第24話 娼婦
「やぁ、ヒュパティア。調子はどうだ?」
セシリアとの結婚式のおよそ一月後。
エルキュールはアレクティア市での業務のついでに、ヒュパティアのもとを訪れていた。
ヒュパティアは美しい銀髪に、狐型の、高位
メシア教とは全く異なる、古典的な多神教の信徒であり、アレクティア大図書館の館長を務めている。
本来、異教徒であるはずの彼女はこのメシア教世界では日陰者だが……
しかしアレクティア市の一等地に、巨大な屋敷を持つことを許されていた。
「は、はぃ……つ、つわりも、お、おさまりましたぁ……」
おどおどとした調子でヒュパティアはエルキュールにそう言った。
そういう彼女のお腹は大きく膨らんでいる。
果たして誰の子か……それは言うまでもないことだろう。
「前も伝えた通り、生まれた子はメシア教正統派に帰属してもらう。が、養育に関しては君の意思に任せよう」
「は、はぃ……あ、ありがとうございます」
愛おしそうにヒュパティアは自分のお腹を撫でた。
エルキュールよりも三歳ほど年上の彼女は、もう四十歳。
とはいえ、高位種であるためか、その美貌は失われていなかった。
「ところでヒュパティア。一週間ほど前に受け取った報告についてだが……」
「は、は、はぃ……以前、焼失してしまった、あ、アレクティア大図書館の蔵書、ですが、す、全ての復元がか、完了致しました」
アレクティア大図書館。
かつて、世界を征した偉大なる大王が建設した、世界中のあらゆる蔵書を集めた巨大な図書館。
しかし不幸な事故により、甚大な被害を受けた。
だがヒュパティアと彼女を中心とする学者、そして一部のメシア教の修道士たちの活動により、ようやくすべての蔵書の復元が完了したのである。
火災が発生した時期は、エルキュールとヒュパティアが出会った時期であり……それはヒュパティアが二十歳の頃だ。
つまりおよそ二十年の歳月を必要としたということになる。
「す、全ては……陛下のご支援の、おかげです……」
「気にすることはない。本は世界の宝だからな」
などと宣うエルキュール。
とはいえ、実際のところアレクティア大図書館の蔵書の復元と修復が成功したのはエルキュールの業績によるところが大きい。
例え戦争中でも。
災害が起きても。
飢饉が発生しても。
必要最低限の資金を常にアレクティア大図書館の再建に注ぎ続けていたのだ。
いくら学者や修道士たちが本を愛しているとしても、彼らにも生活がある。
彼らが本の修復に寄与している間の収入を保証し続けたことで、蔵書の復元に成功したのだ。
「支援はこれまで通り、続けよう。……本を一つの場所に、保管し続けるにはリスクがある。次は写本と翻訳に精を出してくれ」
アレクティア大図書館に保存されている図書の中には、メシア教の教義と相性が悪いモノがある。
とはいえ、修道士たちの中にはそういう知識を取り入れ、よりメシア教の教義を洗練させようとする動きもある。
セシリアはその筆頭だろう。
エルキュールはアレクティア大図書館の蔵書の全てを写本・翻訳を行い、それを修道院やノヴァ・レムリアに建築した図書館に保存することで、後世に残せるように図るつもりだ。
「……ありがとうございます。陛下」
「気にすることはない」
エルキュールはそう言って、ヒュパティアの頬にキスをした。
およそ半年間。
エルキュールとセシリアはノヴァ・レムリア市で新婚生活を送っていた。
が、すでに西方世界とメシア教世界の名実共に指導者となったセシリアが、世界の首都たるレムリア市を長期間離れるわけにはいかない。
よって、セシリアがレムリア市へと戻る日が訪れた。
……とはいえ、その日、その時はエルキュールも共にレムリア市まで同行した。
「さて、セシリア。……レムリア市の復興に手を貸して欲しいと、そういうことだな?」
レムリア市にて。
セシリアの屋敷で、エルキュールは再度、セシリアにそう確認した。
「はい。政治はともかくとして、私も、私の側近である修道士や聖職者たちも、こういう内政は不慣れなもので」
セシリアはエルキュールを、正確にはレムリア帝国を見習い、教会をある種の中央集権的な官僚組織に整備し直していた。
とはいえ、この組織は寄進された荘園の管理や、世界中の信徒から十分の一の税を徴収することに特化している。
つまり治水灌漑や産業の振興などはあまり得意とすることではない。
そういう点ではエルキュールやエルキュールの家臣の方が、数段上を行っていた。
すでにエルキュールに対しては何度も体を捧げた身。
教えを乞うことに関して一切の躊躇はなかった。
(さて、どうしようかな)
セシリアが求めているものは、言葉によるアドバイスではないだろう。
そもそも内政や統治に関する助言は、一夜を共にした時に、ピロートークで散々にセシリアに語っている。
故にセシリアが求めているのは……
おそらく、金銭的な援助だ。
以前、エルキュール・ルートヴィッヒ一世・セシリアの三者の合意によって調印された条約には、レムリア市に関しては
・レムリア市はレムリア帝国に帰属される、正統なるレムリア帝国の領土である
・レムリア市内とその周辺地域の統治権・行政権・徴税権を含む、各種支配権はエルキュール・ユリアノスの名において、メシア教会レムリア総主教座に寄進される。セシリア・ペテロとルートヴィッヒ・フラーリングはこれを確認する
と定められている。
これは一見すると、名目上のレムリア市の支配権をレムリア帝国に委ねることでエルキュールの面子を保つような内容であるが、セシリアはおそらく、エルキュールからの金銭的な援助も狙って、この条件を考えたのだろう。
レムリア帝国の領土なのだから、金は出せ。
でも統治権・行政権・徴税権は私の物だ。
セシリアはこう言いたいのだ。
随分と図々しくなったものだなと、エルキュールはそう思った。
一方のセシリアは白々しい表情で、頬を赤らめ、僅かにその聖職服をはだけさせ、真っ白い肌をエルキュールに見せた。
「勿論……対価はお支払いしますよ」
「まるで娼婦だな」
エルキュールがそう皮肉を込めると……
以前ならば怒り狂っただろうセシリアは、余裕そうな表情を浮かべて答えた。
「否定はしませんよ? ……私の体一つで、メシア教会の今後の発展が約束されるならば、安い物です」
仮にもセシリアはエルキュールのことを好いている。
故にセシリアからすれば、このような枕営業は、実質的には得しかないのだろう。
ある種の無敵の人である。
どうしたものかと、エルキュールは頭を悩ませた。
……もっとも、このレムリア市まで同行した時点で、交渉のテーブルに着くことは……つまり条件次第で金銭的な援助をするつもりであることは、明白だった。
「レムリア市を見た限りだと……まだかつてのインフラは生きているように見える」
相次ぐ蛮族の侵入。
そして資金不足による放棄。
そして先のエデルナ戦争による戦火。
度重なる動乱によってレムリア市は確かに荒廃していたが、しかし丈夫な石材で作られた水道橋などの上水道や下水道はそう簡単には朽ちたりはしない。
故に必要なのは二つ。
「資金と技術者を派遣すれば、復興のための土台は整うだろうな」
「本当ですか? ……私の囲う人材には建築に関係する技術者はそう多くはないんです。援助を、お願いできますか?」
セシリアはそう言ってエルキュールの胸元に体を寄せた。
わざとらしく胸を押し当て、指で軽く胸をなぞる。
ぐいぐいと、自分の下半身をエルキュールの下半身に押し当てる。
「さて、どうしたものかな」
「意地悪をしないでください。エルキュール様」
上目遣いでセシリアはエルキュールを見た。
エルキュールは片手でセシリアを強く抱きとめる。
セシリアは甘い声をあげた。
「条件は三つある」
「……三つ、ですか」
セシリアはゆっくりと、目を細めた。
表情や仕草は先ほどの娼婦のような様子とそれほど変わらないが、しかし彼女の頭にあるスイッチはすでに娼婦から、政治家へと切り替わっている……エルキュールにはそう見えた。
「一つ、まずフラーリングとレムリアとの間に紛争が生じた時、レムリアに対して好意的な立場を約束して欲しい」
「……分かりました。元より、フラーリング王、皇帝というべきかもしれませんが、彼は私の支配下から抜け出そうとしていますから。彼に対し、好意的になる道理も利益もありません」
ルートヴィッヒ一世の目的は、二つの“レムリア”からの独立だ。
つまりエルキュール、セシリアからの干渉の排除を目的としている。
セシリアの方はルートヴィッヒ一世の支配する国への干渉を強めたいのだから……
残念ながら、ルートヴィッヒ一世とは利益を共有しない。
「ですが、私は表だって、ルートヴィッヒ一世と敵対はできませんよ。その点は留意してください」
セシリアははっきりと、エルキュールにそう忠告した。
現状、セシリアがメシア教会の唯一の指導者としての立場を保っているのは、姫巫女と教皇という二つの地位を兼任しているからである。
ルートヴィッヒ一世はその気になれば、自身に都合の良い教皇を立てることができる。
それほどまでに、彼は自身の王国内・帝国内における教会への支配を強めているのだ。
「勿論、分かっているさ。だから……これはそれほど、強い要求ではない」
「そうですか。なら、良いですよ」
セシリアはあっさりと、承諾した。
すでにセシリアはエルキュールの妻だ。
妻が夫を助けるのは当然のことである。
……勿論、夫が妻を助けるのも当然だが。
メシア教会とレムリア帝国、メシア教会とフラーリング王国(帝国)の関係は対照的だ。
前者は積極的に癒着し、後者は積極的に距離を保っている。
どちらが正しいかは……歴史が証明することだ。
「二つ……いざという時は、我が国を助けてくれ」
「……どういうことでしょうか」
「フラーリングとは異なり、我が国は強大な異教徒と対峙している。分かるだろう?」
一つは言うまでもなく、ファールス王国。
もう一つは……現状は友好的であるが、どう転ぶか分からない黒突のことだ。
どちらも異教の敵である。
「もしもの時は、背後を守ってくれと……そういうことですか?」
「そういうことだね」
セシリアは大きく頷いた。
「当然のことです。言われずとも、お約束しましょう。……私はメシア教会の最高指導者である前に、メシア教の敬虔なる信徒です。異教に魂を売るつもりはありませんから」
メシア教会の利益のために、異教徒と手を組むつもりはない。
メシア教徒として、異教からの侵略の防衛には、最大の協力を行う。
セシリアはそう約束した。
エルキュールは大きく、頷いた。
さらに強く、セシリアを抱きとめる。
セシリアの口から吐息が漏れる。
「最後の三つ目。……対価として、君の体を貰おうか」
「……はい。どうぞ、お好きなだけ」
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