第23話 犬以下
カッサンドラの処理を含め半年が経過した。
エルキュールが三十二歳となった、四月。
それは丁度、チェルダ王国との一連の戦争が終わってから一年後のことであった。
「ん、っちゅ……っふ、んぁ……」
「っぐ、くぅぁ……んっぐ……」
「……なにこれ?」
エルキュールの執務室に入ってきたルナリエは、早々に眉を顰めた。
二人の女がお尻を突き出し、目隠しをされた状態で、懸命に男の足を舐めているのだ。
女のうち一人は黒髪のスレンダーな女性――アリシア――だ。
もう一人は栗色の髪の可愛らしい容姿の少女――ソニア――だ。
アリシアは異様に丈が短いブルガロン衣装を、ソニアは奴隷服を着せられている。
首には犬の首輪のようなものがつけられており、やや呼吸を阻害しているのか、二人とも苦しそうだ。
お尻を高く上げていて、加えて下着を身に着けていないせいか、見えてはいけない部分が丸見えになっている。
ルナリエが入ってきた物音と声に気付いたのか、アリシアとソニアはビクリと体を震わせた。
恥ずかしさから肌の赤みが増し、そしてアリシアは長い耳を、ソニアは犬耳と尻尾を震わせる。
そのためか、一瞬だけ舌の動きが止まった。
「んっごぁ……」
「っげほぉ……」
「休んで良いと、誰が言った?」
エルキュールがわざと足の指を動かすと、二人は苦しそうに呻いた。
そして再び舌を動かし始める。
「ああ、ルナか。よく帰ってきた」
ルナリエはノヴァ・レムリア宮殿とハヤスタン王国のエルシュタット城を往復する生活を送っている。
先日までエルシュタット城でハヤスタン王国の統治をしていて、今日帰ってきたのだ。
「うん……それで、これは?」
「聞いてくれ。こいつら、宮殿の廊下で決闘騒ぎを引き起こしたんだ」
ソニアとアリシアは仲が悪い。
二人の対立の歴史は一年前、ソニアがアリシアのことを罵倒した時から始まっている。
エルキュールとソニアの結婚が決まり、様々な処理が一段落した段階でソニアはルナリエとアリシア、そしてニアに対して謝罪をした。
一応、ソニアも言い過ぎたとは思っていたようだった。
ルナリエはこの謝罪をあっさりと受け入れ、ニアはエルキュールの顔を立てる形でしぶしぶ受け入れた。
しかしアリシアだけは頑なに受け入れなかった。
どうやら「雌犬」と煽られたことが、よほど腹に据えかねていたようだ。
ブルガロン語では「犬」という言葉は最大級の侮辱なのだ。
そういう文化的事情と本人の性格のせいか、アリシアはソニアに対してもっと誠意を込めて謝れと、膝を折って謝罪しろとまで要求した。
ソニアはこれに腹を立てた。
確かに事の発端はソニアの暴言だ。
アリシアが納得するまでソニアが謝るのは礼儀であり、道理には叶っている。
しかし謝った後に「謝罪が足りない。もっと謝れ」などと高圧的に言われれば、腹が立つのが人間というものだ。
二人のそれは口論に達し、殴り合い、そして殺し合いに発展した。
エルキュールが止めなければ、本当に殺すまでやっていただろう。
さて、その後もアリシアとソニアの確執は解消されることなく……
そして今に至る。
ちなみに今回の決闘騒ぎの要因は、双方が道を譲らなかったことだ。
基本的に廊下で鉢合わせた際は、目下側が目上側に道を譲る。
例えばエルキュールとカロリナが鉢合わせれば、カロリナは廊下の隅に避け、エルキュールが過ぎるまで頭を下げる。
カロリナとシェヘラザードの場合は、先に結婚した側のカロリナの方が僅かに上なので、頭は下げずともシェヘラザードが避ける。
カロリナ・シェヘラザードとルナリエが鉢合わせれば、避けるのはルナリエだ。
ルナリエは側室で、そしてハヤスタン王国は小国だ。
ルナリエとアリシア・ソニアならば、アリシア・ソニアの方が避ける。
またアリシアは旧ブルガロン王国の一氏族、クロム氏族の娘に過ぎないためアリシアの方が序列が下となる。
ソニアは国力の上ではハヤスタン王国の方が下となるが、一応どちらも一国の女王で、エルキュールの側室だ。この場合は若く、そして新参のソニアが下になる。
と、ここまでの序列に異を唱えるものはいない。
問題はアリシアとソニア、どちらが上かだ。
アリシアの主張は「どちらも側室になるのだから、その点は対等。そして自分の方が古株なのだから、ソニアが譲るべきだ。そもそも自分はソニアとの戦争に勝利した。敗者は勝者に従え」であり、
ソニアの主張は「側室は側室でも、自分はチェルダ王国の女王。遊牧民の一部族の女と一緒にするな。それに古株と言っても、それほど大差あるわけではない。そして自分はエルキュールに敗北したのであって、断じてアリシアに敗北したわけではない。もし一対一の戦いだったら、自分の方がアリシアよりも強い」である。
そういうわけで、じゃあどっちが強いか、試してみるか?
となったのだ。
最初は睨み合い、それから口論、殴り合いを通り越し、そして召使や兵士たちが慌ててエルキュールを呼び、エルキュールが駆けつけた時には双方、剣を抜いていた。
当たり前の話だが、ノヴァ・レムリア宮殿の内部で剣を抜くなど、あってはならないことだ。
明確なる法律違反である。
さすがに側室(正確にはこれから側室となる婚約者)を犯罪者として裁くわけにはいかないため、この決闘騒ぎは“無かった”ことになった。
が、罰を与えなければ、また繰り返す。
そういうわけでアリシアとソニアは屈辱的な奉仕をさせられているのだ。
二人とも、良くも悪くもプライドが高いため、この罰は堪える。
特にソニアはこういうことにはあまり慣れていないせいか、目隠しに染みができるほど涙を流し、時折すすり泣いている。
「それはまた、馬鹿なことをした」
そう言ってルナリエはため息をついた。
エルキュールはそれに同意するように、大きく頷く。
「全くだ……止める方の身にもなって貰いたい。ほら、ルナリエ。もっと、この馬鹿犬共に言ってやれ。その方がこいつらへの罰になるだろう」
犬、という言葉に対してアリシアとソニアが体を震わせる。
二人とも、顔が真っ赤だ。
「そう? じゃあ……」
ルナリエは少し考え込み、それから鼻で笑いながら言った。
「犬はちゃんと飼い主の命令を聞ける。勝手に噛みつき合わない。……犬に失礼。言って分からないなんて、犬以下」
これにはさすがのアリシアとソニアも堪えたらしい。
二人とも小刻みに体を震わせた。
エルキュールは満足そうに頷いた。
それからため息をつく。
「結婚式が控えているというのにな」
「だから、じゃないの?」
「まあ、確かにな」
数日後にはアリシアとの、その一週間後にはソニアとの結婚式をエルキュールは控えている。
まずアリシアとの結婚式は、シェヘラザードとの結婚式を優先するために先送りとなり、その後すぐにチェルダ王国との戦争に突入したために、ずっと先送りにされていた。
一方、ソニアの結婚式もチェルダ王国の統治を安定させるためには早急に行わなければならない。
ちなみにどちらの結婚式を先にやるか、ということでも一悶着あった。
アリシアを先にしたのは、エルキュールの判断だ。
ずっと後回しにし続けていたのだから、さすがに今回も後回しというのはあまりにもアリシアに対して失礼だという考えである。
一応、エルキュールはその気になれば相応の気遣いができる。
これに対してソニアは不満を抱いていた。
少し前までのソニアならばエルキュールに直接文句を言ったり不満をぶつけただろう。
だが、ここしばらくしっかりと上下関係を叩き込まれたソニアはエルキュールに不満をぶつけられず、代わりにアリシアに対してそのヘイトをぶつけていた。
「この分だと、また繰り返すと思うけど、どうするの? 序列を決めないと大変」
「それなんだが……どっちを上にしても角が立ちそうだからな」
一応、ソニアを上にするのが道理には叶っているとエルキュールは思っている。
チェルダ王国の方が国力は上だからだ。
しかしそれをすればソニアは増々調子に乗るし、アリシアはソニアに対するヘイトを強めるだろう。
「面倒だから、偶数月はアリシア、奇数月はソニアが上ということにしようと思っている」
「それは良い考え」
やや先送り的だが、その方が一番揉め事は少なく済むだろう。
「ところで……」
「どうした?」
「これであなたは正式に、レムリア帝国皇帝位とハヤスタン王国の国王位、そしてチェルダ王国の国王位、ブルガロン王国の国王位を兼ねることになった」
旧ブルガロン王国は属州として支配されている。
が、エルキュールはその支配を盤石のものとするためにブルガロン王国の国王に即位しようと考えていた。
ブルガロン王国の国王はブルガロン諸部族の投票によって選ばれる、選挙王政なので、少し政治工作を行えば簡単に即位できる。
「おめでとう、と一応祝福しておく」
「珍しいな……まあ、ありがとうと返しておこう。それで?」
「次はどうするつもり?」
もっとも、チェルダ王国という難敵が片付いた今、解決しなければならない問題は一つだけだ。
そう、西方問題だ。
だからルナリエの質問の本意は「何をするのか?」ではなく、「どうするのか?」が近いだろう。
「エデルナ王国の処理は後で良いと思っているが、しかし教皇問題は早急に解決する必要があるな。教会の
すでにメシア教は幾度も分裂を経験している。
新たな宗教問題を作らないようにするためには、レムリア司教座を取り戻さなければならない。
「しかしそれをするには、フラーリング王国のルートヴィッヒ一世が邪魔だ。あの男が教皇とエデルナ王国を守護している」
現在、ルートヴィッヒ一世はドゥイチェ地方の統一に乗り出している。
エルキュールにとって不幸なことに、この統一事業は現状のところ上手く行っているようで、すでに三分の一をその版図に加えたようだ。
「まあ、幸運なことは、あの男はレムリア帝国に対しては領土欲を持っていないという点だな。距離があるから、当たり前だが」
つまりエルキュールがエデルナ王国に手を出さなければ、ルートヴィッヒ一世は動かない。
そしてルートヴィッヒ一世はできるだけ、エルキュールと構えることを避けているように見える。
レムリア帝国の国力が、フラーリング王国を遥かに上回る事実を分かっているのだろう。
豪胆そうな割には、随分と
と、エルキュールは毒付いた。
「今の我が国はウサギを丸のみした後の蛇だ。チェルダ王国の消化が終わるまで動けん。ドゥイチェ地方に忙しいフラーリング王国も同じだ。だから直接軍事行動は取らず、政治工作でフラーリング王国の国力を削ぎ落すつもりだ」
「……諸侯の切り崩し、トレトゥム王国の支援、ドゥイチェ地方の反フラーリング勢力の糾合?」
「よく分っているじゃないか」
しかしそういうエルキュールの表情は晴れない。
「しかしフラーリング王国の結束力は意外に硬くてな。切り崩せそうにない。専ら、反フラーリング勢力への支援が主になりそうだな」
そしてこれはメシア教正統派・
セシリアの協力が必要不可欠だ。
「全く、忌々しいことだ」
エルキュールはそう言ってから、ルナリエを手招きし、側に寄らせる。
「何?」
「跨れ、ルナ」
ルナリエの頬がやや赤く染まった。
ルナリエは小さく頷き、エルキュールの膝の上に座った。
唇と唇が触れあった。
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