第8話 ニア 

 しんしんと雪が降る。

 空から白い雪が、ふわふわと地面に降り立っていく。


 道行く人々は肩に積もった雪を払いつつ、小走りで道を歩き、そして家族と温かい食事が待つ、自宅へと急いで帰っていく。

 

 今日は前夜祭。

 メシアの誕生を祝う、降臨祭の前日である。


 妻は御馳走を作るために早くから台所に立ち、夫は家族に送るプレゼントを用意するために奔走する。

 子供たちは大人たちの準備を手伝いながら、両親から貰えるプレゼントに思いを巡らせる。

 

 昨日の皇帝の誕生日以来、ノヴァ・レムリアはお祭り気分に染まっていた。

 

 レムリア皇帝も祝い事になり、気分が良いのか……

 普段は『財政を圧迫する』と文句を言っていた、貧民へのパンの配給について、今日は肉入りのスープも配るように指示したり、子供たちに美味しい食事を与えるように、宮廷予算を割いて孤児院に予算を回していた。


 誰もが浮かれ、笑っていた。

 故に……


 誰も気が付かなかった。


 薄汚い路地裏に、ボロ雑巾のように汚れ、痩せた少女が倒れていることに。

 

 雪は静かに少女の体に降り積もる。

 少女は雪を振り払う体力も無いのか、目を虚ろにさせ、少しずつ死への階段を上っていた。


 (……死ぬ、のかな?)


 少女はぼんやりと、思っていた。

 それも良いかもしれないと、少女は思った。


 この一年、生ごみを漁り、時にはスリをして、何とか生き延びてきた。

 いつか、誰かが助けてくれると、神様が自分を助けてくれると、信じてきた。


 なるほど、確かに少女以外の浮浪児には救いの手が差し伸べられた。

 エルキュールという名の、とても神とは呼べない人間の屑だが、人一倍虚栄心の強い男のおかげで、多くの子供たちは命を繋いだ。


 しかし少女には、その手は差し伸べられなかった。


 その手は少女だけを払いのけたのだ。

 

 魔族ナイトメアだから、と。


 

 魔族ナイトメア


 それは古くから……、それもメシア教が生まれるよりも前、レムリア帝国が建国されるよりも前。

 ずっと、ずっと大昔……一万年前に絶滅した種族である。


 高い知性、驚異的な身体能力、莫大な魔力、長い寿命……

 あらゆる種族を凌駕する、その能力で一時は魔族ナイトメアは世界を征したと言われている。


 しかしその力に溺れ、堕落し……

 他種族に反旗を翻され、その地位から転落し、虐殺され、迫害され、そしてついに滅亡した。


 だが、その血は決して絶えたわけではなかった。

 ごくまれに……先祖返りを引き起こす者もいる。


 それが少女だった。


 魔族ナイトメアには三種類の特徴がある。

 一つはお尻から生える、悪魔のような尻尾。

 もう一つは両目に宿る魔眼。

 そして頭から生えた黒い、一本の角だ。


 もともと人族ヒューマンの両親に産まれた少女には、それらの特徴は無かったが……

 十歳を迎え、第二次性徴が始まるのと同時に少しずつ、その魔族ナイトメアの特徴が覚醒を始めた。


 魔族ナイトメアが生まれたことで、少女の両親の関係は一気に冷え込み、離婚。

 少女は母親に引き取られることになったが……

 離婚の直接的な原因になった少女が母親に愛されるわけもなく、虐待を受け続けた。


 最終的に母親が、妻に先立たれた子連れの男性と再婚することになり……

 魔族ナイトメアの子供がいたことを理由に、婚約を破棄されることを恐れた母親によって、十一歳の時に家を追い出された。


 『お前は俺の娘じゃない! 俺の血の中に魔族ナイトメアの血が入っているはずがない。二度と、俺の前にその面を見せるな!!』

 『あんたなんか、産まなきゃ良かった。あの男とあんたのせいで、私の血の中に魔族ナイトメアの血が入っていると思われる。もう二度と話しかけないで!!』


 少女の耳には、今でもその両親の言葉がこびり付いていた。

 

 昔は……

 少女の体に魔族ナイトメアの特徴が出てくるより前は、少女はちゃんと両親に愛されていた。

 

 少女の誕生日は前夜祭と重なっていて……

 前夜祭(誕生日)、降臨祭と続けて、両親からプレゼントと暖かい食事と、そして愛を貰っていた。


 今、少女に与えられるのは寒さと飢餓と孤独だけだ。


 (……もう、疲れた)


 いくら生きても、少女に優しい言葉を掛けてくれる者は一人もいない。

 誰もが少女が魔族ナイトメアだと分かれば、石と罵倒を投げかけた。


 心優しいメシア教の司祭も、皇帝の命を受けて孤児の保護をしていた官僚や兵士も、少女だけは人間と扱わず、追い払い、助けてくれなかった。

 

 街の喧騒の中に、子供たちがお菓子やぬいぐるみを強請る声が聞こえる。

 

 かつては少女も享受していた幸せで、そして今は手を伸ばしても決して手に入らない幸せだ。


 (……誕生日、だったな……今日は)


 楽しかった、昔の記憶が走馬灯のように少女の頭の中を駆け巡る。

 同時に今、少女を襲う寒さ、空腹、孤独、そして死の恐怖がより強調される。


 少女の目から、一滴の涙が零れ落ちた。


 少女は目を閉じる。 

 もう、目を開けることさえも疲れてしまう。


 寝てしまおう。

 そうすれば、もう二度と目覚めることはなく、寒さも、空腹も、孤独も、恐怖も感じることはない。


 とにかく、楽になりたかった。

 

 生きるのを諦めた少女は、全身の力を抜く。

 すると不思議と、楽になった。


 (……天国に、魔族ナイトメアは行けるのかな?)


 きっと、行けないだろう。

 おそらく、行先は地獄だ。


 魔族ナイトメアなのだから、当たり前だ。


 でも、地獄でも良い。

 少なくとも、孤独になることは無いだろう……


 そう、少女が考え……

 意識を手放そうとした、その時だった。


 「おい、大丈夫か? クソガキ?」


 男性の声が聞こえた。

 少女は薄目を開ける。


 少女の目の前には、長耳族エルフの男性が立っていた。

 驚くほど整った顔立ち。黒い美しい髪の毛に、海のように青く美しい瞳。

 厚い、高級そうな毛皮のコートを羽織っている。


 「おい、聞こえているか?」


 少女は男性の言葉に答えなかった。

 体力が無かった、というのもあるが……


 意味がないことを、知っているからだ。

 今まで、何度も声を掛けられたことはあった。


 そしてついに神様が自分を助けてくれると、期待した。

 しかし自分が魔族ナイトメアだと分かった途端、逃げるように去っていってしまう。


 この男性も、自分が魔族ナイトメアだと分かれば逃げ去るだろう。

 もしかしたら暴力を加えるかもしれない。


 だから少女は男性の問いに答えない。

 意味がないからだ。

 どうせ、これから死ぬ。


 「ふむ……妙な尻尾が生えてるな。それに黒い角もある。もしかして魔族ナイトメアか? なるほど、ならば炊き出しや孤児院に助けを求められないのも頷けるな」


 男性はぼそぼそと呟きながら、少女の後ろに周り込む。

 ボロボロの、服と呼べるか分からない、少女が身にまとう布切れに手を突っ込んで尻尾を全て引きずり出す。


 「なるほど、文献通りだな。しかし……三角形、というよりハート型だな。尻尾は。個体によって差があるのか?」


 青年は再び少女の正面に戻り、そして少女の髪の毛を掴み、目を覗き込む。


 「これが魔眼か? ぱっと見、変わらない気がするが……」


 青年は興味深そうに、少女を眺める。

 そして少女に手を伸ばした。


 「まあ、何はともあれ……ノヴァ・レムリアのガキは全員助けてやると、孤児の保護政策を決めた時から、心に決めてあった。魔族ナイトメアだか、何だか知らんが……俺の国で、俺の不注意によって、助けられるガキが死ぬのは後味が悪い……」


 そして、青年は少女に尋ねる。


 「生きたいか? それとも死にたいか? 生きたかったら手を伸ばせ。もしくは首を縦に振れ。それもできないなら、俺を見つめろ。死にたいなら、そのまま目を瞑れ。あとで、墓くらいは用意してやろう」


 (生きたいか? 死にたいか?)


 今まで頑張って生きてきた。

 でも、辛いことばかりだ。それこそ、死んだ方がマシなくらいだった。


 死んだ方が楽だ。

 

 少女は目を瞑ろうとして……

 

 「い、生きたい……」


 青年に手を伸ばした。

 青年が少女の手を取るのと同時に、少女は気を失った。


 「そうか、分かった。助けてやろう」


 


 


 後に少女は語った。


 『神様は私を助けてくれなかった。でも、陛下は、陛下だけは私を助けてくれた。だからこの命と体は全て、陛下に捧げます。陛下のためならば、何だってやります。陛下の行くところなら、砂漠だって、海だって、地獄だって行って見せます。世界が、神様が陛下の敵になっても、私は絶対に陛下を裏切ったりしない。なぜなら、私にとって陛下は神様で、世界であり、全てなのだから』



 この少女こそ、後にエルキュール帝十五柱臣の一人にして、エルキュール帝の右腕と呼ばれ、

 ダリオス・レパードと並び、唯一軍事的な思考に於いてエルキュール帝に付いて来れた将軍。

 もっともエルキュール帝に信頼された家臣であり、異性として寵愛を受けた女性の一人。

 そして後世に於いて、最もその人生を戯曲化された女性。



 『悪鬼』のニアである。

 

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