第29話 絹と茶

 「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……も、もう無理です」


 セシリアは膝に手をつき、荒々しく息を吐く。

 銀色の美しい髪から汗が垂れ落ち、頬から顎を伝い、地面を濡らす。


 美人は汗まみれでも綺麗だなと、エルキュールは思った。


 「いやいや、まだ五周しか走ってないでしょ。あともう五周は走って貰わないと」

 「や、休ませてください……」

 「軟弱にも程があるんじゃない?」


 セシリアはニアから受け取った水をグビグビと飲む。

 ニアはあまり飲むと後から横っ腹が痛くなるから、控えるように言った。


 「ん、この水甘いですね」

 「陛下が運動用にお考えになられたお水です。ね?」 

 「ああ。レモン水に砂糖と塩を加えたものだ。悪くないだろ?」


 人間は汗を掻くとき、水分だけでなく塩分などの電解質も同時に失っている。

 というのは有名な話だ。

 

 セシリアのような軟弱者は大丈夫だと言い張って突然倒れるので、きちんと水分補給をさせないと危険だ。


 「休憩終わったね? さあ、あと五周」

 「っひ、え、エルキュール様、た、助けてください!」

 「五周程度大した量でもないだろ。頑張れ」


 エルキュールはニアに引きずられるセシリアを手で振って見送る。

 尚、走っただけで終わるほどニアのレッスンは甘くない。


 ニアによると、この後に腕立て伏せと腹筋、背筋、スクワットが待っているようだ。

 さらに護身術をいくつか教えるつもりらしい。

 貧弱セシリアを鍛えてやると、息巻いていた。


 (あいつ、俺以外には割とSだな)


 エルキュールはニアとの性行為を思い浮かべた。

 エルキュールになら何をされても良いと言わんばかりの甲斐甲斐しい奉仕は中々悪くはなかったが……

 セシリアを虐めている、今のニアの方が輝いて見える。


 (キャットファイトでもやらせるか)


 間違いなくセシリアが負けるだろう。

 そしてニアに良いようにやられるわけである。


 虐めるニアと虐められるセシリアの絵図を思い浮かべ、エルキュールは思わず笑みを浮かべた。

 






 セシリアの訓練を見学した後、謁見の間に向かう。

 エルキュールが玉座に座ってから暫くして、本日の客が謁見の間に入った。


 その人物からの報告を聞き、エルキュールは満足気に頷く。


 「よし、よくやったぞ。ジュリアーノ・ブランカ」

 「お褒め頂き、ありがたき幸せ」


 兄弟修道会会長ジュリアーノ・ブランカはエルキュールに頭を下げた。

 

 実は兄弟修道会会長はエルキュールからとある密命を帯びていた。

 それは東方にメシア教を布教し、拠点を作った上で……

 東方の国から絹の製法、及びチャノキを密かに盗み出すことである。


 チャノキは何とかなったが、絹は東方の国の重要な戦略物資でもあり、盗み出すのは容易ではなかった。

 しかしジュリアーノとその部下の修道士たちの活躍により、見事絹の製法と蚕、そして桑を盗み出すことに成功した。


 「これで我が国でも晴れて絹と茶を生産できる」


 無論、ノウハウは遥かに東方の国の方が上であるため最初は劣悪なものしか作れないだろう。

 しかしそれでも自国で生産し、これを輸出できるのは大きな一歩だ。


 「もしお前たちが私の家臣であるならば莫大な恩賞を与え、托鉢修道会でないのであれば金銭や土地を寄付したのだが……」

 「そのお言葉だけで十分でございます。……できればなお一層のご支援をお願い申し上げます」

 「ああ、分かっているとも」


 金銭や土地の支援はできないが、間接的に金銭を与えること……

 例えば一部の公共施設の利用料免除や活動拠点の永久貸与、船や馬の貸出などは可能だ。


 兄弟修道会の者たちにとって布教は神から与えられた使命である。

 

 エルキュールは布教の費用を安く抑えられ、そして兄弟修道会は不自由なく布教に専念できるなど、両者WIN-WINな関係だ。


 「ところで皇帝陛下、噂に聞くところでは姫巫女メディウム猊下と大変仲睦まじいとか」

 「レムリア皇帝と姫巫女メディウムの仲が良いことは、何か問題かね?」


 エルキュールがそう言うと兄弟修道会の会長は眉を顰めた。


 「いえ、我々としても喜ばしい限りです。聖俗共に力を合わせ、メシア教世界をより発展させていくことは神の御心にも沿うことでしょう。ただ……程々を心掛けて頂きたいなと」


 どうやら兄弟修道会の会長はあまりエルキュールとセシリアが堕落した関係になることを、快く思ってはいないようだ。

 仕方がないのでエルキュールはセシリアのためにも嘘を言っておく。


 「何か勘違いしているようだが、私とセシリアはふしだらな関係ではない。無論、親しい関係ではあるがね」

 「……本当ですか?」

 「ならばセシリアに確認すると良い」


 セシリアは絶対にこういうだろう。

 「証拠はあるんですか?」っと。


 「証拠はあるんですか、え、無いんですか? 無いのにそんなことを聞くんですか? それは私を疑っているんですか? 心外です、名誉棄損です。あなたは突然お前は同性愛者だ、証拠はないけどと言われたらどう思いますか? 嫌な気持ちになりますよね? せめて証拠を一つ二つ持ってきてから言ってください」と捲し立てるだろう。


 一言も「処女だよ」と言わないのがポイントだ。


 「しかしですね……」

 「実はユニコーンが手に入ってな。そのユニコーンがセシリアによく懐いている。近い内にユニコーンに騎乗するセシリアが見れるだろう。今は馬に乗る練習の真っ最中だが」

 「ゆ、ユニコーンですか? あの聖獣の?」

 「そうだ。ヌバ王国から仕入れた。それを見ればお前も含め、信じるだろう。それともユニコーンが信じられないか?」


 最強の処女厨生物ユニコーンが「うーん、これは処女w」と鑑定したのであれば、それは間違いなく処女と言っても良い。

 少なくとも一般人は確実に信じてくれるので問題ない。


 






 ジュリアーノと別れた後、エルキュールはアントーニオを呼び出した。

 

 「アントーニオ、羊の件だが……確か報告書によると成功したそうだな」

 「はい、陛下。完全な品種改良に成功いたしました。今は増やす準備をしております」


 アントーニオから直接の報告を聞き、エルキュールは満足気に頷く。


 繊維を布、服に加工する技術には大きな違いは存在しない。

 技術を転用できるのであれば、その転用できる範囲の産業を伸ばすのが効率的だ。


 少なくとも今まで一度も手を出したことが無いような産業に手を出すよりは。


 「帝国の物価はどうなっている?」

 「順調に地方でも上昇を始めております。ただ首都では貧富の差が拡大しているようです」

 「ふむ、面倒だな」


 特に凶作や天災が起こっているわけでもないため、基本的に物価が上昇しているということはそれだけ景気が良くなっていると判断して良い。

 が、物価上昇が過剰になるのはあまり良い傾向とは言えない。


 貧富の差がどうしても拡大してしまうからだ。


 貧富の差の拡大は治安悪化を招き、そして最終的に景気が退行する要因になりかねない。


 「いっそ、富裕税でも導入するか」

 「……富裕税、ですか?」

 「一定の所得以上の金持ちが有志で払う税金だ。高額納税者の名前は公表して称えてやるようにすれば、出すやつも出てくるんじゃないか?」


 金持ちになると罰金で金を盗られると判断されて、逃げられると困るのであくまで有志だが……

 できるだけ上から金を回収し、下に回さなければならない。

 

 税金には富の再分配としての役割もあるのだから。


 「社会福祉の拡大は急務だ。まあその辺はセシリアと協議して行うか……」


 今のところではあるが、教会との共同歩調は順調に進んでいる。

 

 帝国政府と教会の共同出資による孤児院や保護施設はノヴァ・レムリアだけではなくレムリア帝国全土に建てられ、そしてまた神学大学の設置も終わった。


 セシリアは宣言通り、エルキュールに対する協力を惜しまなかった。

 無論、セシリアはセシリアでタウリカ半島、ブルガロン、ヌバ、バルバル族、黒突、東方へとメシア教の布教事業を推し進めており、それは間違いなくエルキュールの利益に繋がっていた。


 両者の関係は良好そのものである。


 「皇帝陛下、アドルリア共和国はどういたしましょうか?」

 「ああ、あの小賢しい……捨てて置け。もう脅威ではない。折を見て滅ぼそう」


 アドルリア共和国は小さな都市国家でありながら、強力な海軍力を有していた。

 かつてはレムリア、チェルダ、アドルリアの三ヶ国が海を三分にしていた。


 しかしチェルダが海軍力を喪失し内乱状態になり、レムリアが海上の島々を取り戻し……

 さらに交易会社を設立して積極的な交易事業に参入すると、アドルリア共和国は一気にその力を失い始めた。


 レムリア帝国が設立させた交易会社はレムリア人ではなくとも参入できる。

 そのためアドルリア共和国に本拠地を置いていた商人たちは「別にアドルリア共和国に拘る必要もないのではないか」と考え、その本拠地をノヴァ・レムリアに移しつつあった。


 またそもそも大帝国レムリアと、小都市国家のアドルリア共和国では国家としての国力が違う。

 造船力ではレムリアが圧倒的に優っていた。


 「しかしフラーリング王国やエデルナ王国と手を組むと面倒では?」

 「何か気になる情報でもあるのか?」

 「ええ……アドルリア共和国の商人が両国の宮廷を出入りしているようです。それとチェルダ王国やトレトゥム王国にも」

 「ふむ……」


 チェルダ王国は内戦中であり、トレトゥム王国はレムリア帝国の友好国なので脅威ではない。

 だがフラーリング王国やエデルナ王国は少々面倒だ。


 「そうだな……そろそろ西方問題にも着手しなければ」


 エルキュールは面倒くさそうに呟いた。

 

 レムリア総主教座の奪還。

 それをしないことには、本当の意味での巻き返しとならない。


 「だがそれを行うには後顧の憂いを断たねばならない」


 後顧の憂い。

 それは内戦が終結しつつあるチェルダ王国の始末である。


 「そろそろ下ごしらえは終えたし、料理と食事に移るとするかな」


 エルキュールは笑みを浮かべた。

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