第16話 和平交渉 Ⅴ
「ルートヴィッヒ一世は君の話ならば、聞いてくれるんじゃなかったのかな?」
エルキュールはやや不機嫌そうに、やってきたセシリアに言った。
微妙にセシリアが話していた内容……つまり「ルートヴィッヒ一世は話を聞いてくれる」とは、会談の内容が異なったからである。
「ご安心を。先ほど、ルートヴィッヒ一世とお話をつけて来ました」
そして得意そうに笑みを浮かべる。
「もし仮にエルキュール様が、フラーリング王がレムリア皇帝と同格の地位であることを認めてくださるのであれば、ルートヴィッヒ一世は負けを認め、レムリアに領土を割譲する準備があるとのことです」
「……やけに素直だな」
あの男が素直に頭を下げ、領土を割譲するなど、あり得るだろうか?
とエルキュールは内心で首を傾げた。
(まあ、しかし国力差は圧倒的だからな。あの男も頭を冷やしたのだろう)
エルキュールはそう思うことにし、少しだけ胸がすくような思いをした。
もっとも……エルキュール自身も、ルートヴィッヒ一世のことをとやかく言っていられるほどの余裕はない。
(ファールス王め……何が、軍事演習をしているだけ、だ)
今のところファールス王国軍はレムリア帝国の国境近くで軍事演習を行っているだけに過ぎず……攻め込んでくる気配はない。
がしかし、いつ国境を食い破ってくるか、分からない。
もっとも攻め込んできたところで、そう易々と防衛線を突破できるとは思えないが……ファールス王国とフラーリング王国を相手に二正面作戦は厳しい。
(これ以上、我が国の勢力拡大は認めないということ、か。全く……)
すでにシェヘラザードやトドリスを通じて、ファールス王国のササン八世とは交渉を行っている。
が、しかし退く気配は見えない。
試しに貢納金の提案を行ってみたりしたのだが……
(こちらの提案の三十倍を提案してきやがった。国家予算の五年分なんぞ、支払えるわけないだろう)
国家予算の五年分を支払うくらいなら、ルートヴィッヒ一世と妥協した方が得だ。
もっとも……それはあくまで利益の話。
問題なのは面子だ。
「そもそも私はフラーリング王の地位が、レムリア皇帝と同格であると認める気はないが?」
「あくまで外交儀礼上では、です。エルキュール様。レムリア皇帝が地上における神の代理人であることも、姫巫女の守護者であることも、変わらないのですから……事実上はレムリア皇帝が上位であることは明白ではありませんか」
国家として、交渉する上では対等。
だが姫巫女やメシア教が関わることとなれば、つまり宗教上の権能の上では、権威の上ではレムリア皇帝の方が上位であることは変わらない。
と、セシリアはエルキュールに説明した。
「……まあ、外交儀礼上で同格というのであれば、チェルダ王国やファールス王国という前例はあるが」
チェルダ王国はレムリア帝国とほぼ対等な立ち位置で外交交渉を行っていた。
そしてファールス王国もまた、同じである。
だがこれが認められたのは、両国がレムリア帝国にとって異端・異教であったからだ。
フラーリング王国は同じ正統派の国なので、どうしても「どちらがメシア教正統派の守護者か」という立ち位置で揉める。
「レムリア総主教座の存在するレムリア市はレムリア帝国の領土です。そしてまた姫巫女及びメシア教会の守護者がレムリア皇帝であることは依然として変わりありません。その上で、外交儀礼上、同格という立ち位置を認めてはくださらないでしょうか?」
「……まあ、ルートヴィッヒ一世が負けを認め、領土を割譲するというのであれば、吝かだが認めてやらないことはない。が、しかしそれは領土次第だ」
しょうもない漁村など寄越されても、エルキュールからすれば大損も良いところだ。
今回の戦争では少なくない戦費が掛かっている。
それなりの利益が欲しいところだ。
「ジェヌア市を割譲する用意がルートヴィッヒ一世にはあります」
「……ほう」
ジェヌア市。
それは予てから、それとなくエルキュールが目を付けていた都市国家の一つである。
セシリアに対しても「あの都市国家が欲しい」ということを、時折口にしていた程度では。
ジェヌア市はエデルナ王国領にある、フラーリング王国の庇護及びその認可を受けた、独立自由都市。
というどこの国の所属なのかよく分からない土地(と言っても事実上、フラーリング王国の領土なのだが)ではあるものの、フラーリング王国とエデルナ王国がこの戦争の当事者である以上は、交渉のテーブルに乗ることはおかしくはない。
「ルートヴィッヒ一世も、案外大盤振る舞いをするな」
エルキュールとルートヴィッヒ一世では、ジェヌア市に対する評価が異なる。
ルートヴィッヒ一世にとって、ジェヌア市はいくつか存在する、フラーリング王国が海へ出るための港の一つだ。
ジェヌア港の規模はエデルナ港やアドルリア港と比較すると、どうしても劣る。
そのためルートヴィッヒ一世からしてみると、今のところはそれほど価値がある土地というわけではない。
が、エルキュールにとってはやや事情が異なる。
レムリア帝国はいくつも大きな規模の港を持っている。
そういう港――例えばノヴァ・レムリア港やチェルダ港――と比較すれば、ジェヌア市の港の規模は小さい。
が、重要なのは規模ではなく、その立地である。
ジェヌア市はエデルナ王国の存在する長靴状の半島の付け根、その西側に位置するのだ。
丁度、アドルリア共和国とは正反対の位置にある。
もしこの港がレムリア帝国の支配下となれば、アルブム海西部の重要拠点となり得るのだ。
「はい。……ですから、ルートヴィッヒ一世としてもそう簡単に渡せるわけでもないようです」
「うん? 割譲する用意があると言ったのは君だが、違うのか?」
「賠償として支払うわけにはいかない、ということです。つまり大義名分ですよ」
「……ふむ」
エルキュールからしてみると、すでにいくつかの戦争目的は果たせている。
アドルリア共和国はほぼほぼ、手に入る。
エデルナ王国も亡命してきた親レムリア派の王を国王に立てることができ、南半分は事実上その領土として併合できる。
そしてレムリア市もレムリア総主教座も手に入り、シスマを終結させられる。
最後にルートヴィッヒ一世の皇帝自称も……こちらは現在進行形で交渉中ではあるが、ルートヴィッヒ一世が皇帝の自称を止め、レムリア皇帝の
別にルートヴィッヒ一世の謝罪などなくとも、勝ったも同然なのだから、少し気を使ってやる程度であれば問題はない。
問題はその大義名分だが……
「何を名分としたいと言っているのだ? ルートヴィッヒ一世は」
「結納品ですよ」
「結納? ……ああ、なるほど。コンスタンティナか」
コンスタンティナ。
少し前にエルキュールとカロリナとの間に生まれた女の子だ。
現在、すくすくと育っている。
「あの子は嫁に出す気など、毛頭ない!! ……などと言う気は欠片もないが、ルートヴィッヒ一世にくれてやるつもりはないぞ? さすがに可哀想だからな。……結婚相手が、あんなおじさんじゃ」
エルキュールにとって、結婚とは単なる政治上の手段でしかない。
その上では自分の娘も、単なる政治の道具、駒の一つだ。
だが全く、娘への情がないかと言えば、そうではない。
さすがにルートヴィッヒ一世のように年の離れたおじさんに嫁がせるのは、あまりにも可哀想だという気持ちはエルキュールにもある。
「お相手はルートヴィッヒ一世の息子さん、フラーリング王国の王太子、ルートヴィッヒ二世です」
「……確か、年齢は二十歳ほどだったか? まあ、それなら」
高位
つまりコンスタンティナとルートヴィッヒ二世との間にある約二十歳の年齢差は、年の差のうちではない。
「それなりに聡明な王子とは聞いている」
「でしょう? ……エルキュール様とルートヴィッヒ一世ならば、順当に行けばルートヴィッヒ一世の方が数十年早く亡くなるでしょう。その時、ルートヴィッヒ二世の義理の父であるエルキュール様は、事実上の後見人。……どうですか?」
「悪くはないな」
若い。相手よりも長生きする。
というのはそれだけで、大きなアドバンテージである。
「この婚姻はルートヴィッヒ一世にとっても、大きな利益があります。私としては、是非とも両国の友好のために、お勧めしたいところです」
ルートヴィッヒ一世にとってもこの結婚は、自分の息子が立場上エルキュールに強く出れなくなる、ということ以上に大きなメリットがある。
というのも、フラーリング王国はその国家体制上、分裂しやすいのだ。
ルートヴィッヒ一世が死ねば、内乱が起こる可能性がある。
子供同士ならばまだ良いが、下手を打てば他家に王権を簒奪される恐れがある。
故にエルキュールという超大国の皇帝の後ろ盾と、そして世界最高峰の名門ユリアノス家の血統は、大きな力となり、内乱を抑止する効果がある。
エルキュールが養父としてフラーリング王国に影響力を及ぼすには、ルートヴィッヒ一世の息子であるルートヴィッヒ二世が王位につかなければならないのだから。
それでなくとも、自分の娘とその夫が誅殺されるのを、エルキュールが黙って見過ごすはずがないのだから。
「なるほど、なるほど。ルートヴィッヒ一世の意図が分かったぞ。ジェヌア市はもしもの時の橋頭堡というわけか。考えたものだな」
ジェヌア市があれば、エルキュールは海軍と、そして陸上戦力をフラーリング王国に送り込むことができる。
そしてこの橋頭堡は「援軍を派遣する」程度であれば十分に機能するが、「侵略戦争のための軍を派遣する」には不十分だ。
レムリア帝国の本土から、離れているからである。
いくらレムリア帝国の輸送力があったとしても、現地勢力との連携が必要となる。
安全保障上、それほど大きな問題にはならず、そして国内の不穏な勢力にレムリア帝国の圧力を加えられる。
そんな絶妙な立地にジェヌア市はあるのだ。
「養父といえども、ルートヴィッヒ二世がまともな知能を持っている限り、私が好き勝手に内政干渉を起こせるというわけではないからな。ふむ……考えたものだ」
ルートヴィッヒ一世か、それともセシリアか。
どちらが考えたにせよ、悪くない方策だとエルキュールは唸った。
「しかし婚姻のためには、二つ条件がある」
「……何でしょうか?」
「一つ、コンスタンティナはまだ幼い。少なくとも十五、いや十八を過ぎるまでは手放す気はない。婚約に留めるように。ただしジェヌア市は前払いだ」
「……それはならば、説得してみせましょう」
まさかルートヴィッヒ一世も幼子を寄越せとは言うまい。
コンスタンティナが成長するまで婚儀を挙げない、というのはもっともな理屈だ。
「もう一つ。フラーリング王国領内における我が国の商人の、商業の自由を認めるように。港からの関税も撤廃を要求する」
「分かりました。説得してみせます」
これについてもそれほど重い条件ではない。
そもそもフラーリング王国にはまともな産業など、ないのだから。
むしろ商業が発展していないフラーリング王国に、レムリア帝国の商人が入ることは、フラーリング王国にも大きな利潤を生む。
「そんなに期待してはいなかったが、悪くない取引だ。これならば、和平に応じても……」
「いえ、エルキュール様。ルートヴィッヒ一世からの条件は、もう一つあります」
「……なんだ?」
途端にエルキュールは不機嫌になった。
セシリアはやや慌てた様子で、言い繕うように言う。
「いや……そのですね。レムリア市の所属なのですが、名目上レムリア帝国のものであることは良いとしても、そこにレムリア帝国の軍が駐留し、実効支配するのは……レムリア総主教座の独立を脅かすと、不安に思っているらしいのです」
「まあ、もっともな話だな。私と君は、実際、仲良しなのだから」
そう言ってエルキュールはセシリアの顎に手を当て、接吻をしようとする。
が、ひょい、っとセシリアはそれを避けた。
やや赤い顔で、咎めるように言う。
「今は、真面目な話をしています」
「そうか? しかしルートヴィッヒ一世の懸念はもっともだが、私はレムリア市の実効支配を、総主教座の実効支配を止めるつもりはないぞ。フラーリング王国に干渉しないにしても、我が国内部とその他の教会の統制のためにも、絶対に必要だからな」
メシア教会のコントロールはエルキュールにとって、レムリア帝国にとって、外交の柱となっている。
これを手放すわけにはいかないのだ。
「はい。ですから……フラーリング王国領内の教会に関しては、姫巫女の影響を及ぼさないことを明記しようかと思っています」
「……それだと君の権威が低下するわけだが、良いのか?」
「平和のためであれば、構いませんよ。正統派同士で殺し合いなど、そもそもおかしいのです」
セシリアは満面の笑みで言った。
相変わらず、良い子ちゃんだとエルキュールは内心で呆れる。
「だがフラーリング王国の教会は誰が統治する? まさか、ルートヴィッヒ一世がなどとは言うまい?そもそも、姫巫女の影響が及ばないのであれば、シスマが終わらない」
「フラーリング王国の教会を統治するのは、姫巫女の代理人である『教皇』です」
「……なるほどな」
つまりセシリアはシスマそのものを、教会の大分裂そのものを無かったことにしようとしているのだ。
グレゴリウスか、もしくは別の人物を改めてセシリアが『教皇』として任じる。
そしてその人物がフラーリング王国の教会組織を事実上、指揮する。
これならば、法律上、教会は分裂しない。
「それで、レムリア市はどうするつもりだ?」
「ルートヴィッヒ一世は……レムリア市の実効支配は教皇がするべきだと。その上で中立地帯にするべきである、というお考えのようです」
「何が中立地帯だ。それでは事実上、フラーリング王国の領土ではないか」
エルキュールは鼻を鳴らした。
「教皇になど、フラーリング王になどやらん」
「しかし……レムリア帝国の実効支配にあるのは、やはりルートヴィッヒ一世としては気になるようで……」
「だったら、姫巫女に、君にやろう」
すると……一瞬だけ、セシリアの口角が上がった……ようにエルキュールの目には見えた。
(うん?)
が、改めてみるとセシリアは目を大きく見開き、驚きの表情を浮かべている。
そしてすぐにパッと、顔を輝かせた。
「よろしいんですか!」
「まあ、寄進するという形であれば、違和感はあるまい。文句も出ないだろう」(……気のせいか?)
ふと、エルキュールはセシリアに「言わされた」ような気がしてきた。
若干の疑念を抱いたエルキュールは、首を左右に振った。
「いや、やはりダメだ。私は君を手元から、手放したくない」
「それは……プロポーズ、ですか?」
「え?」
気付くとセシリアは顔を真っ赤にし、もじもじとしていた。
その姿はとても可愛らしく、エルキュールの庇護欲と支配欲を擽る。
「結婚してしまえば……私はエルキュール様のものですよ?」
セシリアはそう言いながら、エルキュールに抱き着いた。
柔らかい胸が、エルキュールの体に押し当てられる。
「レムリア市の実効支配権が私のものになろうとも、私がエルキュール様の物である以上は、結局のところエルキュール様のものであると、そう思いませんか?」
パチンと、セシリアはウィンクをした。
エルキュールはセシリアの意図を読み取った。
つまりセシリアはルートヴィッヒ一世をペテンに掛けようとしているのだ。
「……全く、その通りだな。結婚しようか」
「はい。素敵な式を、お願いします」
二人は唇を交わした。
「全く……首筋にキスマークまでつけて……はぁ。まあ、良いです。あとは、エルキュール様の言う条件を、ルートヴィッヒ一世に伝えるだけですから」
エルキュールから離れたセシリアは小さく呟いた。
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