第9話 突然の…
その後、出勤したときに渡辺さんと会っても、彼は何事もなかったように働いている。
この前バイト終わりに話した時の渡辺さんは、俺のことを拒否したわけではなかったけど、詮索されるのは嫌そうだったから今は俺からは何も言えない。
このまま何も見なかったことにして終わらせたほうがいいのだろうか。そんなことを考え始めたときに限って状況というのは変わるものだ。
渡辺さんの演奏を見てから約一月がたつ週末、舞台となるのは司だった。
夕方、週末の買い物客の波が少し落ち着いた頃。ショウウィンドウの前に一人の女性が立った。
「いらっしゃいませ。」
俺はいつも通り挨拶をして注文を聞きに女性のほうへ向かった。しかし、女性が話しかけたのは俺ではなく、渡辺さんだった。
「雪!こんなところでまだ働いていたのね。もし指に何かあったらどうするの?」
「………百合子さん!…なんでここにいるの?」
渡辺さんに百合子さんと呼ばれたその女性はアイボリーのワンピースの上に紺のロングコートを着た、上品なイメージだった。俺の母さんと同じくらいの年齢だろうか。
「雪、ここで働いてる暇があったら練習をしないと次の演奏会の時にお客様を満足なんてさせられないわ。」
「でも百合子さん、少しくらいは自由な時間がないと―」
「でも雪はピアノが好きなんでしょ。ならピアノを弾いていればいいじゃない。私はピアノを弾いている雪が好きなのよ。」
(何だか気の強そうな人だ。そもそも渡辺さんだってもう大人なのに、なぜここまでいろいろ言われているんだろう。)
俺はそう思いながらも口をはさむこともできずに二人を見守っていた。
「……そうだね。」
絞り出すような声でそう言った渡辺さんの表情を見て、俺ははっとなった。その表情はショッピングモールで見た演奏しているときの渡辺さんの悲しそうな微笑だった。
俺は二人の関係も知らないし、渡辺さんがどんなふうにピアノと関わってきたのかも知らない。けれどこの百合子という女性は、渡辺さんが演奏中に見せる表情に確実に関係している。俺は確信した。
「雪、それがわかっているなら店長か社員に次回から来られないと伝えてきなさい。出来たら今日もすぐ帰らせてほしいくらいだけど…」
「百合子さん…でも…俺は―」
「雪が言えないなら私が言ってあげましょうか?」
「……いいよ。言ってくる。」
そう言って渡辺さんはバックの厨房に入っていった。
俺はその渡辺さんの寂しそうな背中をほっておくことができなくて、彼の後を追ってバックに入った。
俺がバックの扉を閉めると、渡辺さんに呼ばれた店長が振り返るところだった。
「ん?なぁに?渡辺君」
「店長あの―」
「渡辺さんちょっと待ってください。店長、申し訳ありませんが今少しだけ渡辺さんと話す時間をいただけませんか?」
「小野田君までどうしたの?」
「すみません。ほんと今回だけなんで、給料から自給引いてもらっても構わないので少しだけ時間をください。」
「……小野田君…何があったかわからないけど緊急みたいだからいいよ。でも今回だけだからね。…あと後で俺にも何があったか話せるところまででいいから話すこと。俺も一応大人だから相談とか乗れるし。いいね。」
「……わかりました。ありがとうございます。」
「じゃあ俺が表出とくから終わったら声かけて。」
「わかりました。」
そう言って店長は厨房から出て行った。
夜風のメロディ 和泉海 @kai-5963
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