第7話 盤外の戦い
「……皇帝陛下」
「どうした」
手の治療を終え、そして湯浴みをしている最中のエルキュールのもとを訪れたのは……
一糸纏わぬ姿をしたルナリエだった。
「まだ明るいが?」
「ありがとうございます。陛下」
ルナリエはそう言うと、頭を深々と下げた。
エルキュールは小さく、鼻で笑った。
「何のことだ?」
「ファールスとの戦争、本来ならば講和するのが賢明な判断」
ルナリエの言葉に、エルキュールは不愉快そうに眉を上げた。
しかしルナリエはそんなエルキュールに臆することなく、その瑠璃色の瞳で彼を見つめる。
「しかし、現状で講和を求めれば……大幅な譲歩は免れない」
「何が言いたい?」
「ハヤスタン王国が講和のテーブルに乗るような事態になる」
ハヤスタン王国はレムリア、ファールスの両国にとって極めて重要な国家である。
今回、ササン八世はフラート河を渡河するという方法でレムリアへと攻め込んだが……
当初、エルキュールが予想していた通り、通常の方法であればハヤスタン王国を経由した方が早い。
これはレムリア、ファールス、双方にとって言えることだ。
またハヤスタン王国はレムリア、ファールス、黒突、北方諸国との中継貿易の拠点でもある。
そして有数の穀倉地帯でもある。
経済的な旨味も決して小さくはない。
ササン八世は間違いなく、ハヤスタン王国を要求するだろう。
ハヤスタン王国がファールスの属国になるだけならば良いが……最悪、属州に成り果てる可能性がある。
ルナリエがエルキュールに体を捧げているのは、ハヤスタン王国を守ってもらうためだ。
エルキュールはその約束を履行するため、最後までファールスと戦い抜こうとしている。
「レムリアの重臣たちは、元老院は、ハヤスタン王国を斬り捨てるように進言するはず。……あなたはその意見を封じるため、怒っているふりをした」
そしてルナリエは再び、頭を下げた。
「我が国を、我が祖国を防衛してくださり……ありがとうございます。陛下……ですが、ご無理はなさらないでください。……国土は再び、奪い返せます」
ルナリエにとって、ハヤスタン王国は何よりも大切なモノだ。
しかし……それを守るためにレムリア帝国が致命的な敗北をすれば、何もかも失うことになる。
当然、ハヤスタン王国は戻っては来ない。
「……何か、勘違いしているようだな。ルナ」
エルキュールは浴槽から立ち上がった。
そしてルナリエの手を取り、もう片方の手で彼女の頭を掴むと、その艶やかな唇に自分の唇を押し当てた。
「んっちゅ……」
「別に無理など、そもそもしていない。戦というものはそもそも……敗北することも、考慮に入れておくものだ。最後に勝てれば良い。そのための切り札は揃っている」
「……切り札?」
「まず、俺は長城は……国境の防衛線は落とされる前提で作った。落ちない要塞はないからな」
如何に難攻不落を誇る城や要塞でも、落ちることはある。
だから落とされた後のことも、エルキュールは念頭に入れて作ったのだ。
「次に……兵力差を埋めるための策もある。こちらが一方的に不利というわけではない」
元々、レムリア帝国とファールス王国との間に大きな国力差・軍事力の差があることは分かっていた。
だからこそ、数年も前からそれを埋めるための策を練ってある。
「そもそも俺はハヤスタン王国の共同統治者。つまり、ハヤスタン王国の国王でもある。ハヤスタン王国を守るのは当然」
「んっ……」
エルキュールはルナリエを抱きしめ、その白いうなじに自分の唇を這わせる。
「そして……ハヤスタン王国を相続するのは、俺とお前の息子だ。ササン八世にくれてやる道理はない」
「……はい」
エルキュールはルナリエを押し倒す。
ルナリエは上気した表情で、エルキュールを見上げた。
そんなルナリエに対し、エルキュールは淡々と要求する。
「兵力はいくらあっても足りない。ハヤスタン王国の兵も使うぞ」
「……はい、全てを捧げます。ですから、どうか」
「元より、そのつもりだ」
唇と唇が合わさった。
一方、ノヴァ・レムリア。
「シェヘラザード殿下! どこへ行くおつもりですか!!」
白銀の鎧を身に纏い、美しい金髪を靡かせるシェヘラザードを、彼女の従者たちが必死に止めようとする。
が、シェヘラザードは足を止める様子はない。
黙々と歩き、厩舎へと向かう。
「どこへ? 夫である、皇帝陛下の元へ決まっているではありませんか」
「こ、困ります! 私たちは皇帝陛下から、殿下を宮殿に留めるように仰せつかっているのです!」
レムリアとファールスとの戦争が始まると……
もっとも、立場が危うくなるのがシェヘラザードである。
レムリアの情報を、ファールスへと横流しにするだけならばまだ良い。
最悪なのは故郷の危機と義憤に駆られ、ファールスへと帰られることだ。
「ええい! 私は陛下を助けに赴くのです!! 邪魔を……」
邪魔をするな!
と、シェヘラザードが叫ぼうとした時。
エルキュールの使者と思しき人物が、シェヘラザードへと走り寄ってきた。
彼はシェヘラザードの前で、跪く。
「ご無礼をお許しください。ことは火急を……」
「何ですか?」
「皇帝陛下からのご勅命です。シェヘラザード殿下は至急、オロンティア市へと向かうようにとのこと!」
その言葉にシェヘラザードの従者たちは目を見開いた。
一方、シェヘラザードは不敵な笑みを浮かべる。
「それでこそ、陛下です。……さあ、馬の支度をしなさい!!」
慌ただしく、従者たちがシェヘラザードの馬を引っ張りだしてくる。
その間、シェヘラザードは首に下げていたロザリオを手で握りしめた。
「親不孝な娘で申し訳ございません。お父様、お母様。ですが……私は主と陛下に命を捧げた身。
……ご理解のほどをよろしくお願いいたします」
斯くしてシェヘラザードはオロンティア市へと、向かった。
一方、ハビラ半島にある、とある都市国家。
数あるレムリアの同盟国の一つ。
その軍港にはレムリア帝国の大艦隊が並んでいた。
そのうち、一際大きな旗艦へと乗り込むのは……青い瞳の、どことなくエルキュールに容姿が似た男。
レムリア帝国海軍総督、クリストスだ。
彼はハビラ半島における制海権の確保、そして海賊の拿捕のため、ルベル海で活動していた。
地味ではあるが……レムリア帝国の海上交易の安全を守る、重要な職務である。
「皇帝陛下も中々、無茶な命令をする」
エルキュールがクリストスに命じたことは一つ。
艦隊を率いて、ファールス王国の領海へ侵入。
敵を引き付けろ、ということだ。
勿論、兵を割いている余裕はないため上陸部隊は存在しない。
故にただの牽制に過ぎないが……
首都からほど近い沿岸部に大艦隊が出現すれば、否、ファールス王国へレムリア帝国の大艦隊が向かっているという情報だけでも、ササン八世には戦略的な圧力を掛けることができる。
「危険な航海になるが……しかしこの国の命運をかけた戦い。何よりも久しぶりの見せ場! 必ずや、レムリアへ勝利を齎して御覧に入れましょう」
斯くしてレムリア帝国の大艦隊が港を出港。
ルベル海を通り、ハビラ半島を回り込み……ファールス王国の領海へと、進み始めた。
さて、それよりも少し前。
シェヘラザードがエルキュールのもとへ駆けつけようと覚悟した頃……
レムリア帝国外務大臣トドリスとノヴァ・レムリア総主教ルーカノスは表情を緊張で強張らせていた。
「まさか……この計画を動かすことになるとは、思ってもいませんでしたな」
「五年前から練っていたこの計画が無駄ではなかったことを喜ぶべきか、嘆くべきか……後者ですな」
トドリスとルーカノスは苦笑した。
「姫巫女聖下のご到着まで、あと少し。その時まで私は公会議のための準備をしておきましょう」
「では、私は各国大使との調整と交渉を行います」
二人はそれぞれの仕事を開始した。
さて……その翌日。
フラーリング王国の王宮には、ある情報が齎されていた。
それは……
「
七勇士の一人、『知恵』のナモは主君であるルートヴィッヒ一世にそう伝えた。
「ふむ。……開戦の知らせはすでにエルキュール陛下からすでに通達を受けていたが……どう見る、ガヌロン」
七勇士の一人、『正義』のガヌロンにルートヴィッヒ一世は尋ねた。
するとガヌロンは非常に卑劣そうな笑みを浮かべた。
「少なくとも、戦況は芳しくないのは確かですなぁ。敗戦した……とまでは言いませぬが、少なくとも兵力では劣っているのでしょう」
「ふむ。……あのレムリアが兵力で劣る相手とはな。ファールスとは恐ろしいものだ」
レムリア帝国は総兵力では、総動員可能兵数ではフラーリング王国(帝国)よりも遥かに勝る。
が、ファールス王国はそれをさらに超えるほどの兵力を有しているというのだ。
この両国と比べれば、ルートヴィッヒ一世は井の中の蛙である。
もっとも、井戸の中から出るつもりは毛頭ないのだが。
「ふむ、つまり……現在、レムリア帝国は手薄ということか」
ルートヴィッヒ一世は不敵な笑みを浮かべた。
「そう言えば……以前、ファールス王国には恩があったな。かの国の助太刀がなければ、我が国は敗退していた」
およそ五年前。
エデルナ王国での戦争で、フラーリング王国がレムリア帝国に引き分けまでもっていくことができたのは、背後からファールス王国が圧力を掛けたからである。
現在のレムリア帝国とファールス王国も、その出来事が起因している可能性がある。
「ここは一つ、ファールスに礼をしてやらねばならんな」
ルートヴィッヒ一世が呟くと、七勇士の一人、『信仰』のチュルパンは己の主君に尋ねる。
「ということは、陛下。もしや……」
「国同士の関係に、真の友好など存在しないということだ」
そう言うと、ルートヴィッヒ一世は立ち上がった。
「五年ぶりの大戦だ!! レムリアへ向かうぞ!!」
さて、それからおよそ一か月。
フラート河近くのとある都市にて、ササン八世は戦略を練っていた。
そこへベフナムがやってきた。
「国王陛下……良いニュースと悪いニュースがありますが、どちらからお聞きになりたいですか?」
「では、良いニュースから頼むよ」
ササン八世がそう答えると、ベフナムは小さく頷いた。
「東部より呼び寄せた兵力十万、及び三煌将があと三日で到着する模様です」
「ふふ、そうか」
三煌将。
ササン八世配下の三人の名称である。
彼らが八忠将に数えられていないのは、厳密にはササン八世の配下ではないからだ。
従属国の王、もしくは亡命してきた王族によって構成されている。
しかしその能力は折り紙付き。
基本的には東部で活躍していたためレムリア帝国ではあまり名が知られていないが……その能力は八忠将と遜色ない。
「ところで、
「抜かりなく。……数は四百、揃っております」
「そうか。……さて、レムリアはどう対処するかな」
ササン八世は愉快そうに笑った。
そしてベフナムに尋ねる。
「悪いニュースは?」
「我が国の兵站部隊が、レムリア軍による度重なる奇襲攻撃を受け、甚大な被害が出ております。一部の作戦行動に大幅な遅延が生じるかと」
「むむ……」
当然、地の利はレムリア帝国にあるのだから多少の奇襲攻撃は考えられる。
しかしそれが幾度も成功し、そして戦略に多大な影響を与えるほどの戦術的な敗退を続けるというのはおかしい。
それほどまでに無能な者を将として用いたつもりはない。
「兵站部隊は比較的安全な道を通らせていたはずだが、どこから攻撃を仕掛けてきているかも、分からないのか?」
「はい、陛下。これは私の推測ですが……」
「敵側の精霊魔法、か」
ササン八世の呟きに対し、ベフナムは頷いて肯定した。
そしてこのササン八世の推測は当たっていた。
実はエルキュールは東部国境近くの要塞や長城郡の一部に、『アスモデウス』や『シトリー』の幻覚魔法を使っていたのだ。
つまりエルキュールが作り出した東部の防衛線には、エルキュールにしか分からない致命的な欠陥がいくつも存在する。
その欠陥を突く形で、エルキュールはニアやジェベに対し、ファールス王国軍の兵站を攻撃するように命じた。
如何にササン八世と雖もすべての防衛線をその目で確かめるというわけにはいかない。
レムリア帝国軍が残した防衛線の地図とにらめっこをするしかないが……
直接その目で見て、調べない限り、『アスモデウス』と『シトリー』の幻覚は分からない。
「どうやら、エルキュール一世は長城を落とされ、利用されることも考慮に入れていたようだな」
ササン八世はエルキュールの用意周到さに、舌を巻いた。
それから顎に手を当てる。
「しかし、意外だな。エルキュール一世は随分とやる気だ。こちらの兵力は三十万。レムリアは……どう絞り出しても、二十万前後が限界だろうに。講和に応じてこないとはな」
ササン八世は、三十万の兵力を揃えた段階でレムリアは降伏するだろうと考えていた。
今ならば、ハヤスタン王国をファールスへ引き渡すだけで、講和を結ぶ準備がある。
「意外と情が深い男かもしれませぬな」
「ふむ、ハヤスタンの女王に骨抜きにされているということか? どちらかと言えば、ただの負けず嫌いな気がするがな」
自分も昔はそうだった。
と、ササン八世は昔を懐かしむように目を細めた。
「まあ、良い。あちらが応じてこないのであれば……このまま、シュリア属州を奪ってしまおう」
十万の兵力差をひっくり返すのは、そう容易いことではない。
ササン八世とエルキュール一世の間に大きな能力の差があれば話は別だが……
両者の間にはそう、大きな差異はない。
となれば、純粋な兵力が物を言う。
加えて……
「フラーリング王が密約通りに動けば、レムリアは東西を挟み撃ちにされる」
五年以上前。
ファールス王国とフラーリング王国は対レムリアに関するいくつかの密約を結んでいた。
フラーリング王国はドゥイチェ王国と相対する上で、ファールス王国は黒突やシンディラと相対する上で、背後を突いてくる可能性があるレムリア帝国の存在は無視できないものであった。
故に片方がレムリア帝国と戦争状態になった時は、もう片方が軍を展開してレムリア帝国を牽制する計画となっている。
五年前、ササン八世が軍を動かしたのはそういう密約に則ったからである。
「ルートヴィッヒ一世は動くでしょうな。あの男は平気で人を裏切る男です」
「騎士の中の騎士、だったか? まあ、フラーリングにおける騎士とは、利益で動く存在のようだから、間違いではないかもしれんがな」
もっとも……
ルートヴィッヒ一世が参戦しようと、しなかろうとも、ササン八世の勝利は揺らがないのだが。
斯くして……
賽は投げられた。
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