第26話 教皇即位
さてリナーシャが嫁いでから三か月が経過し、六月となった。
もうこれだけの時間が経つと、レムリアと黒突が婚姻関係を結んだことは世界中に知れ渡ることとなった。
困ったのはファールス王国である。
レムリア帝国と黒突、両側からの圧力がさらに強まったのだから。
ササン八世の困った顔が思い浮かび、エルキュールは非常に愉快な気持ちになった。
また友好関係が深まったこともあり、両国の交易も活性化した。
エルキュールが黒突に求めたのは馬である。
遊牧民族である黒突の育てている馬は名馬揃いであり、騎兵の増強を常に行っているエルキュールからすれば是非とも手に入れたかった。
一方黒突が欲したのは小麦などの穀物や、香辛料などの一部の贅沢品だ。
大陸の草原地帯の覇者であり、東西に跨る大帝国である黒突だが……
南方の島々を原産地とする香辛料などは、手に入りにくい。
それらをレムリア帝国経由で入手できることは大きな意義があった。
逆にレムリアへはファールス王国を経由せずに、多くの絹が輸入されることとなった。
まあ元からこれらの交易は行われていたのだが……
益々これが活発化したのである。
だが全て上手く行ったというわけでもない。
一部ではエルキュールを「自国の利益のために姉を売った」などと揶揄する声が上がっていた。
これはレムリア帝国の内外からである。
あながち間違っていないのが難しいところだ。
とはいえ、婚姻関係を結んだからと言って早速ファールスを挟撃しようなどということにはならない。
依然としてファールスは強大な国である。
エルキュールは特に軍を動かすことなく、内政に注力していた。
六月は小麦の収穫期である。
レムリア帝国は各地によって気候が全く異なるため、凶作の地域と豊作の地域がある。
だが今年は国全体で比較的凶作となった。
エルキュールは小麦価格を引き下げるために、タウリカ半島からの小麦輸入を増やそうと小麦
他にも都市で餓死者が出る可能性も考えて、配給する小麦の量を増やそうと家臣たちと協議していると……
ある知らせがエルキュールの耳に入った。
曰く、ミスル属州で動乱が発生している。
小作料に不満を持った農民たちが結集し、貴族たちの館を包囲し……小作料を下げろと主張している。
今のところ貴族の死者はいないが、動乱に巻き込まれた者の中には怪我人もいて、流通にも悪影響を及ぼしている……とのことである。
それを聞いたエルキュールは笑みを浮かべた。
「ようやくか、待ちくたびれたぞ」
動乱について指示を出した後、エルキュールはカロリナ、ルナリエ、ニアと共にお茶会を開いていた。
シファニーが三人のカップにお茶を注ぐ。
「まあ、当たり前の話なのだが……普通、上がった分の地税を補うために貴族は小作料を上げる。何しろ人頭税と地税を一体化させる、という名目で地税を上げたんだ。ならば貴族たちが今まで小作人が支払っていた人頭税を自分たちが負担しているんだから、小作人からの小作料を上げるのは道理だと主張するのは当然と言えば当然なのだよ」
「はぁ……まあ、確かにおっしゃる通りですが」
エルキュールの説明を聞き……
なるほどと、カロリナは頷いた。
人頭税が引き下げられたことにより、一時的に小作人の生活は改善した。
そして小作人たちはエルキュールを支持した。
だが貴族たちは翌々年辺りから、「お前たちが支払っていない分だけ俺らが払ってるんだがら、その分を払え」と主張して小作料を引き上げたのである。
借りている立場であり、主張自体決して間違っていない……むしろ地税を上げた理由を考えると正統な物なので、小作人も文句は言えない。
斯くしてレムリア帝国の小作料は引き上がったのだ。
どうせ上げるのであれば、地税の損失分以上も引き上げてしまおうと考える貴族も当然いる。
今まで真面目に人頭税を支払っていた農民たちにとっては、プラマイゼロか少し上がった程度だが……税金逃れをしていた農民たちからすれば、一気に負担が増大した形となる。
つまり小作人は窮乏していたのである。
まあエルキュールからすれば税金が入れば割とどうでも良かったので、放置していたのだが。
一見、悪徳貴族と搾取されている可哀想な小作人の構造に見えなくもない。
だが貴族は貴族で必死なのだ。
貴族も贅沢三昧をして生きているわけではない。
借金の無い貴族は稀だし、中には土地を手放さなさなくてはならなくなる者も大勢いるのである。
もし仮に貴族たちが小作料を上げなければ、二十年以内に三分の一以上の貴族家が没落することになるだろう。
貴族からすれば「何で俺たちが小作人の税金まで納めてやらねばならんのだ」となるのは当然である。
元を質せば人頭税を誤魔化し続けた農民たちの自業自得と捉えられなくもない。
どちらが一方的に悪いというわけではない。
「だがここで大切なのは……ミスル属州で発生した動乱は反乱ではないということだ。彼らの怒りの矛先は貴族であり、私ではない。ここは勘違いしてはいけない」
税金の軽減や借金帳消しを求める一揆だったり、宗教弾圧に対抗するために国民が一致団結して国に対して、エルキュールに対抗しようという運動ではない。
この動乱に参加しているのは対立している一部の地主貴族と、小作人である。
自作農からすれば傍迷惑などんちゃん騒ぎであり、良好な関係を維持している貴族・小作人からすれば他人事だ。
「まあつまりだ。ここで俺が仲裁すれば俺の権威が上昇するというわけだよ」
エルキュールはドヤ顔で言った。
しかしそんなエルキュールにルナリエは突っ込む。
「でもさ、暴れれば要求が通ると勘違いされない?」
「良い質問だ、ルナリエ君」
エルキュールはニヤッと笑みを浮かべる。
「当然、首謀者は皆殺しだ。そして動乱に参加したものには罰金刑を課す。まあちゃんと支払えるように、分割払いだがね」
どんな理由があったとしても、騒動を起こして良い理由にはならない。
レムリア帝国の君主として、秩序を優先するのは当然のことである。
「ところで……待っていた、というのはどういうことでしょうか? 陛下」
ニアはエルキュールに尋ねた。
カロリナやルナリエも気になっていたところなので、二人もエルキュールの顔を見る。
「何でって……小作人の生活を豊かにさせたかったからな」
「そういう振りは結構ですから、本当のところを教えて頂けませんか?」
カロリナがそう言うと、エルキュールは心外だと眉を顰めた。
「失礼だな、人を何だと思っているんだ。俺が民の生活水準を上げたがって何が悪い。俺は君主だぞ? まあ……より正確に言えば小作人の生活水準を上げることで、経済を活性化させることが目的なわけだが」
レムリア帝国は割と地主、自作農、小作人がバランスよくピラミッド型の人口を構成している国家だが、どちらにせよ小作人の割合が高いのは事実だ。
彼らの経済力を底上げすることで、レムリア帝国全体の国力を上昇させることがエルキュールの目的である。
そのためには貴族が困窮しない程度に加減しつつも、小作料を引き下げてやる必要がある。
「なるほど、それで……具体的にはどうするの?」
ルナリエは尋ねた。
今回の動乱はミスル属州のごく限られた地域でのことであり、当然それだけでは帝国全体の小作人が豊かになることはない。
「そもそも今回の動乱の原因は何か? というと帝国全体で小麦が凶作だったことにある。調べてみたところ、今回動乱が起きた貴族の多くは固定地代……つまり支払う小麦の量を予め定めていた。そして小作料の軽減を一切しなかった」
小作料にもいろんな支払い方がある。
金納と物納。
固定制と収穫率制。
時代遅れの場所では労働地代などもあったりする。
つまり……動乱を起こした小作人の小作料を収穫率制にした上で、軽減してやれば良いのだ。
「さらに……小作人が貴族に対して逆らえない、異議を申し立てることができないことが根底にある。こうやって直接運動を起こさなければ受け入れて貰えない……そう思ってしまうような環境がそもそもの問題だ。となると、解決策は……異議を申し立てる場所、つまり地主と小作人間の紛争を処理する裁判所の設置だ」
「しかし……貴族優位の判決が出ませんか? 小作人に優秀な弁護士が雇えるとは思えませんし……」
ニアは首を傾げた。
経済力は無論、貴族と小作人では人脈に大きな差がある。
裁判を下す裁判官は官僚や貴族といったインテリ層であり、当然小作人よりは地主側の人間である。
「だから開墾修道会に頼もうと思っている。農地のことも詳しいしな」
「なるほど!」
ニアは納得の色を浮かべた。
開墾修道会は土地の寄進すらも拒否するような集団である。
小作人たちのためになるならば、と僅かな寄付金でも喜んで協力するだろう。
さらに根が真面目なので、賄賂も受け取らない。
さらに農地には非常に詳しいため、どのような採決をすれば良いか分かる。
そして……農民たちからの信頼も厚い。
「ただ開墾修道会だけというのもあれだし、兄弟修道会やその他の修道会の修道士にも参加を打診する予定だけどな」
ただ兄弟修道会はその活動を主に海外に移してもらうし、聖修道会は貴族側の集団だ。
やはり適任なのは開墾修道会である。
「そこまで具体的に考えておられるのであれば、初めからやっておけば良かったのではありませんか? 陛下」
「まあ、それもそうだが……地主からの反発があるからな。やっぱり一度、怖い目に遭っておかないと反省しないだろ?」
政策に必要なのは如何にその政策が必要であるかを説明することだ。
如何に優れた政策でも、「別に今のままで何か支障があるの?」と言われて答えられないようではダメだ。
そして……例え答えられたとしても、それを納得させるには一度必要性をしっかりと自覚する必要がある。
今回のことでミスル属州の地主たちは相当怖い目にあったはずだ。
そして他の地方の地主たちも明日は我が身ではないかと不安を覚えているはず。
本来は貴族を抑圧する政策だが……
このタイミングで出すことによって、逆に貴族の心配を緩和する政策に変わるのである。
「貨幣改鋳をすれば確実に物価が上がる。そうすると経済的弱者は打撃を受けるからな。今のうちに改善しておきたかった。丁度このタイミングで起こってくれたのは僥倖だ」
エルキュールは満足気に頷いた。
「さて……後は都市の貧困層を何とかしないとな。こいつも改鋳の前に手を出さないと不味いが……」
エルキュールがそう言うのと同時に……
ドタドタと走る音が響いた。
トドリスだ。
「こ、皇帝陛下……ここにおりましたか! 御無礼をお許しください!! 急報でございます!?」
「どうした?」
「め、
これにはさすがのエルキュールも目を見開き……
体を硬直させた。
それは……
エルキュールの、レムリア帝国の西方政策・宗教政策が引っくり返ったことを意味していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます