第三十二話 一時的帰還

 テリポル市を発ったエルキュールは、船で約八百キロ先のキュレーネ市へと向かった。

 

 船での移動は風向き次第であるため、基本的に計算通りに進むということはあり得ない。

 しかしそれでも陸上よりははるかに早く、移動できる。


 テリポル市からキュレーネ市までのエルキュールの航海は決して順調と言えるようなものではなかったが……

 しかし悪天候に見舞われることもなかった。


 結果、十二日で海を横断し、キュレーネ市へと辿り着いた。


 砂漠越えからちょうど、三十日目のことである。




 

 「久しぶりだな、ルナ! 寂しかったか?」

 「……別に寂しくなんてなかった」


 エルキュールは港に降り立つと、港で自分を出迎えてくれたルナリエに両手を広げて近づいた。

 そして何でもない、という表情のルナリエを両手で抱きしめる。


 「でもこうして俺をわざわざ出迎えてくれた、ということは少しは俺のことを思ってくれていたんだな?」

 「……全然。ただ、死なれると困るから」

 「つまり凄く心配してくれていたんだな?」


 エルキュールはそう言うと、ルナリエの髪を強引に掴んで持ち上げ……


 「んっ!!」


 その唇に自分の唇を合わせた。

 ルナリエは目を白黒させる。

 そうこうしているうちに口内に舌を捻じ込み、その柔らかい粘膜を蹂躙する。


 「今まで、ずっと恋しかっただろ?」

 「んぐ、別にそんなことは……っぁ、ど、どこを触ってるの!」

 「お尻」

 「そ、そういう意味じゃなくて……やめなさい!」


 エルキュールのセクハラに抗議の声を上げるルナリエ。

 するとエルキュール意地悪そうな笑みを浮かべた。


 「じゃあ、今夜は抱かなくても良いか? 俺はこれからすぐにアズダヴィア市に向かうつもりだが」

 「え!? い、いや……そのぉ……」

 「全然、寂しくも恋しくもなかったもんな。俺がいない夜は」


 エルキュールがそう言うとルナリエは悔しそうに、しかし顔を赤らめた。

 

 「くぅ……ひ、卑怯な……」

 「うん? 何が卑怯なんだ?」

 「……ださい」


 ルナリエが小さな声で何かを言った。


 「え? 何だって?」


 唐突に難聴になるエルキュール。

 ルナリエは顔を真っ赤にして、言った。


 「抱いて、ください……」

 「もっと大きな声で」

 「抱いてください!」


 周りに聞こえるほどの声でルナリエが言うと、エルキュールはルナリエの頭を撫でながら言った。


 「しょうがないな。そんなに頼まれたら断れない。……ところで、もう少し声は押さえた方がいいぞ?」

 「……うるさい、変態」


 ルナリエは小さな声で呟いた。

 そんな風にエルキュールとルナリエがイチャイチャしていると……


 「皇帝陛下!!」


 紅い、燃えるような髪の女が全速力で掛けてきた。

 息を切らしながら、女はエルキュールに近づく。


 「皇帝、陛下。おかえり、なさい」 

 「おう、カロリナ、ただいま。ところで俺はノヴァ・レムリアにお留守番していろ、と言ったはずだが?」


 エルキュールがそう言うと、カロリナは首を横に振った。


 「陛下は留守番をしろとはご命じになられましたが、どこで、とはおっしゃられませんでした」

 「おや……そうだったか? しかし俺の意図としては、ノヴァ・レムリアで待っていて欲しかったんだが」

 「……そうでしたか。それは、申し訳ございません。罰を私に下してください……その、今晩」


 カロリナは潤んだ瞳で、上目遣いでエルキュールに言った。

 カロリナは妊娠が発覚してから今日まで、一度もエルキュールと体を交わしていなかった。


 「ふむ……まあ、もう随分と時間が経ったし、大丈夫か」


 エルキュールはそう言ってカロリナの頭に手を伸ばした。

 サラサラの髪の感触を楽しんだ後、その頬にキスをする。


 カロリナの頬が彼女の髪の色と同じ、赤に染まる。


 「ところで、陛下。その、ルナリエに少し用があるので、良いですか?」

 「うん? 構わないが」


 カロリナは少し名残惜しそうにエルキュールから離れ……

 素知らぬ顔で海を眺めているルナリエに詰め寄った。


 「何で、陛下が今日いらっしゃることを言わなかったのですか!」

 「聞かれなかったから」

 「陛下が来ると分かったら、私に伝えなさいと言ったでしょう!」

 「忘れてた」

 「嘘をつかないでください!」

 「嘘じゃない」

 「嘘です」

 「嘘、違う」

 「この変態ドM無駄乳女」

 「黙れ、貧乳」


 喧嘩をし始めるルナリエとカロリナを見てエルキュールは……


 ああ、帰ってきたな。

 と、実感した。


 




 それからエルキュールは二晩をカロリナとルナリエと共に過ごした。

 そして昼間は連れてきたブルガロン騎兵一個軍団、中装騎兵カタフラクト一個軍団の欠員を補充し、再編成を行った。


 そして砂漠越えから三十二日目の朝、キュレーネ市を発とうとするが……


 「陛下、私も行きます」

 「いや、しかしだな……」

 

 エルキュールが朝起きると、すでに完全武装をしたカロリナが立っていた。

 

 「もう出産から日が随分と経ちました。これ以上、体を休めていたら、体が鈍ります」

 「……まあ、それもそうか」


 もうすでに軽く三か月以上も経過している。 

 問題ないだろう、とエルキュールは判断し、同行の許可を出した。


 「行ってらっしゃい、陛下」


 ルナリエはついてくるつもりはないようで、寝癖のついた頭で、眠そうに目を擦りつつ、ベッドの上から手を振った。

 そしてカロリナの方をチラッと見てから、言った。


 「戦に行った夫の帰りを待つのが、良妻だから」

 「何ですか? 私に何か言いたいことがあるなら、真正面から言ったらどうですか?」

 「陛下。行く前に一緒にお風呂に入ろう。それくらいの時間はあるでしょう?」

 「私を無視するな!」


 カロリナが怒鳴り声を上げた。





 


 キュレーネ市を発ったレムリア軍は、一日に約四十五キロの速度でアズダヴィア市へと向かった。

 驚異的な速度……のように見えるかもしれないが、中装騎兵カタフラクトとブルガロン騎兵、つまり騎兵だけで構成された部隊であること、兵站の心配の少ない国内での移動であることを考えると、エルキュールにしてみれば、その進軍速度は随分と余裕を持たせた速度である。


 エルキュールがアズダヴィア市の近郊に到着し、ガルフィスたちと合流したのはキュレーネ市を発ってから九日後。

 つまり砂漠越えから四十一日目のことであった。

 

 

 斯くしてアズダヴィア市近郊に集結したレムリア軍は……

 ガルフィス率いる重装騎兵クリバナリウス一個軍団。

 エドモンド率いるロングボウ部隊一個軍団。

 そしてダリオス率いる歩兵二個軍団。

 さらに偵察用の軽騎兵一個大隊の、総勢四九二〇〇に加えて……


 中装騎兵カタフラクト一個軍団とブルガロン騎兵一個軍団の合計二四〇〇〇が加わり、七三二〇〇となった。



 

 


 「ああ……もう、戦況が悪い方へ、悪い方へと傾いている」


 イアソンは溜息を吐いた。

 イアソンの率いる、アズダヴィア守備軍の総兵力は合計五〇〇〇〇。


 元々はアズダヴィア市を背にすることで、アズダヴィア市の城壁で背面を守る布陣で敵と対峙していたが……

 レムリア皇帝が直接率いてきた援軍、二四〇〇〇がやって来ると聞き、急遽城壁の内側へと逃げることにした。


 もっとも……この選択は獣人族ワービースト貴族の士官たちを激怒させた。

 敵を前にして、逃げるのか、この臆病者め!……とのことである。


 獣人族ワービースト貴族の士官たちの態度は、日に日に悪化しており……

 それもイアソンを悩ませていた。


 「バルバル族もテリポル市へと合流してしまうし……」


 丁度、レムリア軍がアズダヴィア市で合流をしたのとほぼ同時刻にイアソンの下に恐れていた情報が届いた。

 すなわち、バルバル族がテリポル市へと入城したという情報である。


 イアソンの懸念は完全に的中してしまい、テリポルタニア守備軍からテリポル市へと援軍を出したことで、逆に敵の増援を許してしまったのだ。


 バルバル族とレムリア軍は命令系統の異なる軍隊。

 願わくば連携が取れず、逆に足を引っ張り合って欲しい……

 と思いたいところだが、それは希望的観測である。


 そもそも野戦と異なり、籠城戦は比較的連携が取りやすく、素人でも十分に戦える戦闘である。


 「……逆にこちらの連携が取れてない可能性が高いしなぁ」


 テリポルタニア守備軍はイアソンの管轄であり……

 つまりテリポル市へと向かった、テリポルタニア守備軍からの援軍を率いる将軍はイアソンの部下、ホアメル派の軍人である。


 一方チェルダ守備軍はカーマインの管轄であり……

 チェルダ守備軍からテリポル市へと向かったという援軍を率いるのは当然、カーマインの部下だ。


 そしてテリポル市から脱したカーマインとその部下たちはチェルダ守備軍からテリポル市へと向かった援軍と合流し、今では実質的な指揮を執っているのはカーマインだという。


 つまりテリポル市をこれから攻めるのは、カーマインとホアメル派の将軍という……

 全く、異なる命令系統の軍隊だ。


 「しかも最悪なことに、両軍ともに攻城戦の準備をしていない」


 どちらもテリポル市を奪還しに向かったわけではない。

 テリポル市を包囲する敵を撃破しに向かったのである。


 双方、攻城戦をする準備もなければ心構えもしていない。


 もっとも……道中にある程度の準備、つまり長期戦に備えての兵糧や攻城兵器などをどれだけ揃えられたのかにも依るが。


 「……テリポルタニア守備軍だけは、これ以上動かすわけにはいかないな」


 この状況下でもし残りのテリポルタニア守備軍が、自分を助けにアズダヴィア市に向かいでもしたら最悪だ。

 テリポルタニア地方が完全に手薄になるのだ。


 そこへアズダヴィア市を回り込んだレムリア軍が侵入すれば……無抵抗のまま、テリポルタニア地方がレムリア帝国の支配下に落ちる。


 「完全に包囲される前に、命令書を出しておくか」


 イアソンはテリポルタニア守備軍の司令官に向けて、『絶対に』持ち場を離れないように命令を出した。




 「案の定、引き籠りましたね。皇帝陛下」

 「そうだなぁー」


 ダリオスの言葉にエルキュールは同意するように頷いた。


 「判断としては素晴らしいな。一切の間違いがない」


 エルキュールは笑みを浮かべた。

 唯一、砂漠越えは不可能である、ということを読み違えたことだけを除けばイアソンは今のところ殆ど戦略的・戦術的な間違いを犯していない。


 「しかしテリポルタニア守備軍の一部をテリポル市へと動かしたことは、失策ですけどね」

 「うーん、イアソンという将軍の性格的にあれはイアソンの意向じゃないような気がするけどな」


 もしかすると、何らかの事情でそうせざるを得なかったのかもしれない。

 と、エルキュールは予想した。


 「まあしかし……少なくとも、この判断に間違いはないだろうな」


 兵力差的に会戦をすれば敗北するのはアズダヴィア守備軍である。

 故に籠城戦に移行する、という選択肢はそう悪くはない。


 幸いなことにアズダヴィア市はそこまで都市人口は多くない。

 それに兵糧を溜め込む時間的猶予は戦争が始まってから、十分にあった。


 兵力差を考えると、籠城戦に限定するならばまず敗北はあり得ない。


 但し……


 「間違いではないが、正解ではないな」

 「全くですなぁー、陛下。どうやら敵は将兵の気持ちというモノを一切分かっていないように見える」


 そう言ってエルキュールとダリオスは笑った。


 「今まで援軍を送らずに裏目に来ていたんだぞ? それに……大切な上司が敵に包囲されているんだ。いくら助けに来るなと言われても……助けに行きたくなるのが、人情ってものだろうに」


 エルキュールはニヤリ、と笑みを浮かべる。

 ダリオスも同様に意地悪そうな笑みを浮かべた。


 「信用があるなら、別ですけどね。俺は陛下に助けに来るなと言われたら、助けにはいきませんが……」


 果たしてどれだけ部下からの信用があるのやら。

 二人は愉快そうに笑みを浮かべながら……アズダヴィア市の城壁を見つめていた。

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