第2話 口喧嘩


 「うう、ひっぐ、ひっぐ……ふえーん……」

 「おいおい、あまり泣くなって。なあ? あいつには言い聞かせておくから」


 エルキュールは泣きじゃくる銀髪の狐娘、ヒュパティアを慰める。

 ハンカチで涙を拭いてやった。


 二人の前に紅茶とお菓子を置きながら、シファニーは尋ねた。


 「……何があったんですか?」

 「セシリアがヒュパティアを虐めたんだよ」


 エルキュールがそう言うと、シファニーは首を傾げた。

 セシリアは素晴らしい人柄の持ち主であり、相手が異教徒だからといって虐めるような人間ではない。


 「どういうことですか?」

 「まあ虐められたというよりは、ヒュパティアが一方的に負けただけというか……少なくともセシリアの奴に悪気はないし、セシリアが悪いとは一概にも言えないんだけど」


 エルキュールはそう言いながら、事の経緯をシファニーに説明した。






 そう、それは今から三日ほど前のことであった。

 お茶会の最中にセシリアはエルキュールに頼み込んだ。


 「あ、あの……陛下。前、陛下が私に貸して頂いたこの本の作者、ヒュパティアさんに会わせて頂けませんか?」

 「ヒュパティアに?」


 エルキュールは首を傾げた。

 エルキュールはセシリアに数々の本を貸して来た。

 その中にはヒュパティアの書いた本もいくつかあった。


 ヒュパティアは気弱でビビりだが、非常に優秀な学者なのだ。


 「は、はい……この哲学の本には非常に感銘を受けました! ですから、できればお会いしたいなと。そ、それと……その、ヒュパティアさんが良ければアレクティア図書館にある大学にも行ってみたいなと……」


 セシリアは小さな声で言った。

 これにはエルキュールも目を丸くした。


 ヒュパティアは異教徒であり、セシリアからすれば許せない存在のはずだ。

 まあ哲学なら異教徒だろうとメシア教徒だろうとあまり関係ないかもしれないが……

 その異教徒の巣窟でもある大学にも行ってみたいというのは、あまりにも意外だ。


 「良いのか、異教徒だぞ?」

 「メシア教徒であろうと、異教徒であろうとも優れた賢者である点は変わりませんし、知識に宗教は関係ありません。異教徒の知識にも学ぶべきところはたくさんあります! 私も学者の方々と意見を交わし合いたいのです!」


 キラキラした目でセシリアは言った。

 気持ちは分からないでもない、とエルキュールは思いながら紅茶を飲む。


 エルキュールも神学だったり哲学だったりと、そういう論議をするのは決して嫌いではない。


 それにアレクティア図書館の大学には、メシア教徒もそれなりにいる。

 さすがにメシア教の最高指導者である姫巫女メディウムが乗り込むのは前代未聞だが、聖職者が出入りすることそのものは別に珍しいことではない。


 「まあ、良い。三日後、ヒュパティアがこの宮殿に来る予定だからその時に紹介してやる」

 「ほ、本当ですか! でも何でこの宮殿に?」 

 「う、うーん、まあ、ほら、茶飲み友達なんだよ」


 そっち関係に厳しいセシリアに対して、「セフレなんだ」というわけにもいかずにエルキュールは曖昧に誤魔化した。

 が、しかしなぜかセシリアは顔を真っ赤に染めた。


 「え、エルキュール様。そ、そういうのはですね、不健全です! 不潔です!!」

 「……茶飲み友達から連想して、しっかり正解に辿り着ける君の妄想力には脱帽だ」

 

 エルキュールがそう言うと、セシリアの顔がさらに赤く染まった。

 案外、むっつりスケベなのかもしれない。


 そこでエルキュールは試しに質問してみる。


 「なあ、セシリア……一週間に何回くらい自慰をする? ちなみにニアは三日に一度だけど」


 さりげなくニアの個人情報を流出させつつ、エルキュールは尋ねた。

 するとセシリアは怒鳴るような声で言った。


 「そ、そんなことするわけないじゃないですか!!」

 「本当に本当?」

 「本当に本当です!!」


 どうやら本当にしていないようだ。

 エルキュールにはとても考えられないことである。


 「じゃあムラムラした時はどうしているんだ?」

 「ム、ムラムラなんてそもそもしません!」


 そう言うセシリアの声は少し震えていた。

 一応、したくなる時はあるようだ。 

 それを頑張って堪えているのかと思うと、エルキュールは非常に興奮してきた。


 後でしっかりとシファニーに処理して貰おうと誓う。


 「まあ、それはともかく……三日後に来い。ヒュパティアに合わせてやる」





 そして当日……

 

 「ヒュパティア、この人がメシア教最高指導者姫巫女メディウム猊下だ。失礼が無いように」

 「ひ、ひぃ……す、すみません! い、異端審問だけは勘弁してください!!」


 ヒュパティアはそう叫ぶとその場から逃走を図ろうとする。

 エルキュールはその首根っこを抑えた。


 「落ち着け、セシリアにそんな意志はないから。ほら、セシリアからも」

 「ヒュパティアさん、お会いしたかったです。そ、その……あなたの本を読んでとても感銘を受けました! できればお話しを聞かせて貰えませんか!!」


 セシリアはヒュパティアに詰め寄った。

 ヒュパティアは困惑した表情を浮かべたが……セシリアがその胸に自分の書いた本を抱いていると気付くと、丁寧に頭を下げた。


 「ご、ご、ごめんなさい。え、えっと、あ、ありがとうございます。わ、わ、私の、ほ、本を読んでくださって。え、え、ええっと、お話し、ですか? す、少しなら……だ、大丈夫です!」

 「本当ですか!!」


 そういうわけでエルキュールも交えた三人でお茶会が始まった。

 最初は緊張していたヒュパティアだが、セシリアが無害であり、そして人柄も優れていると分かるとその緊張も解けて、セシリアと楽しそうに談義を始めた。


 ある程度場が温まったのを感じるとエルキュールは立ち上がった。

 そろそろ政務に戻らなくてはいけないからだ。


 「じゃあ、一時間後に戻る。二人とも、楽しんでくれ」

 「はい!」 

 「は、は、はい!」







 「で、一時間後に戻ったらヒュパティアが号泣しててな。セシリアがおろおろしていて……まあ取り敢えずセシリアの方は先に帰らしたんだけど」

 「それで結局、ヒュパティア様はどうして泣いておられるのですか?」


 シファニーが尋ねると、エルキュールはヒュパティアの頭を撫でながら答える。


 「俺が席を外している間にメシア教についての話に移ったらしくてな、セシリアがヒュパティアを論破しちゃったのよ。それでショックを受けてヒュパティアは泣いているんだ」

 「ヒュパティア様が言い負けるとは思えませんが……」


 学問についてはよく分からないシファニーだが、ヒュパティアが偉い学者であることは知っている。

 それに比べてセシリアは姫巫女メディウムだが、まだ十代の小娘だ。


 「セシリアはああ見えて、口が上手いんだよ。実は最近俺も負けることがあってな」

 「へ、陛下が負けることがあるんですか!」

 「あ、ああ……最近、すっかりあいつ、口が達者になってな」


 セシリアは基本的に正論しか言わない。

 その上、しっかりと論理武装してくるのだ。

 

 エルキュールは詭弁や話題逸らしをして、昔はセシリアを翻弄していたのだが……


 「最近のあいつの口癖は『それは詭弁ですね』『話を逸らさないでください』『それは科学的ではありません』だな」


 エルキュールがそう言うと、ヒュパティアの泣き声がさらに強くなった。

 日頃メシア教を「非科学的だ」として批判してきたヒュパティアにとって、その最高指導者から「科学的ではありませんね」と言われ、反論できなかったのは相当堪えたようだ。


 「まあ考えてみれば、神学ってのはメシア教に対する攻撃を跳ねのけ、さらに他宗教を攻撃するために発展して来た学問だからな。ヒュパティアがセシリアに勝てるわけがない」


 こういうのは仏教だろうとイスラム教だろうとキリスト教だろうとユダヤ教であろうとも同じである。

 歴史の長い宗教はしっかりと論理で武装しているのだ。


 少なくともド素人が簡単に思いつくような批判は、尽く反論できる。

 

 できるからこそ、勢力を広げてきたのだ。

 それができない宗教は歴史に名を残すことなく、消えていった。


 確かめたい方は宗教勧誘のおばさんにでも、何か質問を投げかけてみれば良い。

 彼彼女らなりに論理的な答えが返ってくる。


 「それにヒュパティアは口下手で気弱だ。口達者で気の強いセシリアに勝てるわけがない」


 何しろこれから後見人を頼もうというレムリア皇帝に対して堂々と真正面から「聖職叙任権を皇帝が握るのは間違っている!」と批判ができるほど、セシリアは気が強いのだ。

 そんなセシリアと、相手が誰であっても、それこそ奴隷であってもおどおどしてしまうヒュパティアが口論をすれば、ヒュパティアがセシリアに押し切られてしまうのは自明だろう。


 これが手紙などの文章を媒体にした議論だったら、もしかしたらヒュパティアも戦えたかもしれないが。


 「ま、まあ……セシリアも悪気は無いんだ。あいつはちょっと、気が強くて負けず嫌いだから。な、許してやってくれ」

 「ぐす、い、いえ……悪いのは私なのです。あ、相手をひ、批判するあまり……自分自身についてちゃんと考えていませんでした。こ、これを機会に身を振り返ろうと思います」

 「ついでにメシア教に改宗してくれたら俺としてもセシリアとしても嬉しいんだけど」

 「そ、それはお断りします……」


 残念ながら、心の底では負けたとは思っていないようだった。






 その後、セシリアがヒュパティアに謝ったことで事態は収束した。

 それ以後、セシリアとヒュパティアは定期的に議論したり、手紙を交わしたりし合う関係になる。



 ……が、しかしヒュパティアは相変わらずセシリアには口では勝てず、エルキュールに助けを求めることが多々あった。

 

 またヒュパティアがセシリアに対して強い苦手意識を抱いたため、両者の関係が友達に発展することは無かったという。


 

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