第22話 ベレジュエン峠の戦い 後
その日は大雨だった。
ザーザーと降り注ぐ雨が大地を濡らし、泥濘を作り出す。
ただしかつてレムリア帝国が敷設した石畳の道路は健在で、泥に足を取られることなくブルガロン軍は進軍を続けることができた。
ブルガロン王は一〇〇〇〇〇を超える騎兵を揃え、侵攻してきたレムリア帝国を撃退するために山脈を超えていた。
「おのれ、クロム氏族とテリテル氏族め……この戦争が終わったら、今に見ておれ」
ブルガロン王は怒りに身を震わせていた。
特にクロム氏族の裏切りには腹を立てていた。
もっともクロム氏族から言わせてみれば「最初に裏切ったのはそちらだ」となるのだが。
「売国奴共め……アリシア・クロム!!!」
ブルガロン王はレムリア帝国に国を売った売婦、アリシアの名前を叫ぶ。
アリシアがその身をレムリア皇帝に売って命乞いをし、結果クロム氏族がブルガロン王国を裏切ったというのはもうすでに多くのブルガロン人が知るところになっていた。
この話を聞いた者が抱く感想は三種に分けられる。
一つ、「アリシア・クロムは淫売であり、レムリア皇帝に絆されて国を売った卑怯者である」
二つ、「アリシア・クロムはクロム氏族のためにその身を暴君に捧げた薄幸の姫である」
三つ、「アリシア・クロムがそうせざるを得ない状況に追い込んだコトルミア氏族は恩知らずの薄情者共だ」
一つ目の感想は主にコトルミア派のブルガロン人、二つ目はレムリア派のブルガロン人やレムリア帝国臣民、三つ目はテリテル氏族を始めとする中立派のブルガロン人のものである。
但し、中には例外もいる。
「あ、アリシア……どうして、大丈夫かな……」
一人、ウジウジと悩んでいる男。
ブルガロン王国の王子であり、アリシアの婚約者であったテレリグだ。
テレリグはアリシアがそのような暴挙に出た理由が自分にあると悔いていた。
酷い言葉を投げかけてしまったと、後悔していたのだ。
そして同時に……
「アリシアは本当に、そんなことをしたのだろうか……」
アリシアの裏切りに必ずついてくるのは、アリシアがレムリア皇帝の靴を舐めたという噂だ。
それだけでなく公衆の面前で全裸にされたとも、犯されたとも伝えられている。
自分の所為でアリシアを不幸にしてしまったという自責の念と、アリシアを奪われたという喪失感や身を焼くような嫉妬、レムリア皇帝への憎悪がテレリグの中を渦巻いていた。
「テレリグ、ぼさっとするな!!」
「は、す、すみません父上」
ブルガロン王に叱られ、テレリグは我に返った。
ブルガロン王は鼻で笑う。
「あのような淫売のことは忘れろ。どうしても欲しいのであれば、戦で勝てばいい。その後、手足でも削ぎ落として達磨にでもしてしまえ。そうすれば二度と勝手な真似はできんからな」
「は、はい……」
怒り心頭のブルガロン王に言われ、テレリグは曖昧に頷いた。
さすがのテレリグも女性の手足を切るような趣味はない。
「今は戦いに集中しろ。もしかしたらレムリア帝国の伏兵がどこかに潜んでるやもしれない」
ブルガロン王がそう言った、その時だった。
ブルガロン王やテレリグの頭上を黒い何かが覆い尽くした。
優れた武人である二人はすぐにそれが矢の雨であると気付き、慌てて盾を構える。
一瞬で盾がハリネズミのようになってしまう。
「どこからだ!!」
「森の中の茂みからです! あ、雨で視界が悪く、数は分かりませんが……お、およそ一〇〇〇程度です!」
「レムリアの長弓兵共か! 小賢しい真似を……」
ブルガロン王はすぐに兵を送り、レムリア帝国の伏兵を排除しようとする。
が、先程の奇襲攻撃でブルガロン王やテレリグと共にいた高い地位の武将が数人負傷し、一部指揮系統に乱れが生じてしまい、思うように伏兵を排除することができなかった。
そして……
「こ、国王陛下! た、大変です!! 後方から敵襲! は、旗はクロム氏族のものです!!」
ブルガロン軍は阿鼻叫喚の渦に陥った。
アリシアの作戦はこうである。
ブルガロン軍は主に騎兵で構成されており、その進軍ルートは歩兵以上に非常に限られる。
特に山越えでは顕著であり、一定の道路幅があり、しっかりと整備された道しか通ることはできない。
故に必ずブルガロン軍はベレジュエン峠を通過する。
森の中に潜んだニア率いる一二〇〇が奇襲攻撃を仕掛けて一時的に指揮系統を麻痺させ、さらに背後に周り込んだアリシア率いる二〇〇〇〇のクロム氏族とジェベ率いる一二〇〇、合計二一二〇〇が奇襲を仕掛ける。
問題はどのように背後に周り込むかだが……
アリシアは婚約者として、幾度もテレリグの下へ……つまりコトルミア氏族の領域に足を運んでいた。
当然、このベレジュエン峠にも幾度も訪れたことがある。
先回りすることも、小道を利用して背後に周り込むことも可能だった。
「一斉射開始!!」
「射撃開始」
アリシアとジェベの号令で矢が放たれ、一斉に矢がブルガロン軍に降り注いだ。
同時に重騎兵が突撃し、ブルガロン軍を追い込む。
「我々も負けていられません。突撃開始!!」
ニアは兵士に短槍を持たせると、自ら先頭に立って突撃した。
背後を奇襲され浮足立ったところを、さらに側面から殴られたブルガロン軍は大混乱に陥る。
足が止まった騎兵はもはや脅威ではない。
身動きが取れなくなり、完全に恐慌状態に陥ると……
一部のブルガロン兵たちは南から押し寄せる歩兵から逃れようと、北へ移動を始める。
一度人の流れが出来てしまえば、もはや冷静な者たちも逆らえない。
そして……
北は断崖絶壁が待ち受けている。
「ま、まて、お、お、押すな! ぐわぁぁぁぁ!!!」
ブルガロン兵は次々と崖の底へと落下していく。
悲鳴が谷底に響き、さらに混乱に拍車が掛かる。
「へ、陛下! こ、ここはお逃げください!」
「っく、分かった。テレリグ、逃げるぞ! 南だ!!」
「は、はい父上!」
ブルガロン王とテレリグは馬から下りて僅かな護衛を連れて南へと移動をする。
それは正解だ。
二人の現在地はどちらかと言えば後方なので、前方に逃げようとすれば時間がかかり、その間に混乱に巻き込まれてしまう。
だが後方に逃げるわけにもいかず、そして崖の北は論外。
南が最もレムリア軍の包囲が甘く、そして森の中は木々が視界を遮るため逃走が成功する可能性が高い。
だが……
「逃がすか!!」
偶然にもブルガロン王とテレリグの二人を視界に捕らえたニアは、服装から瞬時に二人が高位の将軍だと判断し、単身で襲い掛かった。
身体能力強化の魔術を何重にも掛けたニアの速度はあまりにも早く、あっという間に追いついてしまう。
「へ、陛下とテレリグ様をお守りしろ!!」
護衛達はニアの前に立ちはだかる。
「邪魔よ!!」
ニアは剣を抜き放ち、次々と護衛の兵士たちを切り捨てていく。
そして逃げる二人に向かって、ナイフを二本投擲した。
偶然にも木々が邪魔をしてブルガロン王に向かって投げられたナイフは当たらなかったが……
テレリグに向かって投げられたナイフは、見事にテレリグの足に刺さり、テレリグを地面に縫い付けた。
「っく、お、おのれ……」
「残念ですが、ゲームオーバーです。くちゅん、長い雨に打たれた甲斐があった! まさか王子を捕まえられるなんて!! ……王を逃がしたのは痛かったけど」
ニアは嬉しそうに笑みを浮かべた。
ニアの妄想の中のエルキュールが、ニアの頭を優しく撫でてくれる。
「へ、へいかぁ……こ、これは大戦果ですよね? い、今までの戦果も含めて、だ、抱いてくださいますよね!! ああ、どうしよう!! な、何色の下着を履けば良いんだろう……やっぱりここは初心な感じで白? で、でも意外に黒とかの方が良かったり……ピンクも可愛くて良いし、うーん、迷うなぁ。セシリアと一緒に買いに行こうかな」
妄想を垂れ流すニアを見ながら、テレリグは思わず溜息を吐いた。
よりにもよってこんなのに捕まるとは、と。
「氏族長! 陛下が逃げたと報告が!!」
「氏族長! 皇太子殿下が討ち死にしたと……」
「討ち死にしたのは陛下ではないか?」
「討ち死にではなく、お二人とも捕まったと……」
各氏族長たちに、情報が集まるが……
どれも確かなものではなかった。
唯一分かるのは、彼らの君主とその跡継ぎが戦場から消えたということである。
「……帰還するぞ」
「よろしいのですか?」
「君主がいないのに、これ以上この混乱状態の中で兵を減らす意味もない」
「氏族長! 他の氏族たちが続々と退却しています!」
「……ならば、我らも退却するか」
「退却だ!」
「君主が逃げたというのに、戦争なんぞやっていられるか!」
氏族長たちは各々の判断で、タイミングは違えども、戦場から離脱していく。
斯くしてレムリア軍はベレジュエン峠の戦いで大戦果を挙げ、エディン崖の戦いでのリベンジを成し遂げたのであった。
ベレジュエン峠の戦い
交戦勢力
レムリア帝国+クロム氏族VSブルガロン王国
主な指揮官
エルキュール・ユリアノス
ジェベ
ニア・ルカリオス
アリシア・クロム
戦力
レムリア軍(戦闘に参加していない兵は除く)
騎兵 二一二〇〇
歩兵 一二〇〇
合計 二二四〇〇
ブルガロン王国
騎兵 一〇〇〇〇〇
結果
レムリア軍 損害軽微
ブルガロン王国 死傷者約二〇〇〇〇 捕虜二〇〇〇〇 撤退六〇〇〇〇
レムリア帝国の勝利
備考
レムリア帝国の勝利が決定的となる
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