけた」

「閑ちゃん、僕のこと探してたの?」

 もうすぐ中学三年生になるというのに、一つ年上の女子のことをちゃん付けで呼ぶことに抵抗がないわけではないが、幼い頃からのくせは治らない。

「星、凄いね。船旅って最初は不安だったけど、良かったよ。啓くん、ありがとう」

 その問には答えず、微笑み返す彼女――高森閑香たかもりしずかの横顔を、啓人は見つめる。

 彼女はとても、大人っぽくなった。閑香はじきに高校生になるのだ。

 幼かった頃の面影を目元や口元に残したまま、しかし、こうして息が掛かるほどの距離から眺める閑香の横顔は、確かに少女から女性へと近づいていた。

 読書を好む涼やかな瞳は、今は夜空の星々を映す。子供の時は短かった髪は、今は肩よりも長く伸び、強い風が吹くたびに激しくなびく。

 その髪を抑える細くしなやかな指、すぅっと通った目鼻、ほっそりとした顎のラインに見とれそうになる。

 記憶に残るあどけない子供の顔はおよそ失せて、今ではすっかり大人びて見える。

 常ではない場所、常ではない時間、常ではない状況が見せる幻だろうか。


 星を見る閑香。

 その閑香を見る啓人。


 幼い頃、閑香も含めた五人で毎日のように日が暮れるまで遊んだのも、遠い昔のことのように思える。

『お前なんて嫌いだ。本ばっかり読んで、つまんないやつのくせに』

 あの時のことを思うと、今でも啓人は胸が痛む。

 たとえ何か事件がなかったとしても、年頃の男女がいつまでも無邪気に仲良く過ごし続けるはずはない。遅かれ早かれ、疎遠になることは避けられなかっただろう。

 分かっている。しかし、そのきっかけを自分が作ってしまったことは間違いない。

「子供の頃は星の声が聞こえた気がしない?」

 閑香は空を見上げ、その瞳に星を映したまま問い掛ける。

「すっごく、たくさん聞こえたよね。私たちにしか聞こえない声。瞬く星がお互いにおしゃべりしてるみたいに。……あの頃は本当に聞こえたんだけど。なんかね、昔のことほど、良く覚えている気がする。……どうしてかな」

「僕たち、まだ中学生だけど」

「私はもうすぐ高校生になるけどね」

 啓人と閑香は一歳違う。

 子供の頃はその差をなんとも思わなかったが、中学校に入ってからの一年という差は大きい。学年が違えば、学校生活の中で会う機会は極端に減る。

 この先、中学と高校に分かれてしまえば尚更だ。

 幼馴染みという枠組みでいられるのは、この旅行が最後かも知れない。

 二人だけでなく、一緒に来たたくみ純一じゅんいち更紗さらさ、皆がその予感をしているだろう。

明月学院めいげつがくいんって、お嬢様学校だよね。大丈夫? 読書家って言う点はお嬢様っぽいけど、言葉遣いはいい加減だから心配だよ」

「仕方ないことではございませんか。お嬢様ではありませんのですもの。……こんな感じかな?」

「なんか違う気がする。……それにしても、もう高校生、か」

「行ければ……いいんだけどね」

 呟いた閑香の言葉は、夜風に流されて啓人のもとには微かにしか届かなかった。

「啓くん、進路はどうするの?」

「まだ決めてない。巧は純一と同じ高校にするんだろうな。更紗……先輩は菊水だったよね。頭、良いからな」

「じゃあ、啓くんも菊水かな。……そうだ、私と同じ学校はどう?」

「いやいや、絶対に無理だから」

「女装する?」

 苦笑いする閑香が、不意に身を震わせる。制服の上に羽織った淡雪色あわゆきいろのカーディガンの前をぎゅっと合わせて、夜気を防ごうとする。

「大丈夫? さすがに寒いね」

 今日は三月の彼岸ひがんだ。暑さ寒さも彼岸まで。これから暖かくなるはずの時期だが、風が強いせいか上着を羽織っていても肌寒い。

「海の真ん中にいるんだから、寒いのは当たり前だよね」

 閑香の長い髪が、強風に揺れる。白い肌に浮かぶ淡い桃色の唇がなめらかに動き、啓人に言葉を伝える。

「もし、ここから飛び込んだら……魚になれるかな」

 閑香は時折、自分自身を魚に喩えることがある。

 啓人の脳裏に一瞬、大海を目の前にしながら岩の囲いに阻まれた哀れな魚の姿がよみがえった。

 その幻影を払うように小さく首を振ると、

「閑ちゃんは公園の水族館が好きだったよね。あゆ糸魚いとよの水槽の前で、ずっと動かなかったような」

「ちっちゃくて、透き通るみたいな体の色が綺麗だったなあ。啓くんはオオサンショウウオが好きだったよね」

「……そうだったかなあ。あの水族館も、なくなってもう何年になるかな」

「懐かしいね」

 閑香は息を吐くと、見えるはずのない海面を覗き込もうとするように背を伸ばす。

「魚も眠っているのかな。川の魚もいいけど、なれるとしたら海の魚だな。海は深くて、暗くて、静かで、穏やかで。夜の海の底でずっと、ずっと夢を見ながら眠っていたい。そうしたら、夢の中で啓くんに会いに行こうかな」

「ねえ、閑ちゃん。何かあったの?」

 啓人は堪らずに口を開く。彼女の言葉はいつにもましてはかなく、消え入りそうだ。

「何もないよ。今は、まだ何もないの。そうだ。私が海の底で眠る魚になったら、啓くんは大風おおかぜになって迎えに来てくれる?」

 閑香の顔はどこか夢見がちで、すぐ傍にいるのに触れられないほど遠くにいるようで、でも優しくて静かで穏やかで、頬に触れたらきっと柔らかいのだろうと思わせる。それは、自分が好きになった閑香の表情だった。

「きっと、迎えに来てね」

 閑香が繰り返す。

 一定のリズムで聞こえてくる波の音。おしゃべりする満天の星。

 それらに後押しされるように、啓人は意を決する。

 まずは、あの日のことを謝らなくては。今回の旅行は流されるようにして、ここまで来てしまった。一度、区切りを付けなければいけない。

 そして――先へ進みたい。それは啓人の願いだった。

 だから、その時の閑香の願いをちゃんと聞こうとしなかった。

「あのね」

 啓人よりも先に真剣な顔で閑香が口を開き、胸元に手を置く。何度かぽんぽんとポケットを叩いて、何かを探しているようだ。

 困惑した表情を浮かべてから、

「そうだ、さぁちゃんにあげたんだった」

 と、得心したように頷き、居住まいを正す。そして改めて、

「あのね」 

 何ごともなかったかのように取り澄ました顔をする。その様子がおかしくて啓人が微笑むと、

「これから、真面目な話をするね」

 閑香が宣言する。


 啓人が次の句を待つ間、沈黙が流れ、それは永遠のものとなる。

 時間は緩やかに、そして確実に流れていく。

 一度過ぎ去った時は、もう二度と帰らない。


 切に望もうと。

 必死に祈ろうと。

 どんなに願おうと。

 痛いほど悔やもうと。


 あの頃に戻ることは、決してできない。

 私、と閑香が言葉を続けようとする直前、啓人の耳に届いたのは夜の闇を切り裂くようなけたたましい非常ベルの音だった。

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