第2話 戦線突破
「規模はどれくらいか、分かっているか?」
「正確には……はっきりとは、言えません。ですが十五万を超すのは、間違いありません」
十五万。
それはレムリア帝国の常備軍の総兵数に匹敵する規模だった。
エルキュールの額に冷たい汗が伝う。
「……上限ではなく?」
「下限です。陛下」
トドリスの返答にエルキュールは思わずため息をついた。
制度が始まって初となる、屯田兵の本格的な動員も視野に入れなければならないほどの大軍だ。
「まさか、ササン八世がここまで過剰反応するとはな」
「……想定外でしたね」
ササン八世はああ見えて、意外と慎重なところがある。
ファールス王国に匹敵するだけの軍事力を持つ、レムリア、黒突との正面切っての戦争は避け、シンディラの小国郡の攻略に精を出し続けていたところから、それは明白だ。
彼は絶対に勝てる戦しか、やらない。
……勿論、それはエルキュールも同様である。
しかしエルキュールの敵は、ブルガロン、チェルダ、そしてフラーリングと決して弱い相手ばかりではなかった。
勝てる算段はついていたものの、何かの拍子があれば負けてしまう可能性を内包する……賭けの要素も多々あったのは否めない。
もっとも、これはレムリア帝国の場合はその地理的な制約から攻勢に出ざるを得なかったという事情があったからなのだが。
閑話休題。
ササン八世は慎重な男。
ハビラ半島への本格的な軍事介入は避けるだろう……というのがエルキュールの予想だったのだが、外れてしまった。
「うーむ、そうまでして守る価値がハビラ半島にあるか? ……結局、主要交易路がファールス国内を横断している点は変わらないと思うのだがな」
ハビラ半島はあくまで、迂回路である。
加えて様々な部族が入り乱れているため、治安も良いとは言えない。
多くの商人にとっては依然としてファールス王国の方が遥かに安全だ。
所詮、迂回路は迂回路であることに変わりはない。
また……ハビラ半島経由で運ばれてくる商品は、陶磁器や香辛料など、重くて安い商品が主だ。
これに対し、ファールス王国内を横断する交易路の商品は、宝石や絹など軽い、またはかさばらず、そして高額な商品が主である。
つまり微妙に運ばれてくる商品の種類が異なる。
故にハビラ半島をレムリアが抑え込んだからと言って、ファールス王国が今すぐに困窮するということはない。
エルキュールが「ササン八世は動かないだろう」と読んでいたのは、そういう理由からだった。
レムリアにとっては重要な場所だが、ファールス王国にとってはそうでもないのだ。
「……我々の想定以上にファールス王国の財政事情が芳しくない、ということでしょうか?」
「シンディラの征服に成功したというのにか?」
確かにエルキュールは絹や砂糖の国内生産や、骨灰磁器の生産などを行うことでファールス王国との交易に依存しないような体制を作ろうとしてきた。
だが……その程度で大陸を横断する交易路を支配するファールス王国の経済基盤が揺らぐとは、エルキュールは思っていなかった。
シンディラでの成功を考えれば、むしろその国力は増大していると考えても良い。
「まあ、何にせよ。戦争が発生するリスクについては、元々想定していた」
落ち着き払った表情でエルキュールは言った。
確かにエルキュールはササン八世は動かないと予想していて、そしてその予想は裏切られた。
だが全くの想定外というわけではない。
ササン八世が戦争を仕掛けてくる可能性については、常に考慮に入れてある。
事実、国境線沿いのフラート河には強固な防衛線を敷いていた。
そう易々と突破することはできない。
「将軍たちを招集するぞ」
エルキュールは開戦を決意した。
それから……
「トドリス。これから……セシリア聖下に依頼を出しておこうと考えている」
「陛下、まさかそれは……」
「まあ、もしもの備えというやつだ。あとでルーカノスも交えて、協議を行うぞ」
エルキュールがそう言うと、トドリスは恭しく頭を下げた。
「承知しました。陛下」
「まずは相手の精霊魔法に関してだ」
現在、ハビラ半島へ遠征に出かけてしまったダリオス、オスカル、ジェベを除く将軍たちを前にして、エルキュールはそう切り出した。
……尚、この三名に関しては早々に帰国命令を出した。
国土の防衛が最優先である。
「すでに手元には、間諜を通じて調べた敵将の名と契約しているであろう精霊、そしてその魔法が記されている」
ササン八世は恵の精霊『バエル』と炎の精霊『ベリアル』。
カワード・カルディンティナは槍と老獪の大精霊『フルカス』。
シャーヒーン・シャルルカンは氷と学問の大精霊『クロセル』。
へレーナ・ウァレリウス・コーグは武具と腐敗の大精霊『サブナック』。
キュロス・キュレイネスは未来の大精霊『バルバトス』。
アルタクセルクセス・アルタクスは戦争の大精霊『ハルファス』。
ダレイオス・ダルマレスは大地の大精霊『アガレス』。
ベフナム・ベフェラードは治癒の精霊『ブエル』。
スメルディス・スクゥルディスは音楽の精霊『アムドゥスキアス』。
このうちレムリア帝国がもっとも詳しいのはヘレーナが契約している精霊だ。
元々、彼女はレムリア帝国の将軍なのだから当然である。
この『サブナック』は武具を酸のような霧で、溶かす能力であることが分かっている。
「『フルカス』と『クロセル』については、すでにこちらも十分な戦闘経験がある」
八人の将軍のうち、カワード将軍とシャーヒーン将軍は以前、エルキュールと対決している。
よって両者の精霊魔法についてもある程度、能力が知れていた。
「陛下、カワード将軍は私が抑えます」
「ああ……おそらく、君でなければ難しいだろうな。頼むよ」
エルキュールはカロリナの言葉に答えた。
『フルカス』は触れた物を破壊するという能力を持つ武器精霊である。
同じく強力な武器精霊である、カロリナの『エリゴス』でなければ抑え込むのは難しい。
一方で『クロセル』に関しては、ガルフィスが剣を交えたことがあった。
「『クロセル』は氷を操る精霊、だったが……ガルフィス。お前が契約している精霊と似ていると、判断しても良いか?」
「そうですね。私と同じ……自然物を操るタイプと考えてよろしいかと」
「ふむ……」
ふと、湖を氷結させて奇襲攻撃を行う……ということはできるのかと、エルキュールは考えた。
もっとも、大規模な地形の変更は相当量のエネルギーを用いる。
炎のように勝手に燃焼し続けるようなものとは異なり、氷は常温では常に融解し、脆くなる。
故に大河を氷結させ、数十万の大軍を渡河させることは不可能だ。
少数ならば、もしかしたら可能かもしれないので警戒しておかなければならないが。
他に詳しい情報が分かっているのはベフナムの『ブエル』である。
しかしこれは治癒に関する精霊であり……
あまり戦闘に於いて生かされるような魔法は扱えないだろう。
そもそも使用者本人が高齢だ。前線に出てくることもない。
「他の将軍の精霊に関しては、資料にある通り……詳しいことはよく分かっていない」
キュロスの『バルバトス』は弓に関する精霊であり、命中精度が上がる……らしい。
アルタクセルクセスの『ハルファス』 は斧の精霊で、一撃で数十人を薙ぎ倒せる……らしい。
スメルディスの『アムドゥスキアス』は笛の精霊で、音を使って攻撃してくる……らしい。
と、この三名に関しては辛うじて情報がある。
ササン八世の契約している精霊のうち、『ベリアル』はいかなる物も燃やし尽くす黒い炎を操るという極めて強力な精霊であることは分かっているが、反対に『バエル』に関する情報は少ない。
ダレイオスの『アガレス』に至っては、鎚の武器精霊であるということは分かっているが、その能力は一切不明。
そもそもファールス王国は国土が広大であり、戦線は東西南北に存在する。
レムリア帝国と交戦経験がある将軍に関しては情報も豊富にあるが、しかし黒突やシンディラとの戦いで名を上げてきたような将軍に関しては、どうしても情報が得にくい。
シンディラともなると人を派遣するだけでも精一杯で、伝聞が殆どだ。
「まあ……相手の手の内は分からないが、相手もこちらの手の内に関してはよく分かっていないだろう。分からぬことを考えても仕方がない」
精霊魔法には“初見殺し”が存在する。
分からない物をいくら議論したところで建設的な話はできないため、警戒するに留め……エルキュールは話を次に進めた。
「次にファールス王国の進行ルートについてだ。考えられるのは……フラート河を渡河し、真っ直ぐシュリア属州へと攻め込んでくる最短ルート。もう一つハヤスタン王国を経由してくるルートだ」
もしエルキュールがササン八世だったら、後者を選ぶ。
敵が守りを固めている河を渡るのは、そう容易いことではない。
特にエルキュールが念入りに固めた長城や堀があるのだから、尚更だ。
それに対し、ハヤスタン王国経由の方が遥かに守りは薄い。
勿論、エルキュールも守りに力は注いできたが……
大河という自然の防壁があるシュリア属州方面に比べれば、攻めるには容易いだろう。
「故に敵をハヤスタン王国で迎え撃つ。……シュリア属州方面の守りは強固だ。数日ならば十分に持ちこたえられる」
もしササン八世が裏を掻いてシュリア属州方面を攻めて来れば、その時は軍の配置換えを行えばよいだけの話だ。
シュリア属州にはそれだけの防衛能力がある。
かつて、エルキュールが即位した時とは比べ物にならないほど、シュリア属州の防衛能力は強化されているのだから。
「まずは軍の大部分を、シュリア属州の州都、オロンティアへと集結。そこから敵の様子を見てから、ハヤスタン王国へと軍を動かす。……異論はないな?」
「「「は!!!」」」
将軍たちは一斉に返事をした。
斯くしてレムリア帝国の常備軍、そのほぼ全軍がオロンティア市へと集まった。
オロンティア市に集結したレムリア軍は六一二〇〇。
その内訳は歩兵三個軍団、
本来ならばさらに歩兵二個軍団と、
こちらは現在、ハビラ半島へと遠征中だ。
そうすぐには合流できない。
またエルキュールはチェルダ王国から歩兵二個軍団、ブルガロン王国から騎兵一個軍団をそれぞれ招集していた。
こちらは集まり次第、ソニアとアリシアの指揮下に収まることとなっている。
これでエルキュールが招集したレムリア帝国軍の総兵力は一四二八〇〇となる。
加えてエルキュールはミスル属州等の各地の屯田兵に招集を掛けており…
さらに現地でシュリア属州、もしくはハヤスタン王国の兵と合流することになるため、実際の総兵力はさらに膨らむだろう。
さて、肝心のファールス王国の兵力は……
「北へ向かう軍が一五〇〇〇〇、真っ直ぐ西に向かってくるのが五〇〇〇〇か」
エルキュールは地図上に示された駒を見て、眉を顰めた。
合わせて、二〇〇〇〇〇。
ファールス王国の“実力”を見せつけられ、エルキュールは戦慄する。
これだけの兵力を攻撃へと投入できるとは……末恐ろしい。
「ササン八世が直接、指揮するのが西へ、つまりシュリア属州方面へと向かう軍だそうだが。ガルフィス、お前はどう読む?」
エルキュールはガルフィスに尋ねた。
ガルフィスは大きく頷いた。
「ササン八世が直接指揮する五〇〇〇〇は、陽動でしょう」
「……まあ、そうだろうな」
フラート河の防衛線を突破するには、五〇〇〇〇は明らかに不足だ。
兵力数を考えても、一五〇〇〇〇の、北へと、つまりハヤスタン王国へと向かう軍が主力である。
「五〇〇〇〇程度ならば、持ちこたえられる。まずは一五〇〇〇〇を討ち、それから五〇〇〇〇を討つべきか……」
エルキュールが悩んでいると……
「皇帝陛下。……発言をしても、宜しいでしょうか」
ニアが発言の許可を求めてきた。
エルキュールが頷くと、彼女は小さく頷いた。
「陽動にしては、露骨過ぎるように感じます」
「……ふむ」
十五万に対して、それを下回る五万。
それをササン八世が自ら、指揮する。
陽動です、と宣言しているようなものだ。
確かに怪しい。
「……つまり?」
「十五万の方が陽動で、五万が主力である可能性も、低くはないかと。……具体的な根拠には欠けますが、用心した方が良いかと」
「……」
エルキュールはフラート河の防衛線は強固であるという、前提のもとで作戦を立てている。
だが……もし、ファールス王国側にそれを抜くだけの、作戦や兵器があったら?
五〇〇〇〇は陽動ではなく、主力となりえる。
とはいえ、これには具体的な根拠に欠ける。
やはり五〇〇〇〇が陽動で、主力の方が一五〇〇〇〇である可能性を第一に考えるべきだ。
……しかしニアの言う通り、五〇〇〇〇の方が主力である可能性も考慮に入れる必要がある。
「一五〇〇〇〇の方が、大軍であるが故に動きが遅い。またハヤスタン王国を経由する関係上、我が国に入るまでは時間が掛かる。それに対し、五〇〇〇〇はかなり素早いな」
エルキュールはすぐさま、決断した。
「軍を二手に分ける。ソニア、ニア、アリシア、カロリナ……お前たちは俺と共に来い。残る将軍はガルフィスを総大将として、このオロンティア市の留守を任せる」
斯くして、エルキュールは歩兵一個軍団、
合計、二七六〇〇を率いて、オロンティア市を出撃した。
道中、シュリア属州の屯田兵を糾合しつつ国境線へと向かうエルキュールのもとへ……
一つの情報が齎された。
それはフラート河の氾濫と……
それに伴う、一部の要塞群の機能不全である。
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