第7話 手をのばす
「…あの、俺この前の土曜日に買い物に行ったんです。」
「うん。」
「そこでちょうど、渡辺さんを見たんです。」
「え?」
「ピアノの演奏してましたよね?…ピアノやってるんですね。」
「……見てたの?」
「…はい。」
渡辺さんの表情が一気に曇った。やはり何かピアノを弾いてる時の表情には意味があるのだろうか。
「…たまたまだったんですけど。」
「…そっか。どうだった?あの日はちょっと調子が良くなかったから、うまく弾けてたかどうか不安で。」
そう言いながら笑ってるけど、どこからどう見ても苦しそうな表情だった。
「…十分きれいでした。俺はピアノとかやったことないからよくわかんないけど…。でも俺―」
「そっか。ならよかった。」
渡辺さんはあまりこの話題について触れて欲しくなさそうだった。だけど俺は、苦しそうな渡辺さんの方がもっと嫌だった。さっき俺だって助けてもらったし、俺だって渡辺さんを助けたい。だから聞いてみた。
「渡辺さん。」
「何?」
「…ピアノ楽しいですか?」
「え…。」
「失礼な質問だってことはわかってます。あんなに弾けるんだからピアノが渡辺さんにとって特別なのものなのかなとも思います。でも、俺が見た渡辺さんはすごく寂しそうで、苦しそうでした。」
「…。」
「あの時だけのことだったのかもしれないけど…でも、もし苦しいことがあるなら、話してもらえませんか?俺なんかで申し訳ないけど、話してくれたら何か力になれるかもしれない。」
どのくらいの沈黙があっただろう。長い沈黙の後、渡辺さんが重そうな口を開いた。
「…俺、ピアノは好きだよ。」
「…。」
「本当にピアノは好きなんだ。ただコンクールとか競うことに向いてないし、優勝者として紹介されて緊張しちゃったんだと思う。だから大丈夫。」
そう言っている渡辺さんはうつむいている。手を握り締めて何かを我慢しているようだった。
けれど背の高い渡辺さんの表情を、背のそんなに高くない俺は簡単に見ることが出来た。
「渡辺さん、泣いてるんですか。」
俺はあまり自分の前で他人に泣かれたことがない。だから人が泣いてしまったらきっと、どうしていいかわからなくなると思っていた。
でも、実際のところは自分でもびっくりするくらい落ち着いていた。何があったのかは知らないけれど、どこかで渡辺さんの本当の気持ちが予想出来ていたのかもしれない。
「渡辺さん。無理しないでください。俺は気にしませんから。」
渡辺さんは、はっと顔を上げた。
「え?」
「渡辺さんがピアノが好きなのは、演奏を聞いて何となく伝わってきました。好きな事って、やってると楽しいですよね。…だけど俺がみた渡辺さんは、楽しそうじゃなかったんです。だから、何かピアノその物じゃないところに理由があるのかもしれないと思って聞いてみました。
俺なんか、ただのバイト先の同僚だし、話してくれるかわからなかったけど、苦しそうな渡辺さんはほっとけなくて。」
そう言って、俺は肩をすくめた。渡辺さんは涙があふれる瞳を開いて、こちらを見つめている。
「は、るちゃん…」
「え?」
「はるちゃん!!」
渡辺さんは、すごい勢いでこちらに飛びついてきたと思ったら、俺に抱き着いて泣き始めた。
(しかも、はるちゃんって。)
俺の下の名前、しかも女の子みたいなニックネームを呼びながら泣いている渡辺さんは何だか背の高い子どもみたいで、申し訳無いと思いながらも思わずわらってしまった。
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