第15話 和平交渉 Ⅳ
(……双方、共に最低ラインが違い過ぎて話になりませんね)
セシリアは思わずため息をついた。
エルキュールの言い分は「独立は認めてやるが、あくまでフラーリング王の地位はレムリア皇帝以下」である。
一方でルートヴィッヒ一世の言い分は「西レムリア皇帝の地位は取り下げてやらないこともないが、それでもレムリア皇帝とは同格だし、それに地位を取り下げるのであれば相応の対価を支払え」である。
(もっとも、ふっかけているだけの可能性もありますが)
交渉のために、敢えて実現不可能そうな要求をしてみるのはよくある手だ。
外交でも、商業での交渉でも、同様である。
とはいえ、物事はそう簡単ではない。
ふっかけた後に、徐々にお互い譲歩し合って意見をすり合わせることができれば良いのだが、ふっかけたままで決裂することも多々あるのだ。
というのも、譲歩すれば相手もまた譲歩してくれるとは限らないからである。
結果として、互いに条件を吊り上げ続け、話がまとまらない……ということは珍しいことではない。
というよりも、外交交渉ではそういうことの方が多い。
(この二人はそういうタイプですね……外交交渉で、譲歩なんてものはしたことないでしょうし)
エルキュールやルートヴィッヒ一世にとって、外交とはイコールで脅迫を意味する。
二人とも、戦争で敗北したことが――局地戦レベルでならばともかくとして、総合的な国家間戦争レベルでは――一度もないのだから。
譲歩してやってもいい。
しかし相手が譲歩してからだ。
と、互いに考えていれば話は進まないだろう。
事実……
「「これ以上の譲歩をするつもりはない!」」
(いや、どのあたりで譲歩をしたのですか?)
セシリアは内心で呆れるしかない。
(私にとっての交渉と、この人たちにとっての交渉では、どうやら同じ言葉でも意味合いが違うようですね)
セシリアにとって、交渉とは譲歩する中でどうやって最低限の利益を獲得するかである。
立場上、エルキュールには様々な譲歩を強いられてきた。
(客観的に見ればだが)体すら売っている。
ルートヴィッヒ一世に対しても、フラーリング王国領内の姫巫女派の教会財産に関して、幾度も交渉をしてきた。
これはセシリアが弱腰だからではない。
実際に弱いからである。
メシア教会は実働可能な軍事力など、持っていないのだ。
あるのは「天国の鍵」というあるかないか分からない、胡散臭い信仰上の権限である。
「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に」
この言葉は世俗権力からどうにかして聖界を守ろうとしたメシア教会が作り出した標語だ。
「政教分離の原則」という虚構――政治も宗教も本来は同じ「まつりごと」である――を生み出したのは他ならぬ聖職者たちである。
もっとも……
世俗権力者たちは都合の良い時は聖職者の言葉を引用し、都合が悪ければ無視するのだが。
エルキュールなど、良い例だろう。
(利用する経験はあれど、利用される経験はないわけですか。この方たちは……はぁ、仕方がありませんね。ここは私が、一肌脱ぎますか)
セシリアは内心で笑みを浮かべた。
というのも……ここまではセシリアの思う通りだからである。
交渉が決裂するのは目に見えていた。
セシリアの目的は、この二人を仲直りさせることではない。
というより、仲直りなどされてしまっては困る。
この両者に仲良くなられれば、メシア教会の権限や既得権益はますます、この二人に奪われてしまう。
(分割し、統治せよ。誠に金言ですね。……僭越ながら、分割し、統治させてもらいますよ)
と、内心をひた隠しながらセシリアは今にも口論を始めそうな二人に対して言った。
「お二人とも、そう熱くならないで。……すでに議論も煮詰まってきたことですし、一度休憩を挟みませんか?」
セシリアの提案に、二人は酷く不服そうな表情を浮かべながらも承諾した。
二人とも、本音では争いたくない――つまり仲直りしたい――のは、同じなのだから当然だろう。
相手が頭を冷やして、譲歩してくれることを望んでいるのだ。
……もっとも、このままでは双方ともに譲歩することはないのだが。
さて、エルキュールとルートヴィッヒ一世の二人は一度、それぞれの待機場所へ戻った。
家臣たちと協議をしつつ、休憩を取るつもりなのであろう。
さて、そんなルートヴィッヒ一世のもとへセシリアが訪れた。
「ご機嫌麗しゅう、陛下」
「……ふむ、姫巫女様か」
ルートヴィッヒ一世はセシリアを見下ろしながら言った。
「聖下」とは、呼ぶつもりはない。
このような小娘を、己の信仰する宗教組織の指導者と認めるつもりは毛頭なかった。
少なくとも、形式上、条約が結ばれるまでの間は。
「あなたの話ではエルキュール一世は和平を望んでいるのではなかったかな?」
「天邪鬼な方ですからね。本音では陛下に白旗を上げたいのですよ」
どうせ、嘘を自分に吹き込んだのだろうとルートヴィッヒ一世は予想した。
双方に都合の良いことを吹き込んで、テーブルに連れてくる。
三流の仲介者、自称バランサーがよくやる手である。
まあ、半信半疑とはいえまんまとそれに釣られてきた自分も自分だが……
とルートヴィッヒ一世は自嘲する。
藁にも縋る思いは、実際あったのだ。
(……ササン八世もいつまで、軍を展開し続けてくれるか分からんからな)
ファールス王国とフラーリング王国。
両国は領土を接しておらず、直接的な交易関係もない。
だが今回、対レムリア帝国で一時的な『同盟』を結んだ。
これは両国に、「これ以上のレムリア帝国の伸長は見過ごせない」という共通の利益の一致があったからだ。
レムリア帝国とファールス王国は確かに、血縁関係を結ぶことで表向きの友好を結んだ。
だが両国には常に潜在的な領土問題が存在する。
ファールス王国にとって、レムリア帝国の西方を脅かす“敵”がいなくなる、ことは到底、見過ごせない。
レムリア帝国の全兵力が東方に向けられ、さらに黒突と挟撃されるような事態になればファールス王国と雖もタダでは済まないからだ。
今まで、レムリア帝国はブルガロン・チェルダを飲み込んだ。
ここまではファールス王国にとっても、許せた。
だが……エデルナを飲み込み、さらにフラーリング王国を退けるような事態は到底、見過ごせない。
だからこそ、ササン八世は“異教徒”であるルートヴィッヒ一世と手を結ぶことを選んだのだ。
だが……
(利用するだけ、利用するつもりなのは明白だ。……レムリア帝国とファールス王国が講和を結ぶ事態になれば、こちらだけが貧乏クジを引かされることになる)
おそらく、現在レムリア帝国とファールス王国は外交官を通じて交渉を行っているはずだ。
こちらの交渉よりも先に、レムリア・ファールスの交渉が成功してしまえば……フラーリング王国は一気に窮地に立たされる。
(……まあ、エルキュール一世がササン八世の出す条件を飲むとは思えないが)
ササン八世の目的は、レムリア帝国のこれ以上の国力増強を防ぐことだ。
故にササン八世がエルキュール一世に提示する条件は、エルキュール一世がこの『エデルナ戦争』で得られるであろう利益を帳消しにし得るだけの、領土や宝物だろう。
理性的に判断すれば、ファールス王国と和平を結ぶよりもフラーリング王国と和平を結ぶはずだ。
姫巫女という仲介者がいることも考えると、フラーリング王国と交渉して、妥協をした方が得られる利益は大きく、損失は少なくなる。
……そう、エルキュール一世が理性的であれば。
問題は理性的ではない可能性だ。
「余はエルキュール一世に譲歩の用意があるというから、テーブルについた。これでは話が違う」
「そうですね……ですが、ご安心を」
イライラした様子のルートヴィッヒ一世に対し、セシリアは純粋無垢な笑みを浮かべた。
果たしてこの小娘はどこにその自信の根拠があるのかと、ルートヴィッヒ一世は首を傾げる。
「私が話を付けてきます」
「ふん、余は譲歩するつもりなど一切ないぞ?」
「ご安心を。譲歩するのはエルキュール陛下ですから。真摯に話せば、分かってくださるはずです」
真摯に話して分かるならば、戦争など起きていないだろうに。
とルートヴィッヒ一世は思ったが、口には出さず、取り敢えずセシリアの言うことを聞いてやることにした。
「間違いがあれば、ご指摘ください。……陛下のお考えは、こうでしょう? 西レムリア皇帝への即位を撤廃するのは良い。だが相応の対価が欲しい。そうですね? であれば、私がエルキュール陛下から相応の対価を勝ち得てきましょう」
「……具体的には?」
「レムリア市です」
ルートヴィッヒ一世は目を見開いた。
驚くルートヴィッヒ一世に対し、セシリアは淡々と述べる。
「陛下は、レムリア帝国の手にレムリア市が渡ることを面倒だとお思いでは? まあ、当然ですね。メシア教会の分裂が収束し、その指導者が私一人に集約されれば……この私を、レムリア市を保護するレムリア皇帝の影響力は増大します」
そもそもルートヴィッヒ一世が「教皇」をでっち上げたのは、フラーリング王国領内の教会を通じて、レムリア帝国による内政干渉を恐れたからである。
今のところは、分裂期での工作活動によってその影響力を殆ど排除できたが……
再びメシア教会が統合されれば、影響力が芽吹き始める可能性がある。
否、可能性がある、ではない。
必然的にエルキュールはメシア教会を通じてフラーリング王国へ内政干渉を行う。
行わないはずがないのだ。
「ですから、レムリア市をレムリア帝国から引き剥がして見せましょう。勿論名目上はレムリア帝国のもののままでしょうし、フラーリング王国の領土とはならないかもしれませんが、少なくとも両国に属さない形でまとめて見せますよ」
「……ふむ」(つまり事実上はエデルナ王国領になるというわけか)
できるかできないかはともかく、悪くない条件ではある。
「だがエルキュール一世は認めるかね? 余ならば、認めないが?」
「ええ、ですから……代わりに領土をどこか、レムリア帝国に割譲してください。同格の地位につく、その返礼として。具体的には……そうですね、ジェヌア市など、如何でしょうか?」
ルートヴィッヒ一世は思わず眉を顰めた。
ジェヌア市は近年、急速に成長をし始めている海洋自由都市の一つである。
アドルリア共和国ほどではないが、それなりに商業的にも発展している。
ルートヴィッヒ一世としては捨てるには惜しくないが、くれてやるには惜しい。
そんな都市の一つだ。
「領土割譲など認めたら、余が敗北を認めたようなものだ」
しかしルートヴィッヒ一世としては、領土の割譲という行為そのものが問題である。
例え、何の価値もない、それどころか保有していることすらも重荷になるような領土であっても、その割譲を認めれば、国内から非難の対象となる。
不思議なことに、人間は土地に執着してしまう生き物なのだ。
「では――という形ならば、どうですか?」
「…………それならば、構わないが……」
セシリアの提案はルートヴィッヒ一世としては、むしろ喜ばしい内容だった。
勿論、エルキュールがそれを受け入れればの話だが。
ここでふと、ルートヴィッヒ一世は疑問を抱いた。
この目の前の少女は、どうしてこんなにも自分とエルキュールを和解させたがっているのだろうか、と。
「あなたの利益は何だ?」
「……私は、功績が欲しいんです。分かるでしょう? もう、小娘と侮られるのは、嫌なんです」
負の感情を込めた声音でセシリアは言った。
「それに……もう、嫌なんです。あの男の言うことを聞くのは」
セシリアは屈辱の表情を浮かべながら、体を抱いて見せた。
なるほどと、ルートヴィッヒ一世は内心で納得する。
(いろいろと脅されて、体を要求されていると風の噂で聞いたことがあるが、この様子では本当のようだな。なるほど……冷静に考えてみれば、あの二人の関係が良好なはずがない。保護を条件に体を要求してくる男なんぞ、嫌うに決まっているからな。……女としては相当な屈辱だろう)
ルートヴィッヒ一世はほんの少しだけ、セシリアに対して同情した。
ルートヴィッヒ一世は性癖に関しては、エルキュールよりも随分とまともな感性をしているのだ。
「私は……もう、嫌なんです。……とにかく、嫌なんです。もう、言いなりになるのは。あの男に、一撃を食らわせて……私のことを、そう簡単に思うようにはできないと、思い知らせてやりたいんです」
「……ふむ」(中々、難儀な人生を歩んでいるな)
ルートヴィッヒ一世は自分がグレゴリウスを焚きけたことをすっかり忘れ、そう思った。
そして「このような少女を脅して体を要求するなんて、なんてけしからんやつだ」と義憤に駆られる。
(しかし、こいつは便利だな。上手く行けば、寝とれるかもしれん)
勿論、無理矢理な趣味はないし、妻帯者であるルートヴィッヒ一世はセシリアを抱くつもりはない。
単なる言葉の綾である。
まあ、この可憐な美少女の方から誘ってくるなら吝かではないが……
と、思ってからルートヴィッヒ一世は心に浮かんだどうでも良いノイズを打ち払った。
(何はともあれ、余にとっては、彼女がエルキュール一世を嫌っているのは好都合だ)
もしセシリアが親フラーリングになってくれれば、「レムリア帝国からの内政干渉」を恐れる必要はなくなり、逆に「フラーリング王国から内政干渉を仕掛ける」ことすらもできるようになる。
それから、この女性ならばもう少し要求すれば自国に有利な提案をしてくれるのではないかと、邪心を抱く。
「しかしな……レムリア皇帝が姫巫女の守護者を名乗る以上、どうしてもその影響力は残り続ける。そして我が国の教会があなたの指揮下に戻る以上、その影響力を排除するのは難しいだろう。余にはどうしても、レムリア皇帝という肩書が必要なのだよ」
「レムリア皇帝はどうしても必要というわけではない」から「レムリア皇帝という肩書が必要」と主張をすり替えるルートヴィッヒ一世。
露骨なすり替えではあるが、純粋無垢そうなこの少女ならば上手く騙せるのではないかと踏んでの要求だ。
するとよほどレムリア帝国の支配から外れたいのか、ルートヴィッヒ一世を味方につけたいのか、セシリアは大盤振る舞いをしてくれた。
「では、こうしましょう。フラーリング王国領内の教会は、同じ正統派のメシア教会のままとしますが、
「何? しかし……では、誰が我が国の教会を統べるというのだ?」
「そうですね。……これは条約には記さない、陛下と私だけの密約となりますが」
ニヤリと、セシリアは笑った。
「私です」
ルートヴィッヒ一世は一瞬、首を傾げた。
が、すぐにその意図を読み取った。
そしてセシリアに対して、手を差し伸べた。
「なるほど、それは良い提案だ。余の面子も潰れない。……よろしくお願いしますぞ、
「ええ、陛下」
二人は固く、握手を結んだ。
さて、ルートヴィッヒ一世のもとから立ち去ったセシリアは大きなため息をつく。
「どうにか、騙せましたね。あとは……エルキュール様を騙せば、終わりです」
そして妖艶な笑みを浮かべた。
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