第15話 その勝利は敗北への一歩

 ルナリエは走っていた。


 戦争中、ルナリエはブルガロン王国と最も近いレムリア帝国内の都市で兵站の指揮を執っており、食糧や矢を戦場のエルキュールの下に送り続けていた。

 

 今回もあのエルキュールならば無事に勝って戻ってくるだろう……

 そう思っていた矢先に、エルキュールが敗北したという情報がルナリエの耳に飛び込んできた。


 しかもエルキュールが「死んだ」「行方不明」「意識不明の重体」など情報も様々で、エルキュールの身に何が起こっているのかルナリエには全く分からなかった。


 しかもその後、敗北したレムリア軍に対してブルガロン軍は総攻撃に出たらしく……

 レムリア軍は今まで占領した都市の殆どを放棄して、退却せざるを得なくなった。


 そして敗北の情報が届いてから約一週間後。

 ようやくレムリア軍がレムリア帝国領内に帰還したのだ。


 ルナリエは居ても経ってもいられず、馬に乗って国内に入ったばかりのレムリア軍の野営地に向かった。

 

 そして今、エルキュールが寝ているという天幕に小走りで向かっているところであった。





 「皇帝陛下!!!」


 ルナリエは警護の兵の静止を振り切り、天幕に入った。

 そこでルナリエが見た光景は……




 「陛下、あーん」

 「あーん」


 カロリナにリンゴを食べさせてもらっているエルキュールだった。

 よく見ると左手でカロリナの臀部を撫でている。


 ルナリエはその場にへたり込んでしまった。


 「ルナか、どうした?」

 

 エルキュールが尋ねると、ルナリエはフラフラと立ち上がり……

 エルキュールの下まで歩み寄った。


 「こ、こんな時にイチャイチャして……私がどれだけ心配したと思ってるの!!」

 「何だ、心配してくれたのか? 可愛いところがあるじゃないか」


 エルキュールはそう言って左手でルナリエを抱きしめ、その唇に自分の唇を押し当てた。


 「べ、別に心配なんてしてない」

 「さっきと言っていることが真逆だな」


 エルキュールは苦笑いを浮かべ、ルナリエを離した。

 ルナリエは真っ赤な顔でそっぽを向いた。


 「その様子だとやっぱり陛下が死にかけたってのは誤報?」

 「いや、それは本当だ」


 エルキュールはそういって右腕を上げた。

 それを見て、ルナリエは目を見開いた。


 肘の少し上あたりから、先が無くなっている。


 「カロリナが斬り落としてくれるのが数瞬遅れてたら、お前たちよりも先に神の下に行く羽目になっていた」

 「だ、大丈夫……なの?」

 「もう傷は塞がっている。幻肢痛も俺が契約している悪魔が何とかしてくれているから、痛みもない。まあ少し不便にはなるがな」


 エルキュールはそう言って肩を竦めた。

 片手を失った分、身の回りの事は召使にやらせれば良いだけのことだ。


 「問題があるとすれば少し見栄えが悪くなったのと、もう狩猟で弓を引いて鹿や猪を撃てないことと……両手でお前らの胸を揉むことができないことだ。本当に残念だよ、胸が二つあるのに俺が揉めるのは一つだけなんて」


 心底残念そうにエルキュールは言った。

 これにはルナリエも呆れ顔を浮かべてしまった。


 「本当に大丈夫そうだね」

 「今はな。だが意識不明だったのは本当だぞ? 割と本気で死ぬかと思った」

 

 エルキュールはそう言って溜息を吐いた。

 今はもう大分回復したが、数日前までは高熱でうなされていたのだ。


 「しかしこれでついに俺の戦績にも黒星がついてしまったな。加えて取り返した都市の殆どがブルガロンに奪われ、二〇〇〇〇以上の兵を失った」


 不幸中の幸いは長耳族エルフの死傷者は比較的少ないという点だ。

 夜目が効きやすい長耳族エルフの方が、混乱状態にはなりにくかったのだ。

 もっともそれを加味しても大きな損害なのは間違いないが。


 「一先ず歩兵に関しては屯田兵で、騎兵は予備役で埋めるしかない。だがこの損失が回復するまで下手な軍事行動は取れないな。ファールスがどう動くか、心配だ。まあシェヘラザードもいるし、黒突との同盟もあるからいきなり攻め込んできたりはしないだろうが」


 失った物は大きい。

 エルキュールは憂鬱そうに言った。


 「ブルガロンとはどうするの? 講和を結ぶ?」


 ルナリエが尋ねると、エルキュールは首を横に振った。


 「まさか、これで俺がビビって講和を結んだらブルガロンの思う壺だろう」


 そして……

 エルキュールは左手を強くベッドに叩きつけた。


 カロリナとルナリエは思わず身を竦ませる。


 「停戦を申し込んで置きながら、それを即日に破って奇襲攻撃。さらに狙いすませたように大軍による追撃。実に腹立たしい……」


 エルキュールは怒気を含んだ声で言った。


 「多少、略奪するくらいなら……まあ許してやろう。だがな、俺の大事な右手を奪ったんだ。この代償は高くつくぞ、ブルガロン……そしてアリシア・クロム」


 エルキュールは自分の右腕を奪った女の名前を呟いた。


 「ああ、良いさ。徹底的にやってやる。もう全面降伏以外、ブルガロンからの講和の申し込みは受け入れない。徹底的に滅ぼし、征服してやる。短期決戦は止めだ。長期戦に移る。今に見ていろ、ブルガロン……」


 今まで見たことがないほど残虐な笑みを浮かべ、殺意と怒りを発するエルキュール。

 カロリナとルナリエは思わず体を震わせ、抱き合った。








 「さすがアリシア・クロムだ。おかげで逆転出来た……君が我が息子の婚約者であることは、本当に心強い」

 「ありがとうございます、王よ」


 アリシアはブルガロン王の前で跪き、王からのお褒めの言葉を受け取った。

 その様子をテレリグは苦々しい顔で見る。


 「テレリグ、お主もアリシアを見習うと言い」

 「は、はい……父上」


 テレリグは悔しそうな表情を浮かべた。

 

 今回、アリシアの活躍が無ければブルガロン王国はレムリア帝国に多くの都市を奪われ、屈辱的な講和を結ぶ羽目になっていた。

 そうなればコトルミア氏族の名声は地に落ちる。


 コトルミア氏族、そしてテレリグはアリシアに救われたのだ。


 しかしテレリグは素直にアリシアの活躍を喜べずにいた。

 アリシアに感謝する気持ちと、その大勝利を祝う気持ちもあるのだが、同時にその軍事的な才覚と功績を妬む気持ちも強かった。


 「ははは! 実に気分が良い!! これでレムリアも諦めて撤退するだろう」


 あちらから講和を申し込むのであれば、受けても良い。

 ブルガロン王はそう思っていた。

 無論、貢納金の支払いを要求するつもりだ。


 愉快そうに笑うブルガロン王の下に……

 外交を担当している家臣が飛び込んできた。


 「王よ、レムリア皇帝からの親書が届いております!」

 「ふむ、講和の申し入れか」


 嬉しそうな顔でブルガロン王は親書を受け取る。

 そして封を割り、中を確認する。


 そこには……



 『親愛なる犬共へ


 どうやらブルガロンの野蛮人、いや犬共には約束を守るという最低限のことすらもできないらしい。

 よって今から地上に於ける神の代理人、レムリア帝国皇帝エルキュール一世の名に於いて最後通牒を行う。

 

 一週間以内に全面降伏しろ。

 さもなければブルガロン王国は地図の上から消えることになる』


 

 思わずブルガロン王は親書を床に叩きつけた。


 「誰が犬だ!!」


 ブルガロン人にとって、「犬野郎」というのは最大の侮辱だ。

 エルキュールはそれを分かっていてこのように書いたのである。



 「ええい!! 講和なんぞ、絶対にしない!! 全面戦争だ!!!」


 ブルガロン王はそう宣言した。









 「よ、宜しいんですか? 陛下」


 思わず聞き返してしまった官僚に対し、エルキュールは怒ること無く繰り返した。


 「問題無い。該当地域に含まれる村、都市の住民は皆退去させろ」


 エルキュールは対ブルガロンとの防衛線を下げるように命じた。

 ブルガロン王国との国境線近くにある、全ての村や都市の完全放棄を宣言したのだ。


 その上で……


 「退去させた住民たちを使って、要塞と監視塔を作らせろ。ブルガロン王国に続く全ての街道を封鎖させる。そしてその要塞近くには屯田兵を大量に入植させる。最悪、現在住んでいる住民を追い出しても構わない」


 ブルガロン王国とレムリア帝国の国境の完全封鎖。

 それがエルキュールが官僚に命じたことであった。


 「そして全ての商人に通達……ブルガロン人と商売をした奴は死刑だ。レムリア人が無許可でブルガロン王国に行くことも固く禁じる」


 さらにエルキュールはトドリスを呼びつけ、ブルガロン王国と隣接している小さな部族国家に外交圧力を掛けて、ブルガロン王国との商取引を止めさせるように命じた。

 無論、鞭だけでは商取引を止めるとは思えないので、商取引停止の見返りに援助金を出すこと――飴――を約束する。


 一通り命令を出し終えてから、エルキュールは不敵に笑った。


 「お前らは農耕民との交易が無ければ生きていけない。そしてお前たちと大規模な取引ができるのは我が国だけだ。さて、何年持つかな?」

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