躍る想い

ゆーなみ

躍る想い


 由乃森結良は走っていた。


 短いスカートをなびかせ、放課後の廊下に足音を響かせ、息を切らせて彼女は走り続ける。握りしめた二枚の栞がくしゃくしゃになるのも構わず、前だけを目指した。

 焦燥感に目を回しているが、誰かに追われているわけではない。むしろ誰かを追っていた。しかし、それが何者なのかは結良自身も把握していない。

 やがて曲がり角に差しかかったところで、一人の少女とぶつかりそうになった。


「うわ! な、なに? って、結良じゃん。なにしてんの? 汗、すごいよ?」

「え、あー、喜咲か」


 喜咲と呼ばれた少女は目をぱちくりさせながら尋ねてきた。いきなり飛び出してきたこともそうだが、喜咲が驚いた理由は結良の見た目にもある。滝のように汗を流し、長い栗色の髪を額や頬、首筋、鎖骨にまで張りつかせているのだ。喜咲が戸惑うのも無理はない。


「いや、ちょっと急いでるっていうか、追っかけてるっていうか、大慌てって感じで!」

「意味わかんねーよ。なに、なんか事件?」

「そう、事件! 誘拐事件だよ! ……ん? あれって誘拐なのかな?」

「だから意味わかんねーってば」


 喜咲はずり落ちた鞄を肩にかけ直し、うんうん唸る結良からの返事を待った。しかし、待てど暮らせど返事はない。短気な喜咲はすぐに痺れを切らせた。


「あー、もうなんでもいいけど、急いでんじゃないの?」

「そうだ! 急いでたんだ!」


 叫ぶなり結良は喜咲の肩越しに廊下を見据えた。喜咲も振り返るが、追われていそうな人は見当たらない。ただ涼しそうな格好の生徒がちらほら見えるだけだ。でも、結良は確かに急いでいた。そわそわと体を揺らし、今にも走り出しそうな勢いだ。


「だったら行きなよ。話を聞くのは後にしたげるからさ」

「ありがとう、喜咲!」


 言われた途端に結良は弾けるように走り出した。転ばないか心配になる駆け出した。

 背後から喜咲の心配そうな視線を向けられているとも知らず、結良は追跡を再開する。目標はとっくに見失っていた。最後に確認したのは窓から飛び降りた姿だ。そして、外から窓を通って図書室に忍び込むところまでは目撃した。つまり、目指すは図書室だ。


「あんまり、行きたくないんだけどなぁ……」


 階段を段飛ばしに駆け下りる結良は、重い息と共に苦い感情を吐き出した。手中にある栞がくしゃりと丸くなる。それを見て彼女は顔色を悪くするが、駆ける足は止めない。


 そして、ようやく結良は図書室に辿り着いた。


 結良は肩で息をしながら扉と向かい合う。胸に手を当て、呼吸を整えた。ついでに身だしなみも正した。学校で唯一、常に私語を咎められる場所だ。多少なりとも緊張する。


 心の中で自分に気合いを入れ、結良はガラッと扉を開けた。


 やはり空気が違う。喧騒から切り離された空間には本の香りが漂っていた。本屋とは違う、使い古された本の香りだ。結良は懐かしい気持ちに胸をいっぱいにしながら、そろりそろりと室内を歩き回る。

 結良の通う高校の図書室は広い。ずらりと並ぶ書架が物々しい雰囲気を放ち、現国の授業かメール、ブログでしか文字を見ない彼女を責める。さっさと用を済ませたいが、結良の目当ては見つからない。死角が多すぎるのだ。

 人の目があるから走り出すこともできず、もどかしい思いをしていた結良の視界に何かがちらついた。それは非常に小さな影だ。結良はギラリと瞳を輝かせて足を速めた。


 結良は小さな影の隠れた本棚を曲がり、信じられない光景を目の当たりにする。


「うわ、本当に踊ってる……」


 文字だ。文字が踊っているのだ。比喩でも何でもなく、結良の前で生を受けた文字が踊り狂っている。〝大〟という字が諸手を挙げて走り回り、〝て〟という字が一本足で飛び跳ねていた。他にも様々な文字が好き勝手に舞っている。

 結良は目眩を覚えた。見間違いであって欲しかった。しかし、彼女が追い求めていたのは、まさしくこいつらだ。いや、より正確に言えば、こいつらを連れ去った犯人だ。


「そっか。やっぱり君も見間違いじゃなかったか」


 祭のようにはしゃぎ回る文字たちの中心には、小人がいた。トンガリ帽子を被った二頭身の小人だ。笑顔を浮かべた小人は結良を見つけるや否や、ハッとした顔で硬直した。いたずらが見つかった子供のようだ。実際、その通りなのかもしれない。


 結良は小人に文字を盗まれたのだ。


 放課後のこと。いつものように友達と帰ろうとした時、結良は小人を見つけた。他の誰にも見えていないようだったが、結良には確かに見えていた。そして、小人が文字を引き連れている姿を見て気づく。見覚えのある字が並んでいたからだ。

 ありえないとは思った。しかし、文字が書かれていたはずの栞からは確かに文字が抜け落ちている。だから結良はここまで走ってきた。友達を残して、駆け出したのだ。


 結良は足りない頭を精いっぱい働かせた。

さて、どうしよう。自分の大切な文字を連れ去った小人さんをどうするべきだろうか。謝らせる? そもそも言葉は通じるの? いや、そもそもこれは幻では? しかし、確かに文字は抜け落ちている。手元の真っ白な栞がその証拠だ。そう、証拠はあるのだ。

よし、とりあえず懲らしめてやろう。そう決心して踏み出した時。


「そこで何をしているんですか?」


 ビクッと体が跳ねた。結良は口から飛び出しそうな心臓を飲み込み、恐る恐る振り返る。


 そこには小柄な少女が立っていた。

 背の低い少女が眼光で結良を射抜いている。剥き出しの敵意を向けられていたが、不思議と結良は怯えたりしなかった。それは彼女が綺麗だったからだろうか。結良の周りにも可愛い子はいっぱいいるが、彼女ほど艶やかな黒髪が似合う子はいない。

 リボンタイの色からして後輩、つまりは一年生だ。だというのに結良は狼狽していた。意味のわからない現場を目撃されたのだ。何から片付けろというのか。


 結良があわあわと言葉を失っていると、少女は冷然と尋ねてきた。

「それ、あなたの字ですか?」

「え? あー、うん、たぶんそうなんだけど……」


 とっさに答えた直後、じわじわと違和感が押し寄せる。少女が言う「それ」とは、間違いなく結良の前で騒いでいる文字のことだろう。しかし、どうしてこの眼鏡の子はここまで冷静でいられるのか。混乱した結良は、とりあえず愛想笑いを浮かべた。


「笑っていないで、とにかくついて来てください」

 笑顔さえも封じられ、反論の余地も与えられない。ここを離れるわけにはいかない、と主張しようとしたが、結良の行動は黙殺された。文字たちが、小人が、謎の一年生に追随したからだ。友達かな? と考えることにして、結良は言われるがままに従った。

 小人と文字が前を歩く少女の黒髪をよじ登る。とんだファンタジーだ。


     ●  ●  ●


 結良が通されたのは狭い一室だった。

 図書室のカウンター抜けた先にある部屋だ。中央に一対の長机が置かれ、椅子を引いて座れば背後の本棚から圧迫感を味わう。そして、前のめりになれば机上の本やら文房具が邪魔なので結局くつろげない。せめてもの救いは窓から差し込む陽光くらいのものか。

 そんな場所に結良は取り残されていた。

 とっ散らかった机では小人と文字がじゃれ合っていたが、結良の視線は手元のケータイに注がれている。打鍵音は断続的でリズミカル。一切の無駄がない。


「……うん?」


 ふと何者かの視線に気づき、顔を上げると、先ほどまで自由奔放に駆け回っていた小人が、結良をじっと見つめていた。キャンディーのような瞳に結良の間抜け顔が映っている。


「何か用かな――って、だ、ダメだかんね! この文字は連れてっちゃダメだかんね!」

 結良はケータイをガバッと隠し、弱々しいながらも涙目で威嚇する。ぐるるー。


「ケータイの文字は抜けません。安心してください」

 小人と低次元な攻防を繰り広げる結良に、嘆息混じりの指摘が入る。

 声に反応して見やれば、扉をキィと軋ませ、例の後輩が入室していた。彼女は育ちの良さを窺わせる所作で扉を閉じ、放り出された本の山や段ボールをするするかわしながら結良の正面に座る。ずいぶん慣れている様子だ。


「誰かと約束でもしていましたか?」

 結良の手元を見ながら彼女は尋ねた。


「ううん、教室で待ってる友達にメールしてただけ。そっちは何してたの?」

「図書委員の仕事を他の人に任せていました」

 彼女が図書委員だと知ると同時に、結良はまだ名前も聞いていないことに気づいた。

「名前、聞いてもいいかな?」

「……ああ、そういえばまだ名乗ってませんでしたね」少女は一つ息を吐き、居住まいを正すと名を告げた。「私は秋折葉月です」

「あたしは由乃森結良っていうの。よ、よろしく?」

「聞かないでください。それと、よろしくお願いします」

 葉月は飛びかかってくる小人を指で弾きながら淡々と答えた。


「まずは文字を戻しましょうか。この子たちに文字を抜かれた物は持っていますか?」

「うん、ここに……って、ちょっとくしゃってる」

 結良が取り出したのは追いかけっこをしている時に握りしめていた二枚の栞だ。置き場がなかったのでとりあえず山積みの本の頂上に乗せる。


「栞、ですか。変わった物に字を書きますね」

 言いつつ葉月は無表情で暴れる文字を摘みあげ、容赦なく栞に叩きつけた。それだけで文字は栞の中に埋め込まれる。スタンプみたいだな、と結良はのん気に見物した。


「この状況で変わってるって言われても困るなー」

「それもそうですね。この子が迷惑をかけたようで、すみません」

 流れ作業で文字を押し込みながら小人に頭を下げさせる。


「いやいや、こうして返してもらえたんだし、別に気にしてないよ。それより、これってどういうことなのかな? なんか、秋折さんはいろいろ知ってるみたいだけど」

 結良がぎこちなく微笑み、葉月は思案にふける。しばらくしてから何かを諦めるようにふっとため息を吐き、葉月は手を止めずに語り始めた。


「この子は妖怪です。もしくは妖精。私も詳しくは知りませんけど。知っているのは、この子が人の書いた字を抜いて連れ回せる、ということだけです」

「へー、でもこんな子がいたらもっと大騒ぎになんない?」

「見える人は限られています。私が知る限り、あなた以外に見えた人はいません」

「わぁ、なんかあたしたち特別っぽいね」

 とろけそうな笑顔を浮かべる結良に対し、葉月は瞳を濁らせて吐き捨てるように応じた。


「……私は友達がいませんから、知る限りも何もないんですけどね」

「ご、ごめん! ごめんね! なんも知らなかったからさ!」

 心なしか文字を叩きつける力を強め、葉月は「いいですよ」と返した。その姿は恐ろしく、ちっちゃな妖怪(?)もガクガク震えている。


「こ、小人さんは、どうしてあたしの字を抜いたのかな?」

「特に目的はないと思います。ただ楽しいからそうしているだけのようですね。何せ、文字を躍らせている間はとても楽しそうですから」


 思い切って話題を放ってみたが、それが功を奏したらしく、葉月は口元をわずかに緩めた。いまだに葉月と小人の関係は見えてこないが、どうやら仲は良いようだ。


「じゃあ、いつもは自分で書いて遊んでるのかな?」

「いえ、自分で書くと文字が勝手に動いて手に負えないようです。だから、元からある文字を使って遊ぶんです。……今回のように」

「そうだったんだ。君は迷惑な子だなー」

 結良は小人を指で突っつく。マシュマロみたいに柔らかい。ついつい何度も触りたくなる心地よさだ。


「実際、迷惑な子ですよ。この前も図書室で暴れ回って本を滅茶苦茶にしてくれました」

 葉月は眼鏡の奥で瞳を虚ろにし、部屋を見渡した。視線を追うと散らかった部屋が映る。どうやらこの部屋が荒れているのは小人のせいらしい。

「あー、だから散らかってるんだ」

「当時は大変でした。ここでは傷のついた本の修正や返却された本を一時的に保管しているんですが、それがもう滅茶苦茶に……。本当に、今思い出しても腹が立ちます」

「許してあげよう、あげようよ! ほら、つぶらな瞳でぺこぺこしてる! かわいい!」

「大丈夫です。その子に恨みはありません。不満があるのは無能なその他図書委員どもです。あいつら、物の片付け方も知らないのでしょうか。見ていてイライラしました」

「めっちゃ厳しいね、秋折さん!」

 小人に甘く、他人に厳しかった。


 まだ葉月と小人の関係性はもやもやしているが、はっきり分かることもある。

「秋折さんは小人さんの面倒をみたげてるの?」

「はい。見えるのも何かの縁でしょうから。それに、手を焼くこともありますが、彼は見ていて楽しいですよ」

「じゃあ、小人さんと同じだね。楽しいからそうしてるって感じ?」

 冷たい子かと思ったが、どうやら違うらしい。結良の中で葉月の印象が変わる。思っていたより優しい子だな、と思っていたが、すぐに葉月は暖かな瞳を冷たくした。


「そうです、楽しいからしているだけです。だから、楽しくない人付き合いは断っています。別に他人から弾かれているわけではありません」

「ごめん! ごめんってば! 謝るからその暗い笑顔やめて!」

 またもや大きくなる作業音に結良は泣きそうになる。


 それからどこに地雷があるのか怖くなった結良は言葉を失ってしまった。

 しかし、沈黙はすぐさま終わりを迎える。その頃には一文字も文字は暴れていなかった。

「終わりました。これで大丈夫ですか?」

「ありがとう。えーと、どれどれ……」

 結良は手渡された二枚の栞を受け取り、文字列を眺めた。綺麗に戻るんだなー、と感心していた彼女の表情が曇る。

「あれ? これ、足りないよ?」


 栞に刻まれた文字を見つめ、声をこぼした。一枚の栞にはぎっしりと文字が詰め込まれているが、もう一枚の紙には『今まで、』としか書かれていない。文字が足りていないのは後者の栞だ。結良は首を傾げて唸る。


「どうやら、引っこ抜かれたあと迷子になったようですね」

 結良の顔色が悪くなる。


「え、ウソ、ヤバいじゃん!」

「困りました。抜かれた文字は一定時間を過ぎると消えてしまいます。大切な文字なら、早く探した方がいいですよ」


 きょとんとした直後、結良が勢いよく立ち上がり、本をバタバタと散らばらせた。


「う、ああ、ヤバ! ちょ、い、急いでるから、これ片付けといてくれない!?」

 逃れようとする結良に対し、葉月は涼しげな顔で返事をした。

「お断りします」

「うん、お願い――って、断られた!」

 どうしていいのかわからず焦っている結良に、葉月は冷然と告げる。


「私も協力しますから、片づけは後回しです」


 行く道を邪魔する本を退け、葉月は先に部屋を出た。そして、もたつきながらも結良も部屋を出る。扉を閉める時、小人は無責任に手を振っていた。


     ●  ●  ●


 捜索を開始してから一時間が経過した。

 しかし、いまだに迷子の文字は見つからない。栞に書かれたような小さな文字なのだから、見つかりづらいのも無理はなかった。しかし、大きな理由は他にある。


「じゃあ、またねー、ばいばーい」

 結良は昇降口での会話を済まし、相手の女子に手を振り続けた。その背後では葉月が怨嗟のこもった眼光を向けている。結良は気づいているが、気づいているからこそ振り返れない。静かに結良は冷や汗を流す。


「……先輩、本当にやる気ありますか?」

「うん、ある、チョーあるよ。でも、でもね、秋折さん」

「は?」

「……ごめんなさい」

 しゅんと落ち込む結良。深呼吸のような溜め息を吐き出す葉月。


「先輩の知り合いが多いことは分かりました。先輩にも付き合いがありますから、あまり強くは言えませんが……顔を合わせるたびに雑談してんじゃねぇよ、死ね」

「すっごい強く言ってるよ! いや、あ、あう、ご、ごめんなさい……だけど……」

 葉月は眉をしかめて威嚇する。


 結良が友達との会話に花を咲かせたのは、何も今回が初めてではない。学校を走り回る中で彼女は声をかけられるたびに足を止め、話をする。そして葉月を苛立たせた。

「そんなことだから文字を盗まれるんですよ」

「いや、盗まれた時はわりと頑張って追いかけたよ? でも、こう、正体がわかっちゃうと、ちょっと違うというか、ね……」

 視線を逸らす結良に対し、葉月の怒りは増していく。

「なら、もう栞なんて諦めましょう」


「それはダメ! 絶対ダメだから!」

 弱々しい結良とは思えないほどの声量だった。怒り心頭だった葉月の表情も消え失せる。驚いている葉月を見て、結良が正気を取り戻した。


「あ、ごめん。でも、もたついてるけど、ほんとに大事な言葉だからさ……」

「……そう、ですか。大事ですか」

 気圧された葉月も、強く前に出た結良も、互いに次なる言葉を迷った。

 下校する生徒の数も減り、昇降口には静けさが蔓延している。遠くからは部活動に励む若い声がしていた。何だか遠いな、と結良はぼんやり考える。


「ゆぅぅぅらぁぁぁ!」

「おふっ!」

 沈黙を打ち破ったのは女生徒のタックルだった。


 高身長で体格の良いジャージ姿の女生徒は結良に背後からぶつかり、奇声を発せさせる。そして、ふらつく結良の肩をがっしり掴んで反転させ、向かい合って豪快に笑って見せた。葉月はそれを呆然と眺めている。喋ることも動くこともできないで、ただ眺めていた。


「部活に顔を出さないと思ったらこんなところで何してるんだ結良!」

「うわ、ちょ、揺らさないでください! 部活には遅れるって聞きませんでした?」

「聞いたとも! でもいきなり体調不良と言われたら心配になるだろう! 違うか!」

「違いませんけど、うるさいです! 落ち着いてください、日菜先輩!」

 日菜先輩と呼ばれた女生徒は結良に引き剥がされ、愉快そうに数歩だけ退いた。そして、退いた先で葉月と目を合わせる。

「おや、君は図書委員の子か?」

「は、はい、そうですけど……。どうしてそれを?」

 身を反らして細い声を出す葉月に対し、日菜はニカッと笑う。


「いやなに、一時期だけ結良が図書室に入り浸っていることがあってな。どうも誰かと会っていたらしいが、それが気になって探りに行っていたことがあるんだ。その時に、君を見た」

 やたらと積極的な日菜を前に、葉月は助けを求めるように結良を見やった。

 そして、息を飲む。


「ちょっと、先輩、その話はやめてくださいって……」

「ん? ああ、そうだったな。すまん、悪気はない。許してくれ」

 日菜の快活な返事に結良は苦笑を浮かべる。勢いに押されているようにも見えるが、葉月の目には違って見えていた。無理をしているような、何か痛いところを突かれたような。


 日菜の言葉がきっかけだろう。しかし、日菜からは悪意など感じない。では、何が彼女を苦しめているのか。葉月は考える仕草を見せたが、やがて思考が中断される。


「それで、何をしていたんだ? まさかこの期に及んで体調不良とは言わないだろう?」

「ちょっと探し物をしてて、秋折さんに手伝ってもらってたんです」

「そうだったのか。うん、まあ結良が元気ならそれでいいか。すぐに見つかりそうか?」

「どうでしょう。あ、でも、見つけたら部活に行きます! ですから、待っててください!」

 結良は首を傾ぐ日菜の背を押し、昇降口に向かわせる。

「しかし、探し物なら人手が多いことに越したことはないぞ」

「いや、悪いですよ! それに、部活には先輩を待っている後輩がたくさんいますから!」

 結良の言い訳は苦しいが、日菜は無理やり納得したように頷いていた。さすがに断われていることぐらいは察したのだろう。渋々と言った様子で日菜は去って行った。


 そして、結良はやり遂げた表情で額の汗をぬぐう。

「…………ずいぶんと騒がしい人でしたね。私が最も苦手とする人種です。人の迷惑を考えないで善意を押しつけるのは勘弁してもらいたいものです。本当にどうして自分の行為が正義だと信じられるのでしょうか。あと、独りぼっちの生徒にまで手を差し伸べるのやめてくださいよ。それで注目されてダメージを受けるのはこっちなんですから…………」

「そ、それ以上言わなくていいよ! いいから! 秋折さん、明日を見よう!」

 心臓が凍りつきそうなほど冷ややかな笑みを向けられ、結良はぶんぶん手を振った。


「日菜先輩も悪い人じゃないよ。ちょっと押しが強いだけで優しい先輩だし」

「なら、どうして由乃森先輩は辛そうなんですか?」

 葉月の刺々しい言葉に結良の笑みも崩れる。そしてまた笑みを作ろうとして、諦めた。沈痛な面持ちのまま話し出そうとした時、声が遮る。


「あれ、また結良だ。今度は何してんの?」

 やって来たのは喜咲だ。まだ学校に残っていたらしい。


「喜咲! タイミング悪いんだかいいんだかわかんないよ!」

「褒めんだかけなすんだかどっちかにしな。ちなみに、ウチは褒められんのが好き」

 結良は泣きついてきたが、あっさりといなされた。そして喜咲は逸らした視線の先に葉月を捉える。またもや結良の注目が葉月に逸れた瞬間だった。


「ん? 誰、この子?」

「あー、秋折葉月さん。図書委員の子だよ」


 結良はにっこりと葉月を紹介したが、冷徹なる後輩は明らかな苛立ちを見せていた。今にも殴りかかりそうな勢いがある。そこで結良はハッとした。


「ご、ごめんね、喜咲! あたし、こう見えても忙しいから、またね!」

「ちょ、あんま押すなし。ひょっとして、あんたも幽霊とかさがしてんの?」


 押していた手を離し、結良は喜咲の肩を掴んでくるっと反転させた。どうやら彼女が所属する部活では当たり前の技術らしい。葉月は冷めた目で見ていた。

「幽霊ってなにかな? ちょっと詳しく聞かせてもらえないかな?」

「え、マジで言ってんの? もしかして、オカ研の先輩に手伝わされてたりする?」

「オカルト研究会……って、あのよくわかんない先輩が何か知ってるの?」

「いや、さっき『文字や! 文字が走っとるで!』とか言いながら走り回ってたんよ。いやー、あれはヤバいね。危ないから、東棟の一階あたりは行ったらアカンぞ」

「東棟の一階だね、わかった! 行ってくる!」

「うん、気をつけ――あれ? なんかおかしくね? あれ?」


 喜咲を置いて、結良は葉月の手を取って走り出していた。


 もう寄り道はしない。何故か抵抗のない葉月に、心の中で結良は誓った。


     ●  ●  ●


 結良たちの通う学校は東と西で棟が分かれている。

 西側は三学年の教室が収まっており、中庭を挟んで向かいにある東側には移動教室で使われる教室が収まっていた。普段は静かな棟だが、放課後になると文化系の部活が活動を始めるため、賑やかさを増す。喜咲の言っていたオカ研もこちらの棟に部室を持っていた。


 第三会議室だとかいう何に使われているのかわからない教室もあるのだが、そこはどこにも使われておらず空き教室となっている。そこに結良と葉月はいた。


「見つけた! 見つけたよ!」

 感涙しながら抱きしめる結良の腕の中には五つの歪な文字がある。どいつもこいつも逃げ出そうとしているが、決して結良は離さない。


「やー、すぐ見つかって良かったよ。ほら、暴れないで。痛っ! 〝と〟が引っかかって痛い! 〝う〟も引っかかる!」

 五文字ごときに転がされている結良を見て、葉月は腰に手を当てて嘆息した。


「遊んでいないで、早く栞を出してください。また逃げられますよ?」

「それは困る! お願い、秋折さん!」


 結良はすぐさま立ち上がり、五文字の想いをぎゅっとしながら葉月に栞を差し出す。そして、栞を受け取った葉月は結良が大事にしている文字をひったくり、叩きつけた。

「もうちょっと優しくできないかな」

「無理です。これは思い切りが肝心なんです」

 言葉を返しながらも葉月は叩きつけ続けた。必死に逃げようとする文字も容赦なくがっしり掴み、無表情で叩き込んでいる。何だか悪いことをしている気になり、結良は最後の一文字が収まるまで震えた。


 全てが終わり、最後の五文字を付け足し、栞の文字は完成する。


『今まで、ありがとう』


〝ありがとう〟という字だけは歪んでいた。結良が握りつぶしたことも、葉月が強引に戻したことも原因ではない。最初からこの五文字は歪に書かれていたのだ。一枚目も含めて、他の字は全て整然とした字が流れるように刻まれているが、〝ありがとう〟だけは違っていた。


「はぁ……良かった……」

 結良は元に戻った栞を大切に抱きしめる。


「その栞は、そんなに大事なんですか?」

「うん。友達……ってあたしは思ってる人からもらったんだ。お別れの言葉、なんだけどね」

 無理に笑おうとする結良を見て、葉月も眉をひそめて表情を暗くした。大切にしているわりには良い思い出が詰まっているわけではなさそうだ。


「……良かったら、聞かせてもらえませんか?」

「たいしたことじゃないよ。ちょっと、あたしがバカだっただけだし」


 結良は避けようとしたが、ふと合わさった葉月の瞳を見て、それまで張りつけていた笑みを消した。笑えば見逃してくれる相手でも、誤魔化される相手でもない。そう感じたからだ。


 結良は観念したように一つ息を吐き、淡い笑みを作り直し、語り始めた。


「二年に上がってからすぐの頃だったかな。新しいクラスで出来た友達の付き添いで、図書室に通ってたの。成り行きで図書委員になっちゃって不安だからーって言われてね。秋折さんも知ってると思うけど、図書委員って仕事あるの昼休みと放課後だけでしょ? だから、まぁ、昼休みだけなら大丈夫かなーって」


「私は昼休みは他の人に任せていますから、会わなかったんですね」


「あ、やっぱし、そうなんだ。……えと、そんでね。手伝ってる時に、本に挟まってる栞を見つけたの。ただの栞じゃなくて、メッセージが書かれた栞。すっごく綺麗な字で、挟まってた本の面白いとことか書いちゃってて、なんかこれだけでも面白いなー、とか思っちゃって」


「……面白いところ? 感想文か何かでしょうか。それとも、まさかあらすじ?」


「あー、あらすじかも! あたし本とか読まないから、よくわかんないんだよね。それで、何の話だっけ。ああそっか、栞ね、栞。誰が書いたか知んないけど、ちょっと遊び心で栞に書き足してみたの。おもしろそうだねって」


「読んだわけではないんですね……」


「うん。なんか教科書みたいでわかんなかったし。でね、一週間経ってからもう一回本を開いてみたら、なんと返事があったの。書き足した栞じゃなくて、また別の栞なんだけど、他のおすすめ本が書いてあって、その本探してみたら、そっちにもあらすじ付きの栞があったの」


「それで、次こそは読みましたか?」


「よ、読んだよ! 次こそは読んだよ! チョー頑張ったし! 辞書片手に頑張ったし!」


「日本語……ですよね?」


「いいじゃん、その話は! そんでね、それからもずっとやり取りを続けたの。あらすじが書かれた裏にあたしが感想書いて、返事を待って、次の本を探して……の繰り返し。名前も顔も知らないけど、なんかすっごい楽しくてさー。習字の先生かって言うくらい字も上手いし、本も大好きそうで、あたしとは別世界って感じなんだけど」


 当時を振り返る結良の表情にはやわらかな笑みが浮かんでいた。とりあえず浮かべる愛想笑いや苦痛に耐えながら浮かべる笑みでもない、自然と浮かび上がった笑みだ。険しい表情ばかり見せていた葉月さえも頬をわずかに綻ばせる。


 しかし、続きを語る結良の口元からは、暖かさが失われていた。


「でも、一カ月くらい前、友達に見つかっちゃったの。栞が見つかったわけじゃなくて、何かこそこそ書いてるのがバレて、友達の中で騒がれちゃったんだ」


「騒がれる……? 何も悪いこともしていないのに、どうしてですか?」


「いやいや、別に責められたわけじゃないよ。ただ、こう、なんていうのかな。おもしろそうなことしてるねって感じ。みんなも悪気はないんだけど、こういう話題好きでしょ? 図書室で仲いい子が内緒で誰かと会ってる、みたいなの」


「そういえば、先ほどの先輩もそんなこと言ってましたね。ああいう風に言われたわけですか。それで、由乃森先輩はどうしたんですか?」


「……恥ずかしいというか、あたしって文通とかするキャラじゃないし、あんまり知られたくなくて、図書室に行くのやめたの。こっそり行こうとしても、どっかで誰かと会っちゃうし」


「私の場合だとありえませんけど、由乃森先輩の場合だとそうかもしれませんね」

 最後の五文字を探す間、結良に声をかけた生徒は何人もいた。軽い挨拶だけで済ませる相手もいれば、長話を仕掛けてくる相手もいる。同級生や部活の先輩後輩、中学時代の先輩後輩、果てには先生にまで声をかけられる始末。その間、葉月はひたすら空気と化してじっと待機していた。


「まるで監視されているようですね。窮屈そうで、私には耐えられそうにありません」

「監視って言い方ひどいな……。見守られてるって考えようよ。誰かに見てもらえるのって、それだけでも嬉しいことだと思う。あたしは、いつも誰かが傍にいないと不安になるから」


 結良の落ちた視線は栞の文字を捉えていた。


「……不安になるから、多い方を取っちゃったんだ」


 栞がくしゃっと音を立てる。歪んだ五文字がさらに歪んだ。

「あたし不器用だからさ、使い分けるとか無理なの。友達の中では微妙な空気にならないように気配ったり、頼まれたら嫌でも断わらないし、愛想笑いもいっぱいする。たまに疲れるけど、楽しいの。楽しいから、失うのが怖い。怖いけど、やっぱり、素の自分でもいたかったり」


 しどろもどろになりながらも結良は懸命に言葉を紡ぐ。


「栞のやり取りでは空気読まなくてもいいし、何書いたってあたしだってバレないから、すごく楽しかった。こっちはこっちで楽しかった。だけど、これがみんなに知られたら、たぶん今までのようには書けない。他の人に見られてると思うと、きっと書けなくなる」


「友達の悪口でも書いていましたか?」


「ち、違うよ! ただの感想! でも、知られるのは嫌だった。恥ずかしいってのもあるけど、それってさ、なんか裏切りっぽいじゃん。二人だけのやり取りを他の人に見せるのって、相手の知らないとこでさらし者にしてるみたいで嫌だった」


「……図書室に行くことをやめて、どうしたんですか?」


「あー、うん。それからしばらく行ってなかったんだけど、一週間くらい前に図書委員の子に仕事頼まれたの。やり取り見つかってからは、部活とか言い訳にして断わってたんだけど、どうしても忙しいからってことで。なんか図書室荒らしが……あ、小人のせいじゃん!」


「今さらですか。まぁ、それは許してあげてください。彼にもいろいろあります」


「怒ってないからいいんだけど……。あ、それでね、散らばった本を整理してる時に、栞を見つけたの。今までにないくらいいっぱい文字が書いてて……えと、それがこっちの栞」

 そう言って結良は文字がびっしり書き込まれた栞を葉月に見せた。


『あなたから初めて返事を貰った時、正直に言うと少し戸惑いました。そして字が丸すぎて、解読に時間がかかりました。もう少し落ち着いて書いてください。それと、本の感想も出鱈目で読んでいるこちらが頭を抱える内容でした。普段、どのような本を読んでいるのでしょう。』


「うん、改めて読むとすっごいこと書かれてるよね……。もっかいぐさっと来たよ……」

 結良が胸を押さえて膝をついた。相当心に響いたらしい。もちろん悪い意味で。


「これで終わりかなって思ったら〝続く〟って隅っこにちょこんと書いてあったの。それで、どこに続くのかなーって悩んでたら、挟まってた本が上巻だって気づいたの。つまり、下巻に書いてあるんだって思いついて、下巻を探したんだ」


「下巻を探した……? 隣に置かれていなかったんですか?」


「ほら、散らかった本片付けてる途中だったから、傍になかったの。でね、やっと見つけて、栞を見たら、これ……」

 続いてもう一枚の栞を見せる。


『今まで、ありがとう』


 ごく短い言葉に結良は寂しげな顔をした。


「これを見ちゃうと、この人はあたしに付き合ってくれてただけなんだなーって。わりと仲良くやれてたと思ったんだけど、勘違いだったみたい。しかも、あたしが始めておきながら急にやめちゃって……。怒ったのかな……」

 結良の力ない笑みを前に、葉月は冷然と尋ねる。


「由乃森先輩は後悔してるんですか?」

「うん。でも、今さら何言えばいいかわかんないし、向こうも迷惑だろうし……。だったら、何でずっと栞持ってるんだって話なんだけど、なんか手放せないんだよね……これも迷惑か」

 声の調子は徐々に落ちてゆき、音が消えた。


 葉月も次を求めてこようとはしない。ただ、小さなため息をこぼして告げた。


「まだ何も知らないくせに、相手のことを知った気にならないでください」


 結良は何も言い返せず、ただ呆然としていた。そんな彼女の隣を葉月が通り過ぎる。何を言われたのか理解が遅れ、結良が気づいた頃、教室には誰もいなかった。

 辺りを覆う静けさに追われ、やがて結良も教室を去った。


     ●  ●  ●


 翌日の昼休み、結良は六つの缶ジュースを抱え、廊下を歩いていた。

 隣では喜咲が缶ジュースを落とさないよう声援を送ってくれているが、決して手は貸さない。


「ほーら、あとは階段あがってまっすぐ行くだけだぞー、張り切れー」


「喜咲、一個くらい持ってくれない?」


「それじゃ罰ゲームになんないでしょ。昨日いきなり教室出てったあげく、部活も休んだらしいじゃん。そりゃ仕方ないわ、うん。ウチ、どっちも関係ないけど」


「じゃあ手伝ってくれても良くないかな」


「タダで貸せるほどウチの腕は安くないっての。それなりの報酬ってもんを渡しな」


「なに? あたし、今月ピンチだからお金は勘弁だよ」


「いらない。ウチが欲しいのは情報よ、情報。……昨日、何してたかって情報」

 缶ジュースが崩れ落ちた。カランカランと廊下に甲高い音が鳴り響き、周囲の注目を浴びる。結良はあわあわと拾い集めた。これにはさすがの喜咲も協力し、結良の腕の中に積み直した。


「持ってくれないんだ!」

「昨日のこと言いたくないんなら、これくらい我慢しなきゃね」

 結良はまたもや覚束ない足取りで歩き始め、喜咲もまた手伝いもせず隣に並ぶ。


「うぅ……やっぱり言わなきゃダメなのかな……」

「んなこと言ってないでしょ。我慢しなさいっつってん――の!」

「ちょ、押さないでよ!」

 ぐらぐら揺らされながらもどうにか保ち、結良はほっと息を吐く。


「あんた、我慢は得意でしょ。いつも誰かに遠慮して、周りに合わせて笑っちゃってさ」


 悪意を感じる言葉に結良はむっとした。

「確かにそういうこともあるかもだけど。喜咲はそういうのないわけ?」

「あるね。ウチだって今の友達は気に入ってるから空気読むよ。でも、あんたみたいに溜め込んだりしない。ほら、ウチって器用だから、発散するとこをわきまえてんの」


 ふふんと胸を張る喜咲に、結良の顔がさらにむっとする。どうしてここまで意地悪なことを言われないといけないのか。結良にはわからなかった。


「あんたにとっての発散場所は、図書室の君だったのかい?」


 不意打ちの台詞に、またもや缶ジュースの山が崩れそうになった。しかし、今回は喜咲が予期していたらしく、間一髪のところで支えられる。


「動揺しすぎだっての。あんた、ほんとに隠す気あんの?」

 ふらついている結良を突き放し、喜咲は嫌味ったらしい笑みを浮かべて前に出る。


「え、なに、何でそういうの分かるの?」


「あんたとの付き合いは長いからね。小学校の時に好きだった男の子の名前も言えるよ? そんなウチに隠し事が通用するとでも?」


「む、昔と今は違うし!」


「変わんないよ。昔っから我慢してばっか。好きだった子も、友達が好きだって聞いてからは避けるようにしてたじゃん。まぁ、悪いとは言わないよ。ただ、それでいいのかなって」


「……いいよ。それで今の関係が続くんなら、あたしはそれでいい」


「続かねーよ。現に図書室の君とは別れてんじゃん」


「いや、付き合ってないし、別れてないし、だから喜咲はどこまで知ってんの?」


「授業中に手紙書いてるような奴が、いっちょまえに秘密とか大切にしてんなよ」

 結良は肘で脇腹を突っつかれてまた転びそうになる。


「手紙書いてる時のあんたは、楽しそうだったよ。それと、昨日走ってた時も。最後に会った時は、あんまし楽しそうじゃなかった」

「……すとーかー?」

「ぶたれたい?」

 可憐な笑みで物騒な発言をされ、結良は黙ってふるふる首を横に振った。


「ま、ここまで言っといてなんだけど、結良がいいならそれでいいよ。でも、さ……」


 結良は涙目になりながら続きを待っていたが、喜咲はなかなか次の言葉を紡がない。それどころか結良から顔を逸らしている。不審に思って覗き込んでみれば、ちょっと頬が赤い。


「良くないって思うなら、ウチに頼りな。何してるかは知んないけど、一緒に秘密を守ってあげるくらいはできるからさ。ほら、あんたって空気読むくせにウソつくの下手だし、それに比べてウチは得意じゃん? だから、バランスいいっていうかなんていうか……」

「…………喜咲、顔赤いよ?」


「ばっ、うっせ、死ね!」


 結良は思い切り肩を押されて見事に転倒した。またもや注がれる視線の数々、今度こそ助けてくれる者はいない。結良は泣きながら回収した。しかし、喜咲は容赦しない。


「とにかく! ウソついてメンドイことになってんなら、メンドイこととか言い訳は私に任せてやりたいことをやりな! でないと、知ってる私がもやもやするのよ!」


 厳しい口調のわりには優しい言葉を吐き連ねる。そんな喜咲が可愛らしく思うこともあるが、たいていは傷ついていた。それでも付き合いが続いているのは、どちらのおかげなのか。結良は知らないし、知りたいとも思わない。そういう煩わしいことを考えなくても済むのが、彼女との関係だから。


 少し勇気が湧いてきた。


 どうしたらもう一度栞の相手と話せるだろうか。そう考えながら缶ジュースを拾っていた時のこと。視界の端に何やら怪しげな影が映った。


「……え、小人?」


 トンガリ帽子の二頭身がくりくりした瞳でこちらをじっと見ている。結良が反応に困っていると、小人は転がっていた缶ジュースに向けて手を振った。すると、缶ジュースの陰から四つの文字が顔を出し、結良の前に並ぶ。


『まってる』


 綺麗な文字が小人と共にこちらを見上げる。

 誰の仕業なのか。考えるまでもない。小人を使いに寄越す人なんて彼女以外にいないはずだ。そして、もう一つ気づいたことがある。


「また……誘拐……?」

 よく見れば、『まってる』以外にも多くの文字が廊下のあちこちに広がっている。ある者は踏まれそうになり、ある者は見られないことをいいことに生徒の頭を足場に飛び回っていた。自由奔放にもほどがある。どうやら連れ去った文字で『まってる』を作ったらしい。


 どういうことだと問い詰めたかったが、小人は何も示さず走り去ってしまった。


「ま、待って!」


 手を伸ばして捕まえようとしたが、するりとかわされた。そして、小人と文字は見た目以上の速度で廊下を駆け抜ける。他の遊んでいた文字も逃げる時には一心不乱に駆け抜けた。


「喜咲、缶ジュースお願い!」

「んん? よ、よくわかんないけど、頼まれた!」

 結良の勢いに対し、喜咲も勢いで応じた。


 振り返らずに走り続ける。小さな彼らの姿はあっさりと見失ってしまったが、結良の走りは止まらない。どこで『まってる』のかはわかっている。だから迷わず走れた。さすがに放課後とは違い、昼休みは人が多い。知り合いも多い。だけど、止まらなかった。声をかけてくれる友達には軽い返事をし、謝る。


「あとで、喜咲に、言い訳、考えてもらう」


 友達の言葉を無視するだけで罪悪感にちくちくと襲われる。なんて小心者。でも、今だけは忘れよう。もう一度始めるために、走ろう。


 図書室まではすぐに着いた。


 前回、文字の誘拐犯を追った時にはためらった扉だ。しかし、今度こそ迷わなかった。思いのほか大きな音を立ててしまい、室内から視線を浴びせられる。いつもの結良なら恥ずかしくて引き返していたかもしれない。


「ご、ごめんなさーい……」

 さすがに何も言わずに走れはしなかったが、とにかく逃げなかった。


 結良は足早にカウンターを目指す。勝手に入っていいものかと逡巡したが、すぐに問題は消え去った。カウンターに居た顔なじみの生徒が通してくれたのだ。彼女が言うには、奥で秋折さんが待ってるのだそうだ。


 やっぱりあの子か。


 確信を固めながら奥へと突き進む。

 そして、扉を開き、散らかった部屋に足を踏み入れた。


「ようこそ、由乃森先輩」


 窓から差し込む陽光を背に、秋折葉月は立っていた。待ち構えるように。出会いを演出するように。ただ冷たい表情を浮かべて直立している。彼女の肩には小人がちょこんと座っていた。幻想的な演出だ。あとは舞台を整えていればもっと素敵な出会いとなっただろう。部屋は昨日よりもいっそう荒れている。


 結良は息を整えながら後ろ手に扉を閉じた。

 何もかも問いただそう。そう決心した瞬間、予想外の事態が起きる。


「そーれっ!」


 とても普段の葉月らしくない声と共に、彼女は肩の小人を天井目がけて放り投げた。


 結良はとっさに手を伸ばしたが、すぐに動きは止められる。


 目の前に、文字が押し寄せてきたのだ。


 放り投げられた小人の後を追うように、結良には見慣れた文字が飛び上がる。そして、彼らは落ちることなく空中で舞い続けた。交わり、弾け、くるくる回る。縦横無尽に飛び回り、時には結良の頭を跳ねて、葉月の腕を滑った。


 文字を躍らせている小人自身も自由に飛んでいる。むしろ誰よりも楽しそうに遊んでいた。


「……っ」

 結良が言葉を失う中、文字たちによる舞踏会が続き、やがて中心でふわふわしている小人が一生懸命手を振って文字たちに合図を送る。すると、文字は慌てた様子で列を整え始めた。

 何をしようとしているのか。ぽけっとした結良が理解する頃には、列は完成していた。


 文章だ。空中に文章が現れている。


 葉月を見てみれば、彼女は読むよう目で結良に促していた。まだ頭がぽかんとしている結良だが、とにかく従うままに読み始める。


『あなたから初めて返事を貰った時、正直に言うと少し戸惑いました。そして字が丸すぎて、解読に時間がかかりました。もう少し落ち着いて書いてください。それと、本の感想も出鱈目で読んでいるこちらが頭を抱える内容でした。普段、どのような本を読んでいるのでしょう。』


 栞の内容だ。どうやら教室から離れている間に抜き取られたらしい。


 どうしてまた栞の言葉を見なければならないのか。それも気になるが、もう一つの違和感が結良を悩ませていた。二枚の栞に書かれていた内容は、これでほとんどのはずだ。残りは『今まで、ありがとう』という短い言葉だけ。


 ならば、どうしてまだまだ文章が続いているのか。


 戸惑いながらも次なる文章に目を通す。


『でも、あなたが返事をくれた時、とても嬉しかった。』


 栞の字が続いていた。間違いなく同一人物によって書かれたものだ。しかし、初めて見る。どういうことかと考えながらも続きを読んだ。


『別に善意であらすじの栞を挟んだつもりはありません。ただの暇潰しであり、反応が返ってくるなど考えてもいませんでした。しかも、あなたのような人から。』


「あれ、結局ひどいこと言われてる……」

 不安な気持ちを押し殺して続ける。


『だから嬉しかったのです。本を読まないあなたが、栞を見て、私に興味を持ってくれたことが嬉しかったのです。どのような理由で訪れなくなったのかはわかりませんが、最後に。』


 そこからの文章はすでに知っていた。それでも結良は読み進む。


「今まで、ありがとう……。そういうことだったんだ……」

 文章はそこで終わりを告げていた。


 結良が口に出すと同時に、文章は再び崩れ、踊り始める。


「え、いや、どういうこと? あんなの書いてなかったよね? 表にも裏にも、挟んでた本にも何にもメッセージなんてなかったよ?」


 正気を取り戻した結良は、葉月に詰め寄った。


「はい、そんなところには書いてません。書いてあったのは、もう一枚の栞です」


「もう一枚……?」

 はてなと首を傾げる結良の前に、葉月は一冊の本を見せた。栞の挟まっていた本だ。しかし、何かが違う。確かにタイトルには見覚えがあるが、デザインが違うのだ。


 そして、結良は違いの正体を見つけた。


「中巻……?」


「そうです。これは中巻です。上巻の後、下巻の前にある、中巻です」

 しつこいくらいに強調された言葉に、結良はようやく自らの失態に気づかされた。


「あれ、上下巻じゃなかったんだ!」

 つまり、結良はメッセージの全てを受け取っていなかったのだ。上巻の次は下巻だと思い込み、下巻に挟まれた栞を読んで全てだと勘違いしてしまっていた。


「普通に並んでいれば容易に見つけられたはずですが……。確か、先輩がこの本を見つけたのは図書室が荒らされた後だったんですよね」


「あー、だからだ! だからわかんなかったんだ! うっわー、なにそれバカみたい!」


「本当に馬鹿です。中巻だけ抜けていては気づかない気持ちもわかりますし、分類番号を見ればわかるとも言えません。先輩はあまり本には詳しくないようですから。しかし、きちんと読んでいれば気づけたはずですよ」


「うっ、そ、それは、そうだけど……あんなこと書かれてると思ったら……」

 ずいと距離を詰めて来る葉月に対し、結良は身を引いた。あまりにも敵意に満ちた言葉だ。そんな彼女の言葉を聞き、結良は昨日の葉月の言葉を思い出した。


 ――まだ何も知らないくせに、相手のことを知った気にならないでください


 結良はようやく正しく理解できた。まだ自分は全てを知ったわけではなかったのだ、と。


 葉月は眼前を舞う文字を払い除けながら言葉を紡いだ。


「由乃森先輩には由乃森先輩の付き合いがあることは、昨日の一件でわかりました」


 払い除けた手を小人が足場にし、葉月の頭に飛び乗った。


「しかし、誤解した相手の気持ちを理由に関係を絶つのだけはやめてあげてください」


 結良は手のひらに舞い降りた『嬉しい』の三文字を受け止めながら聞いていた。


「そして、相手の想いを知った上で、もう一度考え直してください。届くかもわからない相手に向け、一生懸命に想いをつづった気持ちを考えてあげてください。不器用なんて言葉で済まさないで、どうか答えてあげてください」


 切実な訴えが結良の胸を打つ。

 先ほどまで感じていた罪悪感の針ではない。もっと体中に響く音色だ。


「……あたしさ、今の友達、かなり気に入ってるんだ」

 結良の返事に葉月の表情がわずかに曇る。


「誰かの傍にいることはやめられない。でも、遠くにいる人との繋がりも大切にしたい。文字だけでしか言葉を交わしたことがないけど、この人のことも大切にしたい。あたしにとって、居心地のいい場所をくれたこの人のことも、あたしは大切にしたいよ」


 葉月がかすかな声をもらした。


「だから、また返事を書くよ」


 結良は柔らかな笑みを浮かべて告げた。

 それと同時に文字が弾ける。小人が好き勝手暴れさせているようだ。彼らも喜んでくれているのだろうか。あまりにも大袈裟な反応に結良はおかしくなった。


「まぁ、喜咲――ああ、友達ね。その喜咲って子も協力してくれるかもだし、なんとかなるよ。あたしは贅沢になろうと思う。どっちつかずとか、優柔不断って怒られるかもだけど、それでいいよ。高望みって大事だもんね」


「それが高望みって……普段どれだけ低い場所にいるんですか」


「い、いいじゃん! あたしにとっては学校が全部なんだもん! むしろ世界問題だよ!」

 結良が駄々をこねるように言うと、葉月が口端に笑みを浮かべた。


「あ、今笑った! 秋折さんが笑った!」

「笑っていません。くだらないことを言っていないで、さっさと部屋を片付けてください。由乃森先輩が見落とした中巻を探すためにここまで荒らしたんですからね」


「えー、秋折さんも手伝ってよー」


「私は文字を叩きつけなければならないので不可能です。さあ、急いでください」

 少し頬を赤く染めた後輩に背を押され、結良は部屋の片づけを始めた。


 相変わらず文字は慌ただしく、賑やかに騒々しく暴れ回っている。葉月がいくら怒鳴っても彼らは祭りをやめない。それがおかしくて結良が笑って葉月に怒られる。それだけなのに、楽しくて仕方なかった。


 片づけながら、小人と文字の舞踏会に手を貸しながら、葉月と喋りながら、結良は笑う。


 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴るまで、笑顔は絶えなかった。


     ●  ●  ●


 秋折葉月は今日も図書室で一人だ。


 一部の図書委員から『秋折部屋』と呼ばれるカウンター奥の部屋で彼女は小人を相手に退屈を満喫している。いつも通りだ。目の前で小人が走り回っているのも、日差しを頼りに手紙を書いているのも、常と変わらない。


 少し変わったことがあるとすれば、雑然とした部屋に可愛らしい小物が増えたことか。


「こら、勝手に動かしたら、また由乃森先輩に怒られますよ」


 小人が携帯ストラップを引きずりながら騒いでいる。何やら犬のようなマスコットだ。葉月には見覚えがないが、このような物を置いていくのはあの先輩に違いない。

最近、この部屋には由乃森結良が訪れるようになっていた。


 結良は栞の返事を本に挟みに来るついでにここを訪れる。そして、慣れてきた彼女は秋折部屋を侵食し始めた。どうせ私物化しているのだから、と朗らかに言い放ったのだ。


「まったく。ここをどこだと思ってるんでしょうね」


 葉月の言葉に小人が反応した。彼は散らかった机上から一枚の大きな紙を引っ張って来る。そこには五十音の全てが記されていた。小人はその紙上をトテトテと走り、特定の場所で飛び跳ねて葉月にアピールする。


「ええと……『お ま え が い う な』と。偉そうにしないでください」


 小人の小さな額を指で弾いた。それだけでコロコロと小人は五十音の紙を転がる。これは声を出せない小人と意思を疎通させるための道具だ。最初は文字を与えて並べさせていたのだが、一文に同じ字を入れられると対処できないため、このような形になった。


 そして、明確なコミュニケーションが取れるようになってわかったのは、意外と小人は口が悪いということだ。葉月は今年度の初めに知った。


「そんなに生意気な口を叩くなら、もう栞に返事を書いてあげませんよ」

 冷たく放たれた葉月の言葉に、小人は急いで五十音表を走り、訴える。


『ご め ん』

「よろしい」


 膝をついて懇願する小人を見て、気分を良くしたのか葉月は得意げな顔で再び栞に文字を書き始めた。それは本に挟むために用意した栞だ。そして、葉月が書いて、小人が考えている栞でもある。


 葉月が退屈を満喫するために始めたのは、小人の代筆だ。


 普段は自分の書いた文字を与えて遊ばせているのだが、それだけでは飽きるということで、別の遊びを始めることにした。

 それは、図書室の本にメッセージ付きの栞を挟むことだ。小人は一人きりの時には本を読んでおり、あらすじを書き添えるくらいは簡単にできた。


 しかし、何も返事を待っていたわけではない。不思議なことに小人は栞を挟むだけで満足していた。ただ自分の言葉を読んでくれている、と思うだけで満足だったようだ。


「もうこの前みたいに暴れてはいけませんよ」

『だ っ て へ ん じ こ な か っ た か ら』


 可愛らしい顔で文句を垂れる小人を、葉月は突っつきまくった。

 小人が図書室を荒らしたのは、結良からの返事が来なかったからだ。一度は別れの言葉を書いた栞を挟んだものの、それすらも受け取ってもらえず、小人が癇癪を起こした。図書委員と小人の世話を兼任している葉月からすれば、何とも迷惑な話だ。


 図書室荒らしがあったからこそ、結良は再び図書室を訪れ、栞を見つけられた。だが、そのせいで結良は栞の内容を見過ごし、ここまで遠回りする羽目になった。何にせよ、葉月としては迷惑極まりない。


「それにしても、まさか栞の持ち主を連れて来るとは思いませんでしたよ」

『さ ん ぽ し て た ら み つ け た』

 嘘吐きめ、と葉月は小人を小突いた。


「……私以外の字は躍らせない約束だったでしょう? あまり不用意に出歩くと、オカルト研究会とかいう怪しい連中に見つかっちゃいますよ」

『や く そ く や ぶ っ て な い』

『あ れ は は づ き の じ』

「確かにそうですが、最後の『ありがとう』はあなたが書いた字でしょう。操れもしないくせに自分の字まで引っこ抜いて、迷子にさせて……。そこだけでも猛省なさい」


 小人はしゅんとした様子でふらふらと文字を辿った。


『げ き お こ ぷ ん ぷ ん ま る』

「その謎の言語はどこで覚えたんですか……。ああ、言わなくて結構です。私とあなたの知り合いは一人しかいませんから」


 葉月が頭を抱えていると、ゆっくりと部屋の扉が開かれた。


「どもー、遊びに来たよー」

 能天気な声が響いたと共に、葉月は慌てて栞を隠した。


「あれ、どしたの? なんか隠した?」

「い、いえ、隠してません。隠してませんよ。ねえ?」

『お お う』

 明らかに挙動不審だったが、結良は特に気にした様子もない。すっかり慣れた足取りで本の山をすり抜け、葉月の正面に座る。


「今日はまだ栞なかったけど、せっかくだからここにきた」

「そうですか。もう少し待てば挟まれると思いますよ」

「そっか。じゃあ、今日はここで遊んで帰ろっと」

 結良はぐったりと机にもたれた。本を避けながら倒れ込むあたり、やはり慣れている。


「好きにしてください」

「好きにするー」

 にへらと笑い、結良は葉月をじっと見つめる。


「なんですか?」

「いやー、葉月さんみたいな友達って初めてだなーって思ってね」


 友達。そう呼ばれた。自分は知り合いと呼んだ彼女は自分を友達と呼ぶ。


 どちらが正しいのだろう。葉月は考えてみたが、結局答えは出なかった。はっきりさせる時がくればそうすればいい。それまでは、知り合いでいいだろう。


「よーし、小人さん、今日も文字を躍らせろー」


『が ん ば る よ』


「やめなさい」


 葉月の制止も聞かず、小人は結良の期待に応えた。

 今日も栞につづられた想いが、誰かと誰かを繋いで、輪を広げて、踊りまわる。

 その輪の中で、笑い続ける彼女たちがいる限り。いつまでも。いつまでも。

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躍る想い ゆーなみ @yura_yura_nanami

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