第3話 サルデルの戦い

 エルキュールがニアらを率いて、フラート河へ向かっている時。

 すでにササン八世率いる五〇〇〇〇の軍勢は、フラート河まで到着していた。


「ほう……レムリア皇帝がこちらに向かっている、か。中々、勘が鋭いな」


 部下からの報告を聞いたササン八世は好戦的な笑みを浮かべた。

 一度、オロンティア市に兵を集結させたレムリア皇帝は軍を二つに分け、腹心に都市を任せると、自身はササン八世の迎撃のために出撃したとのことだった。

 

 彼が率いている兵力は、およそ三〇〇〇〇。

 とはいえ、道中で屯田兵を糾合しながら進んでいるらしく……ササン八世と接敵する時には、その規模は五〇〇〇〇程度になっている。

 とのことだった。


「進軍しながら兵を集めるなんて……随分とレムリア軍は変わりましたね」


 驚きの声を上げたのは、美しい長耳族エルフの女性だった。

 鋼鉄の盾と、ランスを手にしている。

 しかし何よりも特徴的なのは……その大きな胸だった。


 ヘレーナ・ウァレリウス・コーグ。

 ファールス王国の王妃にして……八忠将の一人。

 『盾』のヘレーナだ。


 彼女はシェヘラザードの母であり、そして元々レムリア帝国の出身である。


 故にレムリア帝国の軍事制度については詳しい……はずだが、しかし彼女の常識の中では、レムリア軍は進軍しながら兵を集めるなどというような、器用な真似はできない。


 言うは易く行うは難し。

 兵の士気と練度、何より優れた道路交通網と兵站施設、官僚制度、質の良い下士官などが揃っていなければこのような真似はできない。


 かつてのレムリアにはそれがなかった。

 しかし……今のレムリアにはそれがある。


「屯田兵はまともに実戦を経験していないため、それほど質は高くない……という想定は改めた方が良いかもしれませんな。陛下、ヘレーナ殿下」


 そう言ったのは中年程度に見える長耳族エルフの男性。

 ダレイオス・ダルマレス。

 八忠将の一人、『鎚』のダレイオスだ。


「なに、元より油断などはしてはおらん。……俺の大切な娘の、嫁ぎ先だからな」

「そうですね。これくらいはして貰わなければ……シェヘラザードに相応しい夫とは言えないでしょう」

「……」(ツッコミ待ちなのだろうか?)


 その夫の国にこれから攻め込むんですけどね。

 と、ダレイオスは思わず苦笑した。


 それからササン八世はもう一人の八忠将へと声を掛けた。


「シャーヒーンよ、お前は以前の雪辱を果たすのだ。良いな?」

「はい、陛下」


 おそらくは百を僅かに越えた程度に思われる、長耳族エルフの男性。

 シャーヒーン・シャルルカン。

 八忠将の一人、『剣』のシャーヒーンである。

 かつて、二十年前の戦いではエルキュール一世に破れた過去があり……今回はそのリベンジということになる。 

 故にやる気は十分の様子だった。


「まあ、しかし……この策はさすがのレムリア皇帝も見破れまい。これをレムリア相手にやるのは、初だからな。やるぞ、ダレイオス」


「はい、陛下」


 二人は揃って、魔力を練る。

 呼び出すのは……自らが契約している、悪魔たち。


「灌漑と洪水の大精霊、バエル!」

「大地と地震の大精霊、アガレス!」

 

 ササン八世とダレイオスは、悪魔の名を叫ぶ。

 どちらも七十二柱の大悪魔、大精霊だ。


 ……同じ大精霊と雖も、その効果や規模は様々だ。


 例えばカロリナが契約しているエリゴスは高燃費であり、また使い勝手が良い。

 エリゴスは魔力の他に月経で排出される血液を、契約の代償としている。

 契約の代償は少なく、それに比例するように効力も限定的ではあるが……気軽に呼び出し、使える点が魅力だ。


 それに対し……バエルとアガレスは、その使用に多大な対価を要求する。

 その都合上、その大魔法は数十年に一度しか使用できない。

 故に使いどころの見極めが重要だが……

 代わりに効力は絶大だ。


「バエルよ! 洪水を起こし、大地を飲み干せ!」

「アガレスよ! 大地を揺らし、堤を崩せ!」


 まず発生したのは、大河のうねりだった。

 フラート河の水が不自然な波を起こし始めた。

 それは徐々に……巨大になっていく。


 次に発生したのは極めて局所的な地震だった。

 強烈な揺れと衝撃波が、フラート河のレムリア側に設けられた堤を直撃する。


 堤が崩れるのと同時に、大洪水がそれを一瞬で押し流した。


 あっという間にレムリアの国土が水に覆われていく。

 人も農地も……そして要塞も長城も濠も。


 その全てを水は洗い流していった。


「ワハハハハ!! 二十年前、我が国の灌漑設備を破壊してくれた礼だ!!」


 二十年前、侵攻してきたレムリア軍によって国土を荒らされたことを根に持っていたらしいササン八世は愉快そうに大笑いした。

 それからすぐに真剣な表情へと、戻る。


「決壊したのは堤防のごく一部。そしてまた、破壊された防衛線もごく一部だ。あのレムリア皇帝の作った、防衛線だ。ぐずぐずしていれば、あっという間に補修されてしまうだろう」


 いくら大精霊とはいえ、地形を作り変えてしまうほどの大災害を発生させることはできない。

 いや、もしかしたらできるのかもしれないが……

 少なくとも人間にはそれだけの対価を支払うことはできない。


 故に発生した洪水は極めて局所的なモノ。

 防衛線に発生した穴も、その全長から見れば針の穴のようなサイズだ。


 だが……

 穴さえ開けられれば、後はどうとでもなる。


「行くぞ。河を超える!!」

「「は!!」」


 斯くしてファールス王国軍はレムリア帝国の国土に足を踏み入れた。





 ファールス王国軍が防衛線を突破し、シュリア属州を突き進んできているという情報を仕入れたエルキュールは思わず舌打ちをした。


「謎の洪水ね……呑気に水でも貯めていればさすがに気付くし、精霊魔法でも使ったんだろうな。……全く、何でもありだな。魔法は」


 エルキュールは自分自身のことを棚に上げ、そう言った。

 長耳族エルフは遥か昔から精霊魔法を使ってきたが……

 しかしどの悪魔がどのような魔法を使うのかの情報は、それほど出回っていない。


 水を操れる。

 火を操れる。

 大地を操れる。


 などというふんわりした情報ならば分かるが、その能力の詳細については不明瞭なところが多い。


 ……エルキュールがファールスを相手に戦いたくなかった理由が、この精霊魔法だ。

 何をされるか、全く予想ができないからだ。

 

「しかし陛下。洪水と言っても、あくまで被害は局所的ということだったはず。……その局所的な被害によって、国境線に張り付けていた兵が使い物にならなくなるということが、あるのですか?」


 カロリナは疑問を口にする。

 エルキュールがファールス王国との国境線に気付いた長城は、数十キロにも及ぶ。

 当然、それを守る兵も相応の数だ。


 破壊された長城は、そのごく一部。

 全体の長さから考えると、針の穴程度だ。


 その小さな穴のせいで、防衛線が無効化されてしまったということが、カロリナにはイマイチ、しっくりこなかった。

 

「その穴が致命的だ。長城は一時的に敵を足止めるために存在する。その足止めができなくなった以上、長城はその機能を喪失する。そして長城に張り付かせていた兵力は全て、遊兵となってしまったというわけだ」


 これは長城という防衛設備・システムが生来的に持つ欠陥だ。

 機動力に欠けているため、一度でも敵を逃がすと追いかけられない。


「一五〇〇〇〇のファールス軍も突如進路を変えて、西へと動き始めたとのことですが……」

「このままだと、内側に入り込んだ五〇〇〇〇と外側から来る一五〇〇〇〇に、長城の兵たちは挟み撃ちにされますね」

「……補給路を構築されると、厄介ですね」


 ソニア、アリシア、ニアがそれぞれ眉を顰めながら言った。


 現在、レムリア帝国領へと侵攻したファールス王国軍は……

 捉えようによっては孤立無援の状態だ。


 彼らが突破してきた“穴”は、エルキュールの構築したシステムが機能していれば、すでに塞がれているはずだからだ。

 長城は内側から攻められることを想定していない……とはいえ、それでも敵をある程度、閉じ込める程度はできる。


 しかし内外から同時に攻め込まれれば、話は別。


 長城の一部が“占領”されれば、ファールス王国軍はそこから呼吸ができる。

 レムリア帝国領内で、軍事行動を自由に行うことができるようになる。


 戦略的な主導権を奪われることになる。


「よし、これよりファールス軍五〇〇〇〇が一五〇〇〇〇と合流する前に、これを討つ!」


 エルキュールは即座に決断し、目標地点への進軍を開始した。





 斯くして……

 両軍はサルデルという村の付近で、接触することとなった。

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