第26話 カウカーソス


 「ルナリエ、ハヤスタン兵を少し借りるぞ」

 「……はい?」

 

 ブルガロン戦争が終わって暫くした後、エルキュールは突如そんなことを言った。

 ルナリエは困惑した表情を浮かべる。


 「何で?」

 「屯田兵の入植が終わり、最低限の練兵もできた。となれば一度は実戦を経験しないと不味いだろう」

 「それは……」


 実戦を経験していようがしていなかろうが、弱い兵は弱く、強い兵は強かったりする。

 大事なのは実戦経験の有無ではなく、士気と日頃からの訓練だ。

 しかしそれでも実戦を一度経験したことがある軍と、したことがない軍では安心感が違う。


 歴史上、レムリアやファールスに蹂躙され続け、今まで一度もまともに勝利したことどころか戦ったことすらないハヤスタン人の兵士が、果たして有事の時にどれくらい役に立つのか……


 割と怪しい。


 エルキュールは合理主義的・論理的な人間なので、〇〇人はみんな弱い、〇〇人は臆病だ、などと非科学的なことはあまり言わない主義なのだが……

 そのエルキュールにしても、ハヤスタン人の国民性には些か不安を覚えていた。


 「お前らは負けるのは良くも悪くも得意なドM民族だが、相手に勝つのはてんでダメだろ」

 「失礼な。もしハヤスタン人が全員ドMだというのなら、私までドMになる」


 遺憾だ。

 とルナリエは主張するが……


 「なぁ、ルナリエ」

 「何? っひぐぅ」


 エルキュールはいきなりルナリエの髪を右手で強引に掴み、体を壁に押さえつけた。

 そして左手でルナリエの顔のすぐ横の壁を思いっきり叩き、そして髪を掴んでいた右手を離し、代わりに頬を鷲掴みにして上を向かせる。


 「……やっぱりドMじゃないか」

 「な、ど、どのあたりが!」

 「ほれ」


 エルキュールはルナリエに手鏡を見せた。

 そこには恐怖と痛みで表情を歪めながらも、少し頬を紅潮させ、期待の目で見つめる少女がいた。


 「……ま、まあ多少はそういうところはあるにしても! ハヤスタン人全員がドMというのは遺憾」

 「確かにお前レベルはそうそういないと思うが……」

 「私は少しだけ」


 ほんのちょっぴりそういう気質があるだけなのだ。

 と、ルナリエは主張した。


 そんなルナリエをエルキュールは無視しつつ言う。


 「歴史書を紐解くとなんというか、お前たちは今までまともに勝ったことや戦ったことが無い割には今の今までしぶとく生き残り続けている。幾度も綱渡り外交を繰り返しては成功させる火事場の外交センスと、その立ち位置を利用したビジネスだけは得意みたいだな」


 ハヤスタン人が住み着いた土地はどうにも大国に囲まれ、侵略されやすい土地のようで、レムリアやファールスだけでなく、幾度も様々な国々に侵略されてきたが、侵略者が滅ぶことはあってもハヤスタン人の国家が亡ぶことはなかった。


 その場で一番強そうな相手の靴裏を舐め続けるのがハヤスタン流外交術である。

 

 普通なら蝙蝠扱いで滅びそうなものだが、よほど舐めるのが上手なようだ。

 

 「そうそう、最近アリシアにも足を良く舐めさせてるんだがやっぱりお前が一番上手いな」

 「それはどうも……嬉しくない」


 少し嬉しそうな顔をルナリエは浮かべた。

 実はルナリエは立場が似通っているアリシアに対し、密かに対抗意識を燃やしていたのだ。


 「それでどこを攻撃するの? まさかファールス?」 

 「そんなわけあるか」


 今、ファールスとの関係は改善しているのだ。 

 ただでさえ西で揉めているというのにわざわざファールスと揉め事を起こして東側でも敵国を作るほど、エルキュールはドMではない。


 東西、左右を超大国に挟まれ、前と後ろをガンガン突かれまくるのが大好きなハヤスタンとついでにルナリエとは違うのである。


 「北カウカーソス地方を支配下に組み込む。無論主力はレムリアだが、ハヤスタン兵も参加させる。丁度近いしな」

 「北カウカーソス……カウカーソス山脈の向こう側」


 ルナリエは脳裏に地図を思い浮かべた。


 カウカーソス地方はアーテル海とハザール海に挟まれた地域であり、カウカーソス山脈により南北に分かれている。

 南カウカーソスに位置するのがハヤスタン王国であり、北カウカーソスにはいくつかの小さな……国家とも言えないレベルの集落が点在している。


 「あそこはチェルノーゼム黒土も分布していて土地も肥えている。何よりあそこを抑えればアーテル海の沿岸部を全て手中に収めたことになる」


 アーテル海を内海にすることがエルキュールの目的だ。

 現在ノヴァ・レムリアは少なくない量の小麦をアーテル海沿岸部から輸入しており、これを安定的に確保できるようにアーテル海の制海権を抑えるのは安全保障上必須……とまではいかないが、望ましい。


 「黒突は良いの?」


 ルナリエは最大の懸念を口にする。

 北カウカーソス地方と黒突は接しているのだ。


 今のところ北カウカーソス地方に黒突は侵入していないが、北カウカーソス地方にレムリアが入植することは、両国の関係にひびを入れかねない。


 「それについては沿岸部を領土に組み入れる分なら構わないとあちらからの了解を得ている。まあ交易の窓口にもなるしな」


 両国ともに北カウカーソス地方全てをその手に収めようとは思っていない。

 北カウカーソス地方はレムリア・黒突の緩衝地帯なのだ。


 「なるほど」

 「分かったな? じゃあ借りるぞ。それと士気を上げるためにお前にも来てもらう」

 「うん、ヤダ」

 「……躾が必要みたいだな」


 エルキュールは自分の命令を拒否したルナリエに、低い声で言った。

 ルナリエはビクリと体を震わせながらも主張する。


 「ハヤスタン王国の利益がない。……利益のない戦争にハヤスタン人の血を流したくない」

 「我々レムリアはハヤスタン王国のために血を流してきたが?」

 「それはそれ、これはこれ。……そもそもそれはレムリアにとっても利益があるからでしょ?」


 レムリアにとってハヤスタン王国は戦略上の要所。

 そのため守るのは当然のことである、といけしゃあしゃあとルナリエは主張する。


 「ハヤスタン王国にも分け前を頂戴」

 「図々しいな」

 「でもそうしないと士気が上がらない」


 関係のない戦に駆り出されても士気が上がらず、ただでさえ弱いハヤスタン兵が余計に弱体化するため、より役に立たなくなる。


 ほんの少しでも良いからハヤスタン王国の利益になると知れば、ハヤスタン兵もやる気になるはずだ。

 とルナリエは主張した。


 なるほど、一理あるとエルキュールは考え……


 「カウカーソス山脈の向こう側の土地を少し切り取ってやろう」

 「本当に?」

 「嘘はつかん。その代わりカウカーソス山脈の原住民共と戦うのはハヤスタン兵だ」


 カウカーソス山脈に住む原住民、蛮族は時折ハヤスタン王国に侵入することがある。

 規模が規模なため大きな損害はないが、ハヤスタン王国にとって困りごとであった。


 またハヤスタン王国は古くから北カウカーソス地方、そして北カウカーソス地方を縦断した向こう側にある黒突と交易を行っており、その貿易ルートで必ず通過しなければならないカウカーソス山脈とその山脈の向こう側の土地を自国領内に組み込むことは、経済的にも意味がある。


 ちなみにハヤスタン王国の財政収入の少なくない割合を占めるのは、レムリア・ファールス・黒突間の中継貿易だったりする。

 これはレムリアにも利益が出るため、エルキュール公認だ。


 「じゃあ頑張る」

 「まあ頑張るのはお前じゃないけどな」


 斯くしてハヤスタン王国軍初の実戦が始まった。







 「うーん、まあ流石に相手が相手だから負けはしないか」

 

 まず手始めにとエルキュールはタウリカ半島側から南進して兵を進め、ハヤスタン王国軍と共に北カウカーソスに攻め込んだ。

 本来であればレムリア軍がタウリカ半島から南進し、ハヤスタン王国軍が北進するというのが理想だが……

 エルキュールはハヤスタン兵の強さを全く信用していなかったため、わざわざタウリカ半島まで兵を連れてきて、一緒に攻め進む形になっている。


 幸いにもエルキュールが懸念していたほどハヤスタン兵は弱くはなく、よく戦っていた。

 無論、百戦錬磨のレムリア兵には及ばないが。


 「お前も中々、指揮が上手いな。ヴァハン、とか言ったか。どうだ? レムリア軍に来ないか?」


 エルキュールはハヤスタン王国軍を指揮している将軍、ルナリエの母方の祖父であるヴァハン・カルーランに声を掛けた。

 エルキュールが声を掛けると、ヴァハンは首を横に振った。


 「私がいなくなればハヤスタン王国軍を指揮できる者はいなくなるでしょう。それに私はハヤスタン人であり、ハヤスタン国王の臣下です。皇帝陛下の家臣ではありません」

 「ちょ、お爺様」

 

 ルナリエはヴァハンを咎める。

 今の発言はエルキュールの機嫌を損ねかねない。


 しかしエルキュールは特に気にした様子も無さそうに言った。


 「それは残念だ。まあその国王は今は俺の妻だが」

 

 エルキュールはそう言ってルナリエを抱き寄せた。

 ルナリエは困った表情を浮かべる。

 祖父の目の前のはさすがのルナリエも気不味いのだ。


 「へ、陛下。ここでは……」

 「何だ、恥ずかしいのか? 可愛いところもあるものだな」


 エルキュールはルナリエにキスしながら言った。

 そしてヴァハンにウィンクを飛ばす。


 「できるだけ早く曾孫を見せてやろう」

 「それは期待しております。……私にとっては女王陛下である前に、可愛い孫娘なので」

 

 ヴァハン自身はあくまでハヤスタン王、ルナリエの臣下でありレムリア皇帝、エルキュール臣下ではないという立場を突き通しているだけであり……

 決してエルキュールが嫌いというわけでもない。


 曲がりなりにも現在、ハヤスタン王国が平穏でいられるのはエルキュールのおかげだ。

 それにルナリエもエルキュールのことを好いている。

 ならばヴァハンとしては、あとは曾孫と王太子の誕生を待つだけであった。


 「さて、沿岸部を手中に収めた後はカウカーソス山脈の蛮族どもを屈服させる。ヴァハン・カルーラン、お前の活躍に期待している」

 「はい、皇帝陛下」



 その後数か月かけて山岳部の蛮族たちは一掃された。

 レムリア帝国はアーテル海の全沿岸部を手中に収めることに成功し、そしてハヤスタン王国もカウカーソス山脈とその北側の土地を領土に組み込むことになった。

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